怒りの純粋さ

先日の『Freezing Point』のエントリーから。
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20060515#p1

怒りは、個人を政治化する重要な契機だと思う。 しかし一方、怒らずにいる権利もある。


「怒り」は、ぼくにとってもすごく大きなテーマだ。
最近読んだ、酒井隆史『暴力の哲学』では、怒りと憎しみという二つの感情の差異が考察されて、非常に示唆的だった。

憎しみは、憎しみを生むその原因に遡り、その次元から根絶しようというのではなく、その結果であるもの――人間、集団――を排撃したり殲滅することでカタルシスをうるという行動を導く傾向を強く帯びた感情だと思います。それに対して、怒りは憎しみそのものを産みだしているより広い条件に向う、より思慮に開かれた傾向があるようにおもわれる。(p55〜56)


この「より広い条件に向う」ということが、上山さんの書いておられる「政治化」の契機ということの意味だろう。


しかし、「怒り」と「憎しみ」という二つの感情を、このようにすっきり分けることができるだろうか。
憎しみから完全に断絶した怒りというのは、ベンヤミンの「神的暴力」というのを思いださせるが、それは現実のなかでほんとうにありうるものだろうか。あったとしても、ものすごくはかないものではないか。
「怒らずにいる権利」とあるのは、その自覚に関係しているのかもしれない。
つまり言い換えると、「政治」のなかで「怒り」が純粋なものとして生き残るのは、すごく至難なことであるという感覚。「怒らずにいる権利」を守ろうとする人たちは、空気にふれればたちまち変質してしまう、怒りの純粋さ、あるいは関係の直接性のようなものを、本当は守ろうとしているのではないだろうか。