『小さき者たちの』

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今の日本や世界の状況を見ていると、少なくともあと数百年ぐらいは、今よりまともな世の中になることはないだろうと思う。

もっと悪くなる可能性ばかり考えられ、良くなる可能性は、なかなか考え難い。

もし良くなるとすれば、それは高度な知性を持つ宇宙人が突然地球にやってきて、「はい、全部やり直し!」と命じるようなケースしか考えられないが、それはしかし、起きるはずのないことだし、それ以上に、起きるべきではないことだ。

なぜかというと、宇宙人であれ、神であれ、AIであれ、われわれ人間以外の超越的な存在が外部からやってきて、われわれの社会を変えてしまうということは、それがたとえ正しい変化であったとしても、われわれ(人民)にとっては残念でしかないことだからだ(われわれ以外、たとえば動物にとっては話は別だが)。

そう思うのだが、われわれ人間は、そういう「神頼み」的な発想に傾きがちであるということは、ベルグソンも強調している。

特に日本の場合は、天皇という格好の存在があり、時の政治権力が最悪で、しかも自分たちで変えられそうにもないとなると、どうしても天皇に頼ろうとする。人民であることを自ら放棄し、臣民であることを選んでしまうのだ。

そんなことを考えているとき、この本で引用されている、次のような文章を読んだ。これは、水俣病闘争の最も名高い闘士の一人であった川本輝夫が酒を飲みながらつぶやいていた言葉について、その息子の愛一郎が回想したものである。

 

『「水俣にも、水戸黄門とか月光仮面とかおらんかねえ。パッーと走ってきて、パッと裁断をしてもらえんもんかな」と。そういう意味では、日本でいちばんの権威、存在として、天皇を求める気持ちはつよくもっておったんです。石牟礼さんもよく言ってるんですが、私たち患者や家族のなかで、やっぱり御上(おかみ)ちゅうのは、ものすごい存在なんですよ。御上が来てくれるだけで問題は解決すると、ずっと思っていたんです (p124 高山文彦『ふたり 皇后美智子と石牟礼道子』からの孫引き)』

 

この引用の後、著者の松村圭一郎はこう書いている。

 

『いっこうに救済に動かず、どうやってもその悲痛な叫びの声を受けとめてもらえなかった企業や行政に募る不信と絶望感、そのなかで「御上」に一縷の希望を見いだそうとする心情がよくあらわれている。(p124)』

 

天皇という超越的、宗教的な権威にすがりたいという心情は、特定の教育を受けた世代に限定されるものではないようだということも、われわれはよく知っている。

上に書いたように、それは現実世界の不正義や理不尽に直面した時に、人間だれしもが持つ心理的な傾向の一種ではあろうが、言うまでもなく「天皇」という存在は、(ここでの事例に結びつけて言えば)水俣病を生み出した日本という近代国家や帝国主義や資本主義と不可分のものだから、そうした諸々を否定しておいて「天皇」という存在だけを救い出すということは不可能だろう。

それが分かっていても、人はそういう権威にすがろうとして、(こうした場合)政治的な罠にはまってしまう。川本輝夫石牟礼道子、あるいは中村哲などを加えてもよいが、こうした無比の傑出した個人においてすら、そう言えるのだから、まして、この愚かな私においてをや、である(用法、これで合ってます?)。

そう考えたとき、ふっと思ったことは、私は日本国憲法を初めの部分に天皇について専ら書かれていて、天皇制を正当化しているみたいだから駄目だという風に思っていたが、それには逆に、天皇の政治への関与を違憲と定めることによって、こうした「神頼み」の現実的な害悪を抑止するという積極的な意図が込められていたのではないかということだ。実際、そういう「神頼み」の政治介入をお願いする人は今もあとを絶たないのだから。もしそうだとすると、そんな明らかなことに今頃気がついたことになる。

もっとも、そういう「意図」が本当にあったとして、それが効果をあげてきたのかどうかは、判断が分かれるところだろうが。