まなざされる私

「対他存在」を論じた『存在と無』の第三部(ちくま学芸文庫版 巻2)のなかで、サルトルは「対象‐他者」と「主観‐他者」の二つを区分して、次のように書いている。

私はただちに、「まなざしを向けられている」ことを、確信をもって体験するが、しかしそれにしても、私はこの確信を、「対象‐他者」についての私の体験の内に、移行させることはできない。事実、この確信が私にあらわにしてくれるのは、「主観‐他者」、すなわち世界への超越的な現前であるとともに私の「対象‐存在」の現実的な条件であるような「主観‐他者」でしかない。それゆえ、いかなる場合にも、「主観‐他者」についての私の確信を、この確信のきっかけとなった「対象‐他者」のうえに移すことは、不可能である。(p152)


この「対象‐他者」というのは、日常の世界のなかで私によって対象として見出される他者の存在のことだが、一方、「主観‐他者」とは、「まなざしを向けられている」という強烈な意識(感情)のなかで私に体験される他者の存在のことである。
暗闇で不意にライトで照らされたり、何か秘密の行為をしている時に背後に人の気配を感じたときなど、私は無防備に、誰かの視線にさらされて「対象」にされている自分を、自覚する。要するに、不意に誰かのまなざしのもとに置かれている(置かれうる)自分、他人をまなざしによって対象化する主体ではなく、他人に対象化される脆弱で(主体の立場から)失墜した存在としての自分というものを、自覚せざるをえなくなるのである。
それは、羞恥や恐怖という感情のさなかにおいて体験される、私の存在の姿(相)だ。

羞恥は、根原的な失墜chuteoriginelleの感情である。(p184)


サルトルの他者に関わる思想において肝心なことは、主体であることに(多くは無自覚に)安住している、主体であるという事実を相対化できると思うほどに強固に安住している(すなわち特権的な)私が、逆に誰かのまなざしのもとで対象化される存在でもあるということを強調したこと、そして、その(対象化されうる)存在の相(「主観‐他者」の体験のおいて露呈される)こそが(とりわけ私の)生において重要なものだということを、明確に主張したことだろう。
私は、主体であるだけでなく、それよりももっと根本的なところで、(他者)の対象である(ありうる)、という事実、確信。
それこそがサルトルがここで提示した重要なもので、それは決定的な転回を意味していたと思う。


実際、その後の西洋の思想家たち、たとえばドゥルーズ=ガタリの「情動」や、デリダの「動物」といった概念、またたぶんアガンベンのような人も、このサルトルの発見と提起を継承する形で、そうした考えに到達していったのだと思う。
つまり、ポストモダン思想の「脱主体」といっても、それは主体の責任から気軽に抜け出して自由になる、というようなことではなく、もはや主体であることに安住できない、他者によってまなざされ、脅かされた脆弱なものである『防ぎようもないわれわれの対象性』(p184)を自覚するということであって、そうした根原的な生の次元(相)において私の生と、私と他者との関係(「対象化する‐対象化される」という関係の重み)を引き受ける、といったことだったはずである*1


要するに、「私が主体であることを疑う」とは、たんに主体ではありえない生の次元、私の存在(他人との関係)の次元を発見し、私と他人との関係をその根原的なところで引き受けるという、いわば責任領域の拡大と、生と関係性の領域の拡大・深化とを、意味するものだったはずなのだ。


それがいつのまにか、「私が主体であることを疑う」という、このことは、(とりわけ多数者である)私の主体としての特権性を堅持すること、つまり私は「対象化される(されうる)」脆弱な存在でもあり、その意味で「動物」的(もしくは「物」的)な存在ともいえるものだという事実を否認するための新手の方策のようなものになった。
そうした(根原的な)生の次元を自分が生きていること、つまりは自分がまなざして都合よく対象化しているあれこれの他者(人間や動物)たちと同じ相において生存しているのだという事実を、見ないですませる、そのことでかりそめの安心を得て「主体であること」の特権性に密かに安住するための、方策みたいになったのである。
こんな転倒した現状には、サルトルばかりか、亡くなったレヴィ=ストロースでさえ、きっとあきれ果てることだろう。


*1:そうでなければ、この「脱した」私は、もはや何事もなすことが出来なくなってしまうだろう。