ネットとマジョリティの「声」

前回、「おしゃべりの場」としてのブログの可能性ということを書いたが、これを「趣味」的な言説の共同体という日本のブログの特性から分離することは難しい。
むしろ、両者は分かちがたく結びついているというのが、正確な現状の表現だろう。これは、「ブログ」という特別なジャンルに目を向けなくても、掲示板にせよ、ホームページにせよ、ウェブ上の言説のあり方全部に関して言えることであろう。
それらは、現実の現われとしては、発言の場を与えられたマジョリティの、無責任な言葉の氾濫の空間という性格を有していることは否定しがたい。この空間が享受している自由は、マイノリティの人格や権利の侵害の危険を、つねにはらんでいる。
この事態は、必ずしも日本だけのことではないが、日本の場合には、排外的であったり、趣味的(非政治的)という、ナショナルな特徴がそこに示されているということだと思う。


インターネットの普及に伴って、社会全体に新たな「平民主義的」な言説の可能性が切り開かれたという事態は、もちろん世界中のどこでも起きていることだろうが、韓国や中国など東アジア諸国では、特にその影響は顕著であると思う。
日本を含めて、この地域全体で最近勃興しつつあるナショナリズムの機運は、たしかに現在と、それにつながる過去の現実にその主たる根を持っているとはいえ、この側面を見なければ全体像を見誤るはずだ。今日のナショナリズムは、過去のそれと同じものではない。むしろ、新たな環境のなかで生じたものと考えるべきである。
とりわけ日本の場合には、先に述べたように、このナショナリズムは「趣味性」、「非政治性」という特殊な外観を呈しているので、自覚されにくいが、どの国でも起きている事態は、この意味では共通しているのではないかと思う。

当事者性を持たない声

この言説の場の、現在あらわれている重要な特徴は、上にも述べたように、それがマジョリティによる「形」のない言葉の表現の場になっている、ということだ。
ここで「マジョリティ」というのは、その発話者の属性を必ずしも示すわけではない。ぼくがここで用いている「マジョリティ」という語の定義は、「当事者性を持たない」といった意味である。つまり、マジョリティ的な発言者とは、当事者性を持たない声の主ということになる。
書き込んでいる本人がどんな属性を持っていようと、たとえば匿名でブログや掲示板に書き込むとき、その人は自己のなかの「マジョリティ」、つまり断片的で「形」にならない情緒や情念、意見の語り手として、ウェブ上に言葉を書き連ねている。
つまり、ここでぼくが言う「マジョリティ」というのは、社会のなかで自己を統合的な「形」として立てることなく発言する人々、断片的な発言者たち、ということだ。その声は、インターネットの出現によって、はじめて公共的・政治的な空間のなかに表出の場を与えられたのである。
極端にいえば、ウェブ上のコミュニケーションの空間は、現実の世界におけるマイノリティをも「匿名」化し、「マジョリティ」化しうる。それは人間を、「形」にならない、断片的な存在の場へと戻してしまうものだからだ。
近代的な世界の終焉と共に、無責任な「おしゃべりの場」が、社会の前景に出現してきた。
これをどう人間の世界のなかに位置づけるか、この非統合的な情緒から発する声の沸騰を、どう社会化するかが、いま問われているのではないだろうか。

右派的な言説との親和性の理由

技術の革新に伴う、こうした断片的な声の場の出現は、それ自体としては歴史的な必然であり、統合的な主体の時代(「近代」)が持っていたさまざまな限界を乗り越え改善する可能性のあるものだと思う。
ただ現状では、これが排外的なナショナリズムに統合されたり、大きな権力による世論操作の道具に使われることを阻止するのは、非常に難しい。
高度情報化時代の新たな「平民主義」も、やはり国民国家や資本の生き残り・強化のための有効な道具として機能しかねないのが現実である。
こうした「おしゃべり」に支配された公共の言説の場が、右派的な言論と親和性を持ちやすい理由は、これらの断片的な声が、統合的な主体を構成単位とする近代的な公共世界の倫理には、もともと帰属していないからだ。それはいわば象徴化されない、幼児的な声の横溢に他ならないといえるだろう。
その声は、「他者」との関係における倫理や理念に拘束されることを拒み、主体化(去勢)以前の想像的な生のあり方に留まろうとする傾向を持っている。つまり、それは本質的に自己の「マジョリティ性」の自己肯定や自己憐憫の主張となりやすいのである。
そして、自己の安楽だけを目的とするこれらの声は、不安や脅威による扇動に、思考や理念を経ることなく生理的にだけ反応してしまう。


現在の、インターネット社会におけるナショナリズムは、どこの国においても、この「断片的な発言主体によるナショナリズム」という一面を有しているのではないか、と思う。
この意味で、たとえば日本の戦前にあったような統合的な「主体」(「少国民」)に基づくナショナリズムとは、それは異なっているはずだ。
今日のネット上での「右派」的といわれる言説が、たとえば書き込んだ本人が徴兵されたり強制労働させられたりという現実的な可能性とは、いったん切れたところで述べられているようなシニカルさ、無責任な感じを抱かせるのは、この理由によるのだと思う。
インターネット上で呼びかけられたという中国の「反日デモ」の映像を見ても、週末だけ抗議行動をして、平日になると皆が職場や学校に戻っていくという姿は、統合的な「主体」の時代の闘争しか知らない世代には、白々しささえ感じさせるものではないだろうか。

「おしゃべりの場」のアポリア

社会のなかで何らかの不利な立場に置かれた統合的な主体の位置を保持しようとする権利、つまりマイノリティの権利を侵害しないような仕方で、この断片的な声の場を確保することは可能だろうか。
つまり、この「形」を持たない言葉が流通する空間を、公定的なナショナリズムや排外主義に回収されない、したがって国家や資本のコントロールを逃れるような形で発展させ維持することは、どうすればできるのか。
とりあえずこれが、「おしゃべりの場」としてのブログやウェブ上の言説空間の可能性として、ぼくの考えたいことである。


それは、言い方を変えればこうなる。
先に、ウェブ上の空間に広がりによって出現した「マジョリティ的な発言者」という存在を、「当事者性を持たない声の主」であると定義した。
どんな人間もすべての事柄や属性において当事者であるわけではないわけだから、自己の中に必ずこの「非当事者性」、すなわちマジョリティ性を有しているはずである。
ぼくが重視したいのは、すべての人間が、この非当事者的な発言(おしゃべり)の自由を獲得しているような社会の実現ということだが、そのためには現実にマイノリティである人々の、その問題になっている属性における「権利」や「安全」が統合的な主体として保障される必要がある。
ところが実際には、「おしゃべりの場」の出現と拡大という事態が、逆にこれを脅かしているわけだ。このことが、この新たな言説空間の、実質上の「不自由さ」、権力の働きに対する無力さというものと、深くつながっているように思われる。
このいわばアポリアを、「おしゃべりの場」の普遍的な確保という、遠い目標を見失うことなく、解決していくこと。