『素足の娘』

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佐多稲子『素足の娘』。

想像以上に強力な小説だった。

自伝的作品とされているが、そのことをまったく抜きにしても、戦前の日本(1940年発表・出版)において、性暴力をテーマとしてこれほどの作品が書かれていたことには、驚くほかない。

同時に、サルトルヴァージニア・ウルフの小説と同じく「大戦間期」の作品としての、時代的な刻印を帯びていることも確かだろう(最も核心となる場面に書きこまれた、恐らく検閲による「削除」の文字は、行使された暴力の複層性をまざまざと刻んでいるとも言えよう)。

ここで描かれた「男性」による支配や暴力のあり方は、暗に、戦争に向かう国家の(ドメスティックな)暴力と二重映しにされている。そのとき、単純な「加害・被害」の枠組みを越えて、「人を暴力へと差し向ける力」あるいは「暴力を国家の利益に回収する力」といった事柄についても、問いが生じてくる。この作品は、そのようにも読まれるべきだと思う(作家の戦争協力についても、当然ここで思い起こさざるをえない)。

また、佐多文学の最大の魅力は、常軌を逸するほどに繊細・鋭利な心理描写であり、この作品でもそれは遺憾なく発揮されているが、緊張のとりわけ高まる幾つかの箇所では、その筆は「分析」の域を越えて、それ以前の領域に遭遇してしまっている感すらある。一言でいえば、実存的だ。

題名の由来は、主人公の少女が、足袋も履かず野山や港町の街路をしきりに歩き回っていることだが、それは、主人公の「自由」や「野生」のメタファである。

常軌を逸した分析力は、男性たちや家族や世間(それに恐らく国家)による支配や抑圧から脱しようとする思いの表れだが、その分析する理性の力自体も桎梏になり得るとすれば、自由を求める野生の歩みは、ここではその限界さえも突き破っている。性暴力と国家による暴力のみでなく、理性の暴力もまた、ここでは抵抗の対象とされるのである。

 

 

『私は私の身体のこまかく慄えるのを、対手に気づかれるのが厭だったけれど、どうしても、慄えはとまらなかった。(以下四行削除)

 私には、何の感心もなかった。ただ私には抵抗するなど思いも及ばぬような失われた意志があるばかりだった。感覚的には嫌悪の戦慄が身内を走っていた。 

 彼はもう、私に言葉などかけなかった。(以下四行削除)

                             (p105~106)』

 

 

『私たちは素足になって、浅瀬を選って川を渡り始めた。水は私たちの足に打っかって小さい波を立てた。早い流れを横切る時、私は自分の身体が斜めになるような錯覚を起した。川瀬はもう手を引いてやろう、とは言わなかった。川瀬の白い脚に、黒い毛の見えるのを、私はちらりと見た。妙に男のほっそりした足は私に美しかった。足の裏に、砂と小石の水底を踏みしめながら、私は真裸になって水を浴びたい欲求を感じた。(p107~108)』

 

 

『私はあの時の、ぽかんとした自分の気持をときどき考えることがあった。あんなに取り澄ますことも知っていたし、人の軽蔑を感じることも出来た私だったのに、何故、あの瞬間は、何かに射竦(いすく)められたように、全感情がぽかんとしてしまったのであろう。あの山のしーんとした空気が私を魅了してしまったのであろうか。川瀬と二人きりでいるということが、私を不思議な雰囲気に縛りつけたのであろうか。そしてあの時の川瀬のくるくるっと変ったあの表情が私を射すくめたのであろうか。何故私は逃げ出しては悪いだろうなと思ったのであろうか。(p126)』

 

 

『川瀬がひとりだと知った時から、すでに私の心はもうそのことだけに傾いていたものだったかも知れない。

 機会の陥穽というものは、思いがけないほどの強い力を持っているものなのであろう。私は、目前の雰囲気の中に、もっと、もっと、深入りしたい欲望をふつふつと感じた。川瀬の奥さんが帰ってきたら、ということは私の慄える胸にもあったけれど、それに対する罪悪の意識などは何にも働きはしなかった。

 何かを待っている。その戦くような感覚だけになった。私はそういうものを全部、川瀬の前にさらけ出していた。私は自分の、ごくっ、と唾をのみ込む音を聞いた。その音は川瀬にも聞えるだろう、と思った。聞えても構わない、と思うのだった。私の足の平はじっとりと汗ばんでいた。(p171~172)』