「ひかりごけ」

上の記事とは関係ありませんが、こころに残る文章なので、ここに写します。
武田泰淳の小説、『ひかりごけ』の一節です。

相手が指し示した場所に目をやっても、苔は光りませんが、自分が何気なく見つめた場所で、次から次へと、ごく一部分だけ、金緑の高貴な絨毯があらわれるのです。光というものには、こんなかすかな、ひかえ目な、ひとりでに結晶するような性質があったのかと感動するほどの淡い光でした。苔が金緑色に光るというよりは、金緑色の苔がいつのまにか光そのものになったと言った方がよいでしょう。光りかがやくのではなく、光りしずまる。光を外へ撒きちらすのではなく、光を内部へ吸いこもうとしているようです。
 私が知らずに踏んで来た地面の苔も、ふりかえると、私の靴がただけ黒く残して、おとなしく光りました。
「なんだ、みんなそうだったんですね。大切な天然記念物を踏んづけちゃったな」
 踏まれても音一つ立てない、苔のおとなしさが、洞いっぱいにみちみちて来るのが感ぜられます。何か声を出せば、私たち肉食獣の肉声の粗暴さが、三方の岸壁から撥ねかえってくる気がする。(後略)

武田泰淳 (ちくま日本文学全集)

武田泰淳 (ちくま日本文学全集)