ブログ・言論かおしゃべりか

どうもぼくには、インターネット上でのプライバシーなどについての意識が欠けているところがあり、他人にご迷惑をおかけすることが多い。反省し、今後改善していきたいとおもう。
そのことは別にして、ネットと匿名性、個人情報という事柄は、ぼくには正直よく分からないところがあって(たいていのことがよく分からないのだが)、はっきりしたスタンスを決められずにいる。前に、ハンドルネームに関する文章のところでもふれたが、もう一度整理してみたい。

まず個人的な、つまり自分自身だけに関する思いなのだが、インターネットで個人情報を開示しないといっても、パソコンを使っている以上、結局隠しきれるものではないだろう、という気持ちがある。非常にうまく隠した場合、個人レベルでそれを割り出すのは難しいかもしれないが、警察などはわりあい正確なところを把握できるのではないか。要するに、市民間での情報の漏れが防がれるというだけの話で、これもよく知らないが「個人情報保護法」という法律と似たような仕組みになっているのではないか。
ぼくは、もともとインターネットにはそういう側面があるのではないかと思ってるのだが、そんなことないのかなあ?
匿名性を前提にした「ネット市民社会」のようなものに、ぼくがやや不安と危惧を抱くのは、ひとつはそこに由来している(この意味では、匿名と実名との区分はあまり意味をなさない気がする)。
しかし実際のところ、今のネットの現状では、「市民間の情報の漏れ」こそを、とりあえず警戒せねばならないという現実がある。これは、残念なことであるのはたしかだ。


それに関連して、インターネット、とくに今流行っているこのブログというツールが、「言論」というものと現実的にどこまで合致するのか、たいへんかんがえさせられるところだ。


見渡したところ、ブログの大きな特性のひとつは「匿名性」であろう。
作家や学者などの有名な方は実名でブログを開いておられる。また、そうでなくとも実名で運営されているブログというものもあるのだろうが、ぼくはそれほど目にしない。
実名を使っている人もおり、そうでない人もおりというのは、不公平な気もするが、それを気にしている人は少ないようだ。というのは、ブログにおいては(掲示板やMLにおいてもそうなのだろうが)、あるハンドルネームを使用した時点で別個の人格が成立し、発言者(書き手)はその人格に対してのみ責任を持てばよい、といったルールが確立されているからであろう。
これは、かんがえてみると、非常に高度な市民的民主主義の感覚の所産であるのかもしれない。この別個の、虚構の人格に整合性を持たせ、責任を持つということは、貫徹しようとするなら倫理的・知的な高度の洗練を必要とするはずだ。むしろ、この「匿名性」による民主制の方が、実名と本人との経験的な同一性に依拠した現実社会の民主制よりも、厳密さを要求するものだとさえいえるかもしれない。
匿名であるから無責任に喋っていい、というモラルしかもたない人たちには、この民主制は維持できない。かなり、ハイレベルで厳しい制度である。
もともと「民主主義が根付いていない」といわれる日本社会で、これに適合できない人たち(ぼくもそうなのだが)が多く存在するのは無理からぬところであろう。


だが一方で、ブログの大きな魅力は「気楽に喋れる」ということでもある。そして、「匿名性」がこちらの安易な要素と結びついた場合、ひどいアンモラルな事態が生じてしまう可能性もある。いや、現実に起こっているのだろう。
そうしたマイナス面があることはたしかだが、こうした気楽な「おしゃべりへの欲求」それ自体は、日本的というか大衆的というか、如上の高度な個人主義的な市民社会の理念とはかなり性質が違うものであるとはいえ、これはこれで捨てがたいところがある。
多くの人がブログを立ち上げている現状の大きな理由は、この「気楽で無責任なおしゃべりへの欲求」ということがあろう。この欲求がどこから来ているのかは、たいへん興味深い問題だ。


しかし、それはそれでよいとして、これは「言論」というものとは違うのではないか。
こうしたものとしてのブログは、いわば趣味の空間であり、各人は政治的な言論の主体としてでなく、趣味的・美学的なおしゃべりの話し手として文を書き込んでいるのだ。
それにはそれのよさがあることは認めるが、これがいくら集約されても「言論」であるといえるかどうか。


いろいろなブログを見ていると、「言論」と「おしゃべり」という二つの要素の割合をどのぐらいにかんがえるか、人によってずいぶんばらつきがあるようだ。
ネットという公共空間でなされる以上、おしゃべりといえどもルールにしたがう必要がある、というのも無論正論である。また逆に、言論というものは、もともとおしゃべりであるべきだ、という意見もあろう。
実際、おしゃべりの特性を生かしつつ、言論として成立している優れたブログもたしかにあるのだ。


かんがえてみると、書いている本人が「言論」だと思おうと「おしゃべり」だとかんがえようと、結局のところ読んでいる側がどう見なすかが全てだ。自分の書いていることはおしゃべりであって政治的発言ではない、と本人がいくら言ったところで、読み手が違ったふうに受け止めればいたし方ない。
公共の場にものを書くということは、つまりはそうしたことなのであろう。


だが、ぼくが一番興味があるのは、先に書いた気楽なおしゃべりへの欲求が、どのように「言論のような」ものとして機能し、また成長していくか、ということだ。
平安時代の、京の都に書かれた庶民の落書きのような存在に、日本のブロガーたちの「おしゃべり」は、なれるであろうか。あれも全て匿名だろう。
たしかに、かつての庶民の落書きとは異なって、大きな権力に対する抵抗の意志が表にあらわれることが少ないこと、多くはその逆の働きしかしていないように見えるのは、残念なことだ。
だが、どこへ向かうか分からない混沌のなかで、この落書きはいま始められたばかりであることも、事実ではないだろうか。

付記

かんがえてみると、ネットの匿名性には二通りあるのだろう。
「ネット民主制」を成立させるような高度な虚構の発言主体を構成する匿名性と、断片的で無責任な言葉の垂れ流しを生じさせてしまう機能としての匿名性。
前者が確立されるような社会にしていくことも大事だが、後者の方の匿名性に、それなりの倫理や社会性を持たせることの方に興味がある。
意外と、この二つの課題は重なっているのかも。