『正義への責任』

 

 

「訳者あとがき」(岡野八代・池田直子)によると、著者のヤングはもともとマルクス主義フェミニズムの米国における代表的な論客として知られていた人のようである。しかし、遺著となった本書を読む限りでは、その思想は、リベラル(個人主義自由主義)の価値観・世界観を土台とした倫理学、責任論の構築を目指すものであるという印象を受ける。

 その立場からヤングは、経済のグローバル化によって拡大する「構造的不正義」に対処する規範として、「社会的つながりモデル」という考え方を提示しているのである。

 ここでいう「構造的不正義」とは、こういうものだ。

 

『ここでの不正とは、構造的不正義である。そしてそれは、少なくともつぎの二種類の危害や不正と区別される。つまり、個々の相互行為から生じるとされるもの、そして、国家やその他の権力をもった諸制度の特定の行為や政策に起因するもの、である。(p78)』

 

『構造的不正義は、個々の主体や国家の抑圧的政策の不正行為とは異なる種類の道徳的不正である。構造的不正義は、多くの個人や諸制度が、一般的な規則と規範の範囲内で、自らの目的や関心を追求しようと行為した結果として生じるのだ。(p90)』

 

『構造的不正義とは、たいてい制度上の規則の範囲内で、大半のひとが道徳的に許容されていると考える実践に従って行動する、何千、いや何百万もの人びとによって生産され、再生産されている。(p169~170)』

 

ヤングのいう「構造的不正義」は、個々の行為(悪意や暴力を含むだろう)や権力から区別された、かなり抽象的なものとして想定されているのではないかと思われる。この不正義を結果的に生みだす個々の行為者は、基本的には善意のプレーヤーであるというわけなのだ。

こうしたものとしての「構造的不正義」に(のみ)対処する責任の論理として提唱されるのが、(過去に為された個々の罪や責任を問う「帰責モデル」とは区別された)「社会的つながりモデル」だ。

 

『社会的つながりモデルでは、不正な結果を伴う構造上のプロセスに自分たちの行為によって関与するすべての人びとが、その不正義に対する責任を分有する。この責任は、罪や過失を誰かに帰す場合のように、主として過去遡及的ではなく、むしろ、主に未来志向的である。構造上の不正義に関して責任があるということは、その不正義に対する責任を分有する他の人びととともに、わたしたちには、不正な結果を生む現在の構造上のプロセスをより不正でないものに変革する義務がある、ということを意味している。(p172)』

 

未来に対して義務(責任)を負うというのはよいのだが、過去における罪や過失の責任を問うことは、この「未来志向」の義務をときに妨げることさえあるものだと考えられているようである。そうすると、未来志向的な責任の強調は、結局は、過去に対する責任をバックレることの巧妙な正当化になりかねないだろう。

この点に関しては、「序文」でマーサ・ヌスバウムが展開しているヤングへの批判が見事なものだと思うので、少し引用しておく。

 

『わたしが考えるに、罪と責任の区別のなかで、後ろ向き/前向きといった概念区分を維持するのは、実際には非常に難しい。(中略)もし、わたしたちが、(構造的不正義に加担した者には、問うべきではないと考えられている)後ろ向きの罪と、(問うべきだと考えられている)前向きの責任との、はっきりとした区別に固執し、こうした議論をするならば、結局は、人びとは永遠のフリーパスを手に入れるだろう。というのも、彼女たち/彼らが担い損ねた課題は、その帳簿の借方項目、つまり罪側に記載され、新しい課題はつねに、彼女たち/彼らの未来に待っているからだ。この議論とは対照的に、わたしたちは、つぎのように考えるべきであろう。つまり、もし、社会問題Sに対して、Aが責任Rを負いながらも、その責任をそのときに果たさず、そして、一定の時間が経つならば、自分の責任を果たさなかったという罪があるのだ、と。』

 

さて、僕がヤングの議論に違和感を抱くのは、根本的には、彼女の言う「構造的不正義」なるものが、現実の社会関係から権力の不均衡性を消去した抽象的な理念にしか思えないからである。

社会にこの不正義が生じるのは、社会関係そのものが不均衡をその土台にしているから(つまり資本制的であるから)であって、それを変革しようとするならその土台を否定する以外に根本策はないはずだが、ヤングはそうは主張しないのだ。だから彼女の議論は、資本主義の論理の外側には出られないものだと思う。

そのことは、ヤング自身よく分かっていたはずだ。次のように書いてるのだから。

 

『構造的不正義に関する責任の一要素としての権力の問題は、不正な構造に関連して重大な権力をもつ行為主体は通常、不正義の存続に関心があるということである。構造が生みだす不正義は通常、そこに参与している行為主体によって設計されたものでも意図されたものでもないが、それは、しばしば権力をもつ行為主体が抱いている目的から予期しうる結果である。もし、そうした行為主体が自分たちの目的は合法的だと信じており、かつ、他からの異論があってもともかくその目的を果たすことができるのであれば、そこから利益を得ているのだから、あるいは、構造の変革はあまりに高くつくと考えて、存続させようとするだろう。(p262)』

 

明察であるが、ほんとうのところは、「不正な構造」は「重大な権力をもつ行為主体」によって意図され設計されたものなのだ。少なくとも、現在においてはそう言い切るべきだろう。

ヤングの思想は、資本主義内的な(つまりリベラルな)倫理思想の限界を、その極めて高度な洗練と達成において示していると、僕は思う。

ガンとの闘病のなかで書かれた、以下の本書の最後の一節は、そうしたものであると同時に、深く私たちの心を打つものでもある。

 

『白人存在の特権を認めることは、集団としてであれ、個人としてであれ、白人が、集団あるいは個人としての黒人に対して支払う義務を負っていると主張することではない。しかしながら、不正な結果を生む人種化された諸構造から利益を得ている人びとは、特権を認識し、その特権が歴史的不正義と連続性をもつことを認め、そしてこの特権を与えてくれる諸制度の変革に取り組む義務をもって行動せよという、特別な道徳的そして政治的責任へと、当然のように呼びかけられるだろう。たとえ、そのことによって、そのひと自身の環境と機会が、呼びかけに応じなければ手にしていたであろう状態に比べて、より悪いものになってしまうとしても、である。(p336)』