匿名性について、もう一度

上記のブログと匿名性に関する文章を書いたあとになって、たまたまid:ueyamakzkさんのサイトの、この記事を読むことができた。

http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20040923

読みながらかんがえたこと。
ネットで議論をする場合、それが成立するために開示されているべき、発言者についての情報というものがある。さまざまな属性とか、趣味や考え方とか。そのなかに「実名」まで含まれる場合は、そう多くないだろう。
ぼくの場合、このブログをやっているわけだから、ここで書いたりコメントしている限りは、一応発言主体としての同一性は背負っている。だが、これもじつは難しいところで、ネットで公表されている実名が実生活上のそれとは限らないばかりでなく、複数の人たちが(柿本人麻呂藤子不二雄みたいに)一つのハンドルネームを名乗って運営しているブログというものも、じつは存在するのだろう。だから、「発言主体」というくくり方もあまり意味がないかもしれない。
むしろ、ある事柄について発言する場合、自分の立場がどこにあるかを明確にするための情報、いわば、発言に関してのアイデンティファイを保証する情報は、開示されているべきだろう。これは、自分の属性ということもあるが、度重なる発言機会を通して一貫した主体が話しているという保証が必要だということだ。これが、発言責任であり、紹介したサイトのなかで言われていた「恥をかけるだけ」の自己を提示する、ということであろう。
これは、いわゆる「実名」である必要はなく、発言の場における自己の同一性に責任をもつ、ということだろう。
これが、ネットでの議論の基本的な倫理となる。これを制度的に確定することは、たいへん難しい。「倫理」に期待するしかないみたいだ。
やはり、「実名/匿名」という、生活世界での区分法は、ネットの社会にはそのまま持ち込めないのだろう。
いずれにせよ、「発言に関しては責任をもって匿名を使う」ということが、とても大切だとおもう。


でも、上のサイトのなかの、「くだらないことを言ってしまったときに恥をかく」という規定は、分かりやすいなあ。
また、「コミュニケーション・コスト」の話も、本当にそのとおりだとおもう。
それから、「発言と利害」という話は、『千のプラトー』のなかに、そういうことが詳しく書いてあった。また機会があったら書きます。


時期はずれのトラックバックですみません。