この本は、近年の韓国の状況について書かれたものではあるが、性暴力・性差別と、ネオリベ化という、いずれも(韓国社会にのみならず)現代社会にとって喫緊の二つのテーマの関連が論じられている。
例えば、告訴された性暴力加害者による「逆告訴」(被害者への法的な報復)のようなことが、MeToo運動が始まった2018年より前から、既に韓国では猖獗を極めていたのだが、その大きな原因・背景として、社会全体のネオリベ化(韓国では、IMF危機から始まっている)があることを指摘。
いま生じていることは、性暴力やジェンダーをめぐる問題の(司法化や医療化による)個人問題化、経済化、そして脱政治化であり、競争の中で孤立した「個人」という枠の中に人々を閉じこめて、連帯による社会構造の変革に向かわせないようにしようとする、ネオリベ的な統治の仕組みの中で起きている流れだ、という視点が示されるのである。
第一章では、司法制度のネオリベ的改革によって競争を余儀なくされた法律事務所のビジネス志向(金儲け主義)、要するに誇大広告や顧客への煽りといった行為によって、加害者たちの「逆告訴」の頻発のような現象が生じていることが浮き彫りにされる。
だが、その背景にあるのは、やはりネオリベ的な統治の論理であるであることが強調される。
『なによりも性犯罪専門法律事務所のような、いわゆる性暴力加害者支援産業が拡張されている背景には、ネオリベラリズム的な国家の管理政策が存在する。国家は性暴力を厳重に処罰するというメッセージを伝播し、被害者の告訴を督励する一方で、加害者中心的な弁護士業界の市場化を放任しながら、双方すべての法律市場を拡大することをもって、性暴力事件の解決の法への依存度を高める効果を創出している。(p058)』
それによってもたらされる(ことが目論まれる)のは、法的争いを勝ち抜けるような有能なネオリベ的「個人」の形成と、性暴力が生じ続ける土壌と構造を改変しようとする集団的な意志の発生への抑圧だろう。
『いまや女性に対する暴力に関するシステムは公共政策ではなく国家の統治体制として個人化されたネオリベラリズム市民を再建する重要な場所となっており、性暴力は政治的論争の対象から、個別化された法的課題へと移動しているのだ。(p060~061)』
第二章は、とりわけリアルな内容だ。
なかでも、告発を受けた性犯罪加害者たちによる相互補助的なコミュニティが、資本や政治の力を借りて大きな広がりを見せている実態の詳述は、衝撃的なものである。章末のまとめの部分から引いておこう。
『 第二に、性犯罪専門法律事務所が運営するオンライン加害者コミュニティは、加害者たちの共感と連帯を基盤に「脱犯罪化された加害者男性性」をつくりだしている。(中略)つまり犯罪者としての性暴力加害者ではなく、男性たちの経験と悔しさを中心として、反省、復讐、哀訴、無力、自責、合理性などが交差する地点で、加害行為の意味を再構成する男性性が登場しているのだ。個人として存在していた加害者が集団化され、かれらの状況と文脈にそったナラティブが共感の言語を獲得し、省察と罪責感が応援と支持で呼応される時、性暴力被害者の経験は委曲されたり排除されたりする可能性が高くなるしかない。
(p118~119)』
こうしたことについては、トランプが勝利した先の大統領選挙でも非常に注目されたし、さらに広く考えれば、兵庫県知事選でパワハラ「加害者」として告発された候補の街頭演説に集まった多くの人々の心の内に何があったかを想像させるところもある。
ネオリベラリズムの論理が要請するものでもある「有責性の否認」(有責性の是認は、連帯の形成に不可欠だから)という欲望が、時として攻撃的な集団性をつくり出すという事態は、いまや現実の脅威として現われていると言えるだろう。
第三章では、ネオリベ化された社会において性暴力が、自立した個人である被害者自身によって予防され、対処され、自己決定されるべき事柄と捉えられることで、「個人(自己責任)化」され、「脱ジェンダー(脱政治)化」されるという問題や、被害者の「苦痛」だけが強調されて病理的存在(治療の対象)として扱われることで、社会が押しつける「被害者」像に被害者自身が自らを押しこめざるをえなくなり、社会的な問題の解決(連帯と闘争による)から遠ざけられてしまう、といった重要な論点が語られているが、一番怖いのはやはり、加害者による「逆告訴」、つまり、告発・告訴した被害者に対する法的な報復・攻撃についてのくだりだ。
MeToo運動の起きた2018年以後の韓国社会の情勢について、次のように述べられる。
『しかし法の限界が現れるまさにその地点において、加害者たちがむしろ「被害者処罰」を行い、最上の攻撃戦略を活用できる法的土台が準備されていたのだ。「企業家的自我」として自分を経営しなければならない加害者たちにとって逆告訴は、評判を管理し、被害者の語りを中断させ、被害者を社会的支持のネットワークから孤立させるだけでなく、公的なやり方の報復を実行しながら被害者の立場を奪還する効果をもたらす。そして逆差別言説の強化と、正義を実現するのだという一部男性たちの活動から力を得て、最悪の場合「加害者は日常へ、被害者は監獄へ」行くことになる逆説に直面することにもなるのだ。(p172~173)
「被害者の立場を奪還する」とは、加害者の方が(被害者による)虚偽告訴や名誉棄損の「被害者」と認定されて、立場が逆転してしまうという意味である。
「加害者は日常へ、被害者は監獄へ」というのは、MeToo運動の時のスローガンを転倒させたレトリックの表現だそうだが、とりわけ韓国と比べて被害者(また告発者)を守る対抗的な力が微弱な日本社会では、それがレトリックでなく現実のものになる危険性は極めて高い、いや既にそうなっている(「加害者に称賛を、被害(告発)者に侮蔑と中傷を」)と言うべきだろう。
こうした状況の背景にあるのは、ネオリベラリズムを推進しつつ、それに合致するような仕方で「個人」を形成し、その枠組みに閉じ込めることで、人々から社会的・政治的な改変に向かう集合的な力を剥奪しようとする統治の論理であろう。
その論理に対抗するため、第四章と第五章では、司法や医療の場に局在化されない、性暴力問題の真の「解決」とはいかなるものかが模索され、それを可能にする社会や集団、組織を構築するための具体的な提案が示されることになる。
著者は特に、アイリス・マリオン・ヤングの思想に大きな示唆を受けながら、次のように述べている。
『性暴力は、被害者たちがなんらかの行動を選択したからではなく、被害を受けるしかなかった条件のなかで発生し、この時共同体は性暴力事件の解決を、個人に対する非難ではない社会構造と条件に対する互いのあいだの実質的責任の問題として、つまり個人の選択と同意の問題から抜けだして互いに対する義務と責任の問題としてとらえなければならない。これは社会の不正義を構造的問題ととらえるために社会的連結モデルを提案するヤングの議論と繋がる。(p278)』
性暴力被害者が「被害者」という個人化(ネオリベ化)された枠組みから脱却し、不正義に対して共に闘う他者と連帯することこそが、被害者自身の回復と社会的な力の奪回をもたらすものであるということ。そして、それが可能であるような条件を社会のなかに築き上げていく責任を、(加害者はとりわけであろうが)誰もが負っていることを、ここで著者は主張しているのだと思う。
エピローグから、特に忘れがたい一節を引用して、この文を終わりたい。
本書は、多くの被害者や活動家、弁護士へのインタビューを含んで構成されているのだが、インタビュー過程で多くの性暴力被害者が、その甚大な苦難にも関わらず、「わたしは運が良かった」と語ったことの意味を、著者はずっと測りかねていた。
『出会いなおしたあとになってやっと、さまざまな問題提起によって自分が属した空間と社会を変えようとしたインタビュイーたちにとって、その「運」はすでにかのじょたちが内面にもっていた力の別名であったということがわかった。またその「運」が集まって連帯という名で実践され、繋がっていく時、さらに強力になった「運」がつくられたということを理解した。そのような面で「運」のよい人たちとともにあれたわたしこそが運の良い人なのかもしれない。(p312)』