1997年に行われたデリダの名高い講演の記録。
ここでは、デカルト、カント、ハイデガー、レヴィナス、ラカンという人々の思想が、人間中心主義的なものとして批判されている。
デリダが人間中心主義の思想を批判する根本的な理由は、それ(人間中心主義)が人間のなかの「動物的生」と呼べるようなものを否定(否認)し、いわば「有限の生」ならざるものに、支配者・優越者としての人間の根拠を置こうとする思想であるからだと思う。
つまりそれは、(動物のような)「有限の生」という人間のあり方を否認するような思考への批判であり、グノーシス主義(最近の用語でいえば「反出生主義」)的なものに対立する態度だといえると思う。
そのことは、次の箇所によく示されている。
『先決的かつ決定的な問いは、動物が、苦しむことができるかどうかであるだろう。(中略)この問いは、ある種の受動性によっておのれを不安にする。それは証言する、それはすでに、顕わにしている、問いとして、ある受動可能性への、ある情熱=受苦、ある非-力能への証言的応答を。(中略)苦しむことができることはもはや力能ではない。それは力能なき可能性、不可能なものの可能性なのである。われわれが動物たちと分有している有限性を思考するもっとも根底的な仕方として、生の有限性そのものに、共苦の経験に属する可死性は宿っているのである。この非-力能の可能性を、この不可能性の可能性を、この可傷性の不安およびこの不安の可傷性を、分有する可能性に属する可死性は。(p58~59)』
この後半部は難解だが、要するに、傷つき苦しみ死去しうるということが、有限な生存としての動物たちと人間の生の共通な根底を形成している、といった意味だろう。そうした苦痛に満ちた有限性を否認するなら、私たちは生の現実を自ら取り逃してしまう。
しかし、どのようにか?
デリダは、上記の西洋の思想家たちの人間中心主義的な思考が、彼がアブラハム的と呼ぶ永い文化的・宗教的(「キリスト教=ユダヤ教=イスラム教的」)な伝統、動物に対する「供犠」の系譜に属するものであることを強調する。
『すなわち、これらの言説のすべての心臓部に生き生きとした搏動を刷り込んでいるのは供犠であるということ。(中略)人間的空間における、基礎的な供犠、基礎づけ的な供犠そのものの必要であり、いずれにせよこの空間のなかでは動物に対し、必要な場合はそれを死に処すことまで含めて、指図することが禁じられてはいないのである。(p171)』
この見方は、特にカントの道徳哲学に対する批判において明瞭に示されるのだが、その人間主義的な道徳思想、たとえば「権利」や「尊厳」といった概念が、動物及び人間の動物的生を犠牲として奉げることによって成り立っていることを、デリダは執拗に告発する。
ところで、前近代を十分に脱却してこなかった日本社会においては、元々「人間(主義)の否定」に対するハードルは無残なほどに低い。(実存主義や精神分析のみならず)ヒューマニズムや人権概念をも人間中心主義(=供犠の思想)と見なして攻撃するデリダの言説は、この為、日本では受け入れられやすいのである。そもそも、「人権」だの「人間の平等性」だの、誰も本心からは信じていないのだから。
だが、忘れてならないことは、デリダの批判は、他者の「有限な生」を犠牲にすることによって主権者の優越的な立場を正当化するような思考と態度、そして制度に対してこそ向けられている、ということだ。デリダの、(あえて言えば)動物についての哲学とは、そういうものである。
すると、日本のような国の文脈においては、この「動物」たち(デリダは「アニモ」という造語をあてているのだが)には、実に多くの語(たとえば、ジェンダーや国籍に関する)を代入できそうなことが分かるだろう。
『この共形象をなす男たち(注 上記の西洋の哲学者たちを指す)、あたかも彼らは見られずに見たかのようであり、動物に見られることなく、動物に自分が見られているのを見ることなく、動物を見たかのようなのだ。動物的と言われる生の底からおのれを差し向けて、その瞬間彼らに、それもまなざしによってばかりではなく、自分がかかわっていることを認めさせたはずの誰かから、自分が裸なのを見られているのを見ることなく。(p36)』