中上健次再考(黒川みどり『創られた「人種」』から)

 前回も書いたように、最近、南アフリカ出身のノーベル賞作家J・M・クッツエーの小説をいくつか読んだのだが、クッツエーに関して、デビュー直後の1980年代前半ごろまでは、当時の世界の文学界の流行もあって、(日本では特に)その作品は南アフリカの政治的現実(アパルトヘイト)から切り離して受容されることが多かった、という解説を読んだ。当時は、ポストモダンとか、マジック・リアリズムラテンアメリカ文学について)と呼ばれる技法上の流行が、商業的な意味からも重視され、作品の政治的背景のようなことは、なるべく考えないようにされていたと、僕自身の読書経験(80年前後は中上フリークだった)を振り返っても、たしかに思う。

 それで、当時の日本の代表的作家だった中上について、この面から考え直したいと思っていたところ、たまたま図書館で見かけた黒川みどり著『創られた「人種」』(2016年)という本の第四章で、中上文学のそうした側面について論じられてたので、読んでみた。

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まず、中上自身が被差別部落の出身であることについてあまり語らなかったことや、また作品の中でも特に「路地」という語を用いていたことなどに触れた後、端的にこう書かれている。

 

 

『中上はそれでよかったのだろうか、中上の独特の文体に加えて、以下に述べるようにあえて「政治」を忌避し被差別部落をおおむね「部落問題」として語りたがらなかったことが、数多くの読者を獲得することに成功した反面、被差別部落という主題への理解から遠ざけたのではなかろうか。また、「被差別部落」ではなく「路地」と称されたことそれ自体が、作品への接近を容易にした一方で、被差別部落を見据えずに済まされたつもりになるという弊をも孕んでいたのではないだろうか。(p189)』

 

 

『しかしながら、(中略)彼が文学作品と離れて語ったものを読むと、中上は実に真正面から“部落問題”に向きあっていたことを確認しうる。 

部落解放運動の要求を請けて、一九七〇年代後半から同和対策事業が進展していったことは、一面で、被差別部落市民社会に包摂されていくことでもあった。中上は、ほかならぬこの「市民社会」とその一員になることへの根源的な批判者として立ち現われたといえよう。(p189~190)』

 

 

 さらに、こう書かれている。

 

『同和対策事業によってあたかも「差異」が打ち消され、同時に差別もないかのごとくにみなされてしまいかねない状況がつくり出されているからこそ、中上は、果たして「差異のない」ことが差別のないことにつながるのかを徹底して問うた。高澤秀次が、「中上が恐れたのは、差異をなし崩しにされた上で、隠微に差別意識が内包するという最悪の事態である。新宮市春日の路地の再編=解体にあたって、中上の抱いた危機感の本質はそれだった」と指摘しているように、それは、「路地」が消えて「市民社会」に呑み込まれていくことが果たして差別を解消するのかという問いであった。(p210)』

 

 

つまり、「同和対策事業」によって「路地」が解体され、「差異」が消滅して「市民社会」に吸収されていくなかで、そのことによって「差別」もまた消滅するというわけではなく、それは他ならぬ「市民社会」のなかに隠微に根深く内包されていくのだという危機感が、中上の文学と発言・行動の根底にあった、という指摘である。

中上の小説を愛読していた当時の僕が、作家自身のこのような危機感を感じ得ていたかというと、まったく出来ていなかったと思う。そして、それは当時の文壇や論壇、日本社会の一般的な理解(消費)の水準でもあったと思う。

これは蛇足になるが、論者の黒川がここで「同和対策事業」がもたらしたものと規定している、「差異」の消滅や、「市民社会」への同化・吸収といった事態は、世界的な文脈でいえば、経済や政治のグローバル化の進展による事態と捉えることが出来るのではないかと思う。黒川はこの章で、この時期の趨勢を「人権の時代」という語によって批判的に捉えているのだが、その意味は、差別や搾取を構造的に生み出すような現実を直視する「政治」的な視点が忌避され、「差異」の消滅によって「差別」そのものも消滅するかのような幻想に人々が閉じ込められて、差別に抵抗する力も生きる力も奪われた極度に管理的な社会が実現することへの危機感だろう。

それでは「人権」という言葉を、あまりにも外在的に捉え過ぎではないかとも思えるが、しかし、実際に日本の行政や社会の支配層が実行してきたことは、たしかに「人権」という概念の盗用(外在化)による、人々の政治的無力への閉じ込めに他ならなかったのではないかと、最近の、飯山由貴《In-Mates》に対する東京都人権部の対応などを見ていても実感せざるを得ないのである。

https://www.art-it.asia/top/admin_ed_news/229861/

 

 

『創られた「人種」』に戻ると、中上の最も政治的なテクストとも呼べそうなルポルタージュ紀州』の一章から、次のような文章が引用される。

 

『例えば、或る日或る時、市民なり庶民なりの生活の存続がおびやかされ恐慌状態になる事が起きたとする。関東大震災のような天変地異でもよいし、食糧危機でも円高による経済の破綻でもよい。市民や庶民がそれを切り抜けるには敵がいる。関東で起こった大震災の時、井戸に毒を入れに来るとデマ宣伝で次々に殺されたのは朝鮮人であったが、この紀伊半島紀州で、もしそのようなことがそっくり起こるとしたら、市民や庶民は敵をどこに求めただろう。(p211)』

 

 

そして、黒川はこう書く。

 

『すなわち、いざ危機が生じればかつて朝鮮人を虐殺したと同様、被差別部落民に向かいかねない「市民」「庶民」への強烈な恐怖と不信の表明にほかならなかった。中上は、「私の想像する被差別部落民虐殺と朝鮮人虐殺は、説明の手続きを無視して言えば、不可視と可視の違いである」とし、「私がありありと視るのはこの不可視の虐殺、戦争である」いう(ママ)。そうして彼は「路地の家並みが全部入るように向けて、写真を撮る」のであるが、「私の“戦争”はこの一枚の写真の中にもある」といい、「路地」のなかに、“戦争”“虐殺”が及びうる可能性を見るのである。繰り返すまでもないが、差別が不可視化されつつある「市民社会」のなかに実は潜む差別の延長線上に、しばしば国家権力とも結びつく“戦争”“虐殺”があることを彼は感知しており、そのことの警鐘を発してやまなかった。(p211)』

 

 

また、「路地」の解体後に書かれた中上の代表作の一つ、『千年の愉楽』からは、次のような一節も引用されている。

 

『それがよい徴候なのかどうか分からない。オリュウノオバは考えていた。誰も昔やった事を謝った者はない。四民平等だと言うがひと度昔のように物資が不足したりかつてあった震災のような事が起ると皆殺しに会うのは見えている。朝鮮人が多数いきなり理由なしに殺されたにもかかわらず新日本人とされたのと同じような意味が、四民平等に入っている。(p229)』

 

 

「誰も昔やった事を謝った者はない。」

この危機感を中上が書き続けていたことを、僕はまったく読みとれていなかったと、今にして思う。

 

 

ところで、こうした日本の「市民社会」の、自らの差別性に対する鈍感さに絶望した中上が(この作家・男性が他の面では生涯持ち続けただろう差別性は、また別の問題だ)、救済の道としてすがったのは、文学的・美学的・想像的な領域、なかんずく「天皇」の存在だった。

ナショナルな「市民社会」と、それに深く結びついた「政治」の限定的な性質に嫌気がさした末に、「天皇」に救済を見出すというのは、石牟礼道子の辿った道にも似ているが、それについて、この章の(そして本書全体の)最終部で、黒川はこのように書いている。

 

中上健次は、天皇を軸とした「日本」に部落問題の「無化」を描いた。“夢見た”という方が正確かもしれず、それはリアリティをもたないことは中上も承知していたはずであり、にもかかわらず彼はそうするしかなかったのであろう。とすれば、私は、丁寧に真の「無」を求め続けていくという、「不断の精神革命」をめざして歩むしかないだろう。それは、ほかならぬ自分の所属する集団以外の、すなわち自己の利害に関わること以外のことについての差別の不当性を認識し、それに立ち向かうことのできる普遍的な人権の希求であらねばならない。(p254)』

 

「差別」の真の「無」に向っての永久革命。言い換えれば、「人権」という不可能なほどに過酷な概念の絶えざる、永久的な普遍化、内在化の為の、真に政治的な闘争。

進むべき道はそこにしかないだろうと、僕も思う。

クッツエーの三作品

 このところ、J・M・クッツエーの小説、『恥辱』(1999年)、『鉄の時代』(1990年)、それに『遅い男』(2005年)を立て続けに読んだ。

 クッツエーの小説は、以前に『マイケル・K』(1983年)を読んで、非常に良かったのだが、その後に『夷狄を待ちながら』(1980年)というのを読んだら面白くなくて、途中でやめてしまった。

 今回、思い立って、上記の三作を読んだら、やはり面白かった。ポストモダン色の強い『夷狄』以外の4作は、語り口など大幅に異なる面があるとはいえリアリズム的(現実的と言ってもよい)な手法なのは共通してるので、僕には、そういう小説しか理解できないのかも知れない。

 クッツエーは、周知のように南アフリカ出身の白人作家だが、ノーベル文学賞を受賞した21世紀初め頃にオーストラリアに移住した。それで、上記の中では『遅い男』がオーストラリア移住後の作品であり、舞台も南アから豪州に変わっている(『マイケル・K』は架空の土地が舞台とされてるが、南アがモデルなのは明白)。

 これらの作品に共通して描かれている「現実」というのは、南アフリカもオーストラリアも、「植民者が作った国」であるということに関係している。クッツエー自身は、そのことに自覚や誇りも持っているが、もちろんアパルトヘイト体制を含めて、そういう暴力的な社会を作り出してきた(また、それによって生み出された)自分たちの内面の「空虚さ」のようなものを、ずっと掘り下げ続けている作家だと思う(それは、ポストモダン的な作品でも同じだったのだろう)。

 今回読んだ三作品では、そのことが、男性中心主義批判(フェミニズム)の視点に深く重ねられていたり、また特に『恥辱』においては「動物の命」というテーマにつながってたりするのだが、大枠としては変わっていないのだと思う。

 これほど、自分にとって身近なテーマを扱っていると実感させる有名作家を、他に知らない。

 

 

『「子どもは産むということだな?」

「ええ」

「あの男たちの誰かの子を?」

「ええ」

「なぜだ?」

「なぜ?わたしが女だからよ、デヴィッド。子ども嫌いだとでも思うの?父親が誰だからという理由で、その子を拒めというの?」(『恥辱』 鴻巣友季子訳 ハヤカワepi文庫 p304~305)』

 

 

『「もう愛情はあるか?」

 そう言ったのは彼だが、口から出たとたん、自分で驚く。

「この子に?いいえ。どうして愛せる?でも、愛するようになるわ。愛情は育つものよ。その点は、母なる自然を信じていい。きっと良い母親になってみせるわ、デヴィッド。良き母、善き人に。あなたも善き人を目指すべきね」

「遅きに失したようだな。わたしはもはや年季をつとめる老いた囚人だ。だが、きみは前に進みなさい。じきに子どもも生まれるんだし」

善き人か。この暗澹たる時代に、わるくない心構えだ。(同上 p331~332)』

 

 

『(前略)なぜわたしが母親の思い出に執着するか。理由は、もしも彼女がわたしに生命をくれなかったら、だれも生命をくれなかったから。わたしが執着するのはたんに母親の思い出にではなく、母親自身に、母親の身体に、その身体からこの世にわたしが生まれたことに対してなの。血と乳として母親の身体を飲み、わたしはこの世に生まれた。そして盗まれ、それからずっと、失われていたのよ。(『鉄の時代』 くぼたのぞみ訳 河出文庫p161~162)』

 

 

『わたしのなかにあるのは死だけではないのよ。生もあるの。死のほうが強くて、生は弱いけれど。でもね、わたしの責務は生に対するものよ。それを生かしておかなければならない。絶対にそうしなければ。(中略)誤解しないで。あなたは息子よ、だれかの息子。わたしは息子たちに反感をもっているわけではないの。でも、生まれたばかりの赤ちゃんを見たことがある?男の子だか女の子だか、見分けなんてつかないんだから。(中略)生と死を分つ差異はごくごく些細なもの。でも、ほかのものはすべて、曖昧なものはすべて、強く押せば譲るものはすべて、弁明の余地なく廃棄される。わたしが問題にしているのはその、弁明の余地すらあたえられないことなのよ。(同上 p213~215)』

 

 

『これは不要な複雑さかしら?わたしはそうは思わない。文章のふくらみというのか。呼吸と一緒よ。吸って、吐いて。ふくらんで、しぼむ。生命のリズムね。ポール、あなたもっと充実した人間になれるのに、もっと大きくもっとふくらみを持てる人なのに、自分でそれを許そうとしない。だから強く言っておくわ。思考の流れを途中で断ち切らないで。最後まで追っていくこと。思考と感情の流れを。それとともにあなたは成長する。(『遅い男』 鴻巣友季子早川書房 p193)』

 

 

『「(前略)言語に関して言えば、わたしにとっての英語はあなたの場合とはどうしたって違う。流暢さとは関係がないんだ。お聞きのとおり、わたしの話す英語は流暢このうえないだろう。しかし英語をものにするのが遅すぎた。母さんの母乳のように自然なものではなかったからね。実をいうと、まったくなじんでないんだ。内心では、いつも腹話術師の人形みたいに感じてる。わたしが言葉をしゃべっているのではなく、あくまでわたしを通して言葉が話されている、とね。英語はわたしの芯の部分、モン・クールから出てきていない」と、ここで彼は言いよどみ、踏みとどまる。“わたしの芯はがらんどうなんだよ”。そう言いそうになる。(後略)(同上 p242~243)』

『テロルはどこから到来したか』

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これも鵜飼哲さんの、2020年4月に出版された旧著になるが、買って読んだ。

今はなき雑誌『インパクション』に掲載された文章を中心に(あとがきでは、インパクト出版会の須藤久美子さんに対して、特に謝意が述べられている)、80年代後半のものから近年のものまで収録されていて、どの文章も刺激に富んでいる(日本の死刑制度についての講演などは、特に重要だと思う)が、とりわけ主題になっているのは、2015年1月にパリで起きた「シャルリ・エブド襲撃事件」の背景と余波である。

この事件について、鵜飼さんは、殺害された「シャルリ・エブド」の漫画家やジャーナリスト、学者たちと、襲撃を行った青年たち、双方に寄り添う形で繊細な分析を行っている。「シャルリ・エブド」は、事件当時の僕の印象としては、「表現の自由」を盾として、イスラム教徒の心情を傷つける酷い風刺漫画を載せる雑誌というイメージがあったが、この本で読むと、湾岸戦争の頃の創刊当時には、米国を中心とした湾岸戦争に明確に反対し、また、反ネオリベ反核・反原発の主張を含むなど(そういう主張をしてた人たちも、この事件で命を失ったのだが)、元来はフランスの左翼の中でもしっかりした発信を行なっていたメディアだったことが分かる。それが、2001年の「9・11」を契機に、親イスラエルに転じるなど、次第に変質していった。とりわけ当時の編集長のシャブという人は、「表現の自由」というテーゼを頑として譲らず、イスラム蔑視の風刺画を載せ続けたという。

一方、襲撃を行なった青年たちも、2005年のパリ近郊暴動の時と同じように、植民地主義レイシズムを露呈させていくフランスの政治・社会のなかで苦しんだ挙句に、イスラムの「始源」への回帰(むしろ、伝統の否定)を主張する硬直的な言説に引きつけられていった移民社会の若者たちであった。

ひとつには、この両者の、非常にマッチョで単純化された思想同士の、「意地の張り合い」の帰結として、この凄惨な事件を批判的に見出すという視点がある。これは、デリダや鵜飼さんの、比較的理解しやすいスタンスだといえる。

 

 

だが同時に、この出口のない状況の中で、自死的ですらある行為(攻撃)の遂行へとどうしようもなく赴いていく人々の内面(主体性)を、歴史のつながりのなかで、どのように想像し、そこに関わっていくかということに対する、鵜飼さんの苦悩も感じる。

僕が最も考えさせられたのは、映画『山谷 やられたらやりかえせ』の監督で、撮影中にヤクザに殺された山岡強一氏の殺害後30年の集まり(2016年)での講演「生きてやつらにやりかえせ」の一節だ。そのなかで、鵜飼さんは、これは「シャルリ・エブド」の事件と、「やられたらやりかえせ」という言葉(思想)との両方を想起しながらだと思うが、ニーチェが「復讐」を重視し、人間は「復讐」を通してのみ「平等」という観念(認識)に到達しえたのだという洞察を行ったことを強調して、次のように書いている。

 

『今の時代に、もう一度「復讐」の観念を往年のままに復権させようとしても意味がないことは重々承知しています。そうではなくて、「復讐」の観念に内在している大切なものを、暴力一般を否定する時代の傾向に抗いつつ救い出すことは、私は必要だと思いますし、できることだと考えているのです。

 「復讐」の観念が平等の原則と不可分のものならば、それはけっしてなくなるはずはないし、抑圧しても歪んだかたちで繰り返し回帰してくるでしょう。歪み方が過剰になると、それはもはや「復讐」としてみなされなくなります。「復讐」を頭から否定していると、自分たちのやっていることがいよいよ分からなくなってくる。そういう回路に入ってしまうことのほうが、はるかに危険なのです。(p268)』

 

 僕はこれを読んで、「復讐」とは身体性のことだろうと、とりあえず理解した。情動という言葉を、あてはめてもほぼ同じだろう。

それは、目を凝らして見ようとしなければ消えてしまうような、(共に、すなわち平等に)生きようとする願いの、はかないが切実な証なのかもしれない。

 

 

「怪物のような「かのように」」を読んで

 

 

『ジャッキー・デリダの墓』(鵜飼哲著 2014年)に収められた論考、「怪物のような「かのように」」は、巻末の初出一覧を見ると2008年にパリのコロックにおいて発表されたものとなっているが、僕はこの文章を以前にも読んだことがあると思う。その時も内容を理解できず、今回も初めに読んだときは誤読した点があったことに、読み直してみて気がついた。

この論考では、前半の方で、生前のデリダが1995年のいわゆる「村山談話」をきわめて高く評価していたということが語られている。当時の国内政治の事情をしっている日本人は(左翼であっても)、この談話の価値を低く見がちである。それは、この「談話」と引き換えに、旧社会党を初めとする日本の左翼勢力が失ったものがあまりに大きかったと考えられているからだ。だがデリダは、西洋の外部において、日本という「帝国的同一性」を維持し続けてきた国家で、このような政治的言明(植民地支配の罪を認める発言)が行なわれたことの意味は、決して小さくないと考えたのだという。それは、政治的なフィクションであり、「演劇化」であったが、それでも、いや、むしろそれ故にこそ、大きな意味を持つ(持ちうる)はずだと。

そこからこの論考では、デリダが政治における「嘘の歴史」に関心を寄せていたことが語られ、続いて日本の「帝国的同一性」と「歴史(とりわけ主権)における嘘」とを考える上での結節点になりうる文学作品として、森鷗外の「かのように」(1912年)が論じられる。

大逆事件」(これ自体が稀代の政治的嘘だが)の衝撃のもとで書かれたとされるこの小説では、欧州に留学して西洋の合理主義を身につけた主人公が、国家の公式見解である天皇家の神的起源というフィクションに固執する父親にどう対処するかで悩んだ末、その解決策として、当時流行していたファイヒンガーの『かのようにの哲学』を援用することを思いつく。その最後で、主人公が友人の画家を前にして、「かのように」(フィクション)の政治的効用を尊重するという形で、自分の理性主義的な思考と、父のような頑迷な思想との折り合いを付けていくつもりであることを力説するのに対して、しかし画家はそのような辻褄合わせを認めず、主人公の言い分を嘲笑して、「巨人のように」その前に立ちふさがる。

この場面の解釈について、著者の鵜飼哲は、この友人(画家)は、『彼(主人公)の新しい崇拝の対象の苛烈な性格を』(p123)知っていたのだろう、と書いているのである。この「新しい崇拝の対象」とは、つまりこの論考の表題にもなっている「怪物のような「かのように」」というものであるわけだが、僕はそれを、天皇もしくは天皇制のことだと誤読していたのだ。

だが、読み直してみると、「怪物のような「かのように」」とは、フィクション(嘘)の持つ未知の力そのものに他ならない。その力は、時として、現実を取り返しのつかないような危機や解体に追い込む。天皇制という政治的な嘘も、もちろんそうした力を持っているが、ここで考えられているのは、それとは逆方向の、西洋的な理性主義に関わるフィクション、例えば「村山談話」のようなものだろう。

それは、フィクション(綺麗事)だからこそ、破滅的な危機と表裏一体の、想像もつかない未来をもたらす。ただし、その「苛烈な性格」が抑制されず、貫かれた場合に限ってのことだが。

その恐怖が耐えがたいものだからこそ、たとえば憲法九条の戦力放棄のようなものは骨抜きにされ、挙句は再軍国化へと差し戻されることになる。同様のことは、ここ数日なら「入管法改悪」や「LGBT差別増進法案」においても起きている。「人権」とか「命の平等」といったフィクションの徹底(がもたらすリスク)の「苛烈な性格」に、多くの人は耐えられず、「安定」の幻影の中での死と服従の方を選択するのである。

実際、「村山談話」というフィクション(「かのように」)もまた、徹底されることはなく、この国の人々はさらなる反動の大波に身を委ねていくことを選んだ。

このような、とりわけ理性主義的なフィクションの忌避という、この国の特異的と思える傾向は、どこに起因するのだろうか。

この論考の最後の部分で、鵜飼哲は、政治的な「嘘」がますます巨大な力を発揮しつつある当時の世界情勢に注意を促し、また日本の政治も、(『体制と文化の好みはむしろ隠蔽に傾いているとしても』(p128)という的確な指摘をさらりと付しながら)やはり戦前から政治的嘘の多用を常習としてきたことを確認する。そして、そのうえで、日本においては、嘘、フィクションというこのテーマが、まさしくデリダが指摘したこの国の「帝国的同一性」の核心に関わるものだということを強調するのだ。

 

『私たちが「政治神学的フィクション」あるいは「民族神話」と呼んだもの、天皇を現人神とする「王の二つの身体」の教義の非常に特異な形態、敗戦ののち天皇自身によって否定されたフィクション、あれは嘘だったのでしょうか?あるいは、戦後何人かの思想家や歴史家が主張してきたように、それは宗教的な性格の民間信仰であり、それが支配階級によって流用され変質させられたのでしょうか?この二つの見方には、結局のところどんな違いがあるのでしょう?仮にそれが政治的嘘だったとして、誰が誰を騙したことになるのでしょう?私の母のように戦争が終わるまで神風の奇跡を信じていた人々は騙されたと感じたのでしょうか?何について?誰によって?歴史的に唯一はっきりしていることは、天皇制のまやかしを告発した左派の言説、主として共産党系のそれは、民衆のあいだでは広い支持を得られなかったということです。そうである以上、嘘、いかさま、まやかし以外のもうひとつのカテゴリーが、日本という国家の、嘘の歴史以前に、ただ単にそれ自体の歴史を説明するためにも、発見ないし発明されなければならないでしょう。(p128~129)』

 

実は、最近、プラカードやマイクを手にしながら、僕が路上で感じていたことも、ここに書かれていることに似ている。日本の民衆は、たんに誰かの「嘘」に騙されて動いたり動かなかったりするわけではない。嘘の効果は、あえて言うならば民衆自身の意志によって作り出されている。彼らは、つまり私たちは、誰かに騙されているかのようにして、まるで無力で無知な非政治的客体であるかのように、自分たちの排他的な政治体を構成し維持し続けることを好むのだ。

それは、天皇制のあり方そのものだとも言えるが、その隠れた首謀者は、実は私たち「国民」だと言うべきではないか。

この「国民」こそを、葬らねばならない。

『ジャッキー・デリダの墓』

 

 

著者の師であり、畏友でもあったデリダの死から10年後の2014年に出版された本で、ずっと読みたいと思っていたが、これまで読んでなかった。 期待通りの凄い本だということは、書くまでもないだろうから、ここでは、いま思いつくことだけをメモしておこう。

デリダの死は著者にとってもちろん重大な出来事だったが、そこにはデリダの母の死、そして、著者の母の晩年の様子が関わっていたということが書いてある。 デリダの母は重度の記憶障害を経て、亡くなる1年ぐらい前から嗜眠状態に陥り、デリダはその母の傍らに付き添っていたようである。著者の母も、やはり重度の記憶障害に陥って行ったことが書かれていて、デリダはそれをずっと気にかけていたという(これは2001年頃のことで、デリダの母は90年代の初めに他界している)。

この母についての体験は、デリダの思想に大きな影響を与えた(と言ってよいであろう)。この本の内容は、どうしても(僕の読み方では)そのことが軸になってくる。思いっきりざっくり言うと、それは、後期ハイデガーの「放下」という概念にも関わるもので、デリダの「無条件的な歓待」の思想に通じている。 未来が、あるいは他者が、到来するままに任せる、ということだ。これは、この時代のヨーロッパ(と、その民主主義)が直面していた移民や難民の急増、到来という状況へのデリダなりの回答だったとも言える。

この未来や他者の到来が、ヨーロッパ的な理性、民主主義に対して、どれほど恐るべき帰結をもたらすことになるとしても、その侵犯的な到来を拒むべきではない、というのがデリダの姿勢、覚悟である。この点で、彼の思想は、(ナチスに接近した)ハイデガーやシュミットとの近接が、警戒・批判されることにさえなりうるだろう。

そしてこの当時の状況は、やがて2001年の「9・11」と「対テロ戦争」へとつながっていく。この本に収められた論考は、その時代の推移をもちろん映し出すものであり、さらにそれ以後に起きてくる様々な出来事(たとえば、ISISやトランプ)へと考えを広げざるを得なくさせるものである。

「メシアなきメシア主義」とも言われるデリダの思想は、柄谷行人の「交換様式D」のようでもあるが、それよりもはるかに危険なものだ(柄谷はあくまで「労農派」の思想家だということを、この本を読みながら思った。)。それは、(「美しい危険」という言葉が引かれているように)レヴィナスとの議論のなかで練り上げられていったものだろうとも思う。

 

ところで、ひとつ不思議に思ったことがある。著者がデリダに関して言う、「もうひとつの別の神」の系譜、可謬的であり可傷的でもある、無力な神のイメージは、ハンス・ヨナスが抱いていたという神のイメージとなにがしか重なるものだと思える。それは、誤った世界を産み出してしまい、そのことに関してもはや全く無力であるが故に、その世界についての責任を「われわれ」が代って負わざるを得ないというような、そういう神のイメージである。もちろん、その共通性のうえで、「われわれ」が主体的に未来を切り拓いていくべきだとするヨナスと、あくまで「到来するにゆだねる」こと、その危険に身をさらすべきであるとするデリダの態度とでは、正反対ではあるのだが、それにしても、そのヨナスについての言及が、デリダにも著者にも、僕が知る限りでは非常に少ないように思えるのは、どうしてなのか。これは、素朴な疑問である。

粗雑な書き方になるが、こういう神(創造神)のイメージは、やはり「母」についての私的な体験に関わっているようにも思える。ヨナスの母は、(デリダの場合とは違って)「ホロコースト」で亡くなっているのだが。

『動物を追う、ゆえに私は〈動物で〉ある』

 

 

1997年に行われたデリダの名高い講演の記録。

ここでは、デカルト、カント、ハイデガーレヴィナスラカンという人々の思想が、人間中心主義的なものとして批判されている。

デリダが人間中心主義の思想を批判する根本的な理由は、それ(人間中心主義)が人間のなかの「動物的生」と呼べるようなものを否定(否認)し、いわば「有限の生」ならざるものに、支配者・優越者としての人間の根拠を置こうとする思想であるからだと思う。

つまりそれは、(動物のような)「有限の生」という人間のあり方を否認するような思考への批判であり、グノーシス主義(最近の用語でいえば「反出生主義」)的なものに対立する態度だといえると思う。

そのことは、次の箇所によく示されている。

 

『先決的かつ決定的な問いは、動物が、苦しむことができるかどうかであるだろう。(中略)この問いは、ある種の受動性によっておのれを不安にする。それは証言する、それはすでに、顕わにしている、問いとして、ある受動可能性への、ある情熱=受苦、ある非-力能への証言的応答を。(中略)苦しむことができることはもはや力能ではない。それは力能なき可能性、不可能なものの可能性なのである。われわれが動物たちと分有している有限性を思考するもっとも根底的な仕方として、生の有限性そのものに、共苦の経験に属する可死性は宿っているのである。この非-力能の可能性を、この不可能性の可能性を、この可傷性の不安およびこの不安の可傷性を、分有する可能性に属する可死性は。(p58~59)』

 

この後半部は難解だが、要するに、傷つき苦しみ死去しうるということが、有限な生存としての動物たちと人間の生の共通な根底を形成している、といった意味だろう。そうした苦痛に満ちた有限性を否認するなら、私たちは生の現実を自ら取り逃してしまう。

しかし、どのようにか?

デリダは、上記の西洋の思想家たちの人間中心主義的な思考が、彼がアブラハム的と呼ぶ永い文化的・宗教的(「キリスト教ユダヤ教イスラム教的」)な伝統、動物に対する「供犠」の系譜に属するものであることを強調する。

 

『すなわち、これらの言説のすべての心臓部に生き生きとした搏動を刷り込んでいるのは供犠であるということ。(中略)人間的空間における、基礎的な供犠、基礎づけ的な供犠そのものの必要であり、いずれにせよこの空間のなかでは動物に対し、必要な場合はそれを死に処すことまで含めて、指図することが禁じられてはいないのである。(p171)』

 

この見方は、特にカントの道徳哲学に対する批判において明瞭に示されるのだが、その人間主義的な道徳思想、たとえば「権利」や「尊厳」といった概念が、動物及び人間の動物的生を犠牲として奉げることによって成り立っていることを、デリダは執拗に告発する。

 

 

ところで、前近代を十分に脱却してこなかった日本社会においては、元々「人間(主義)の否定」に対するハードルは無残なほどに低い。(実存主義精神分析のみならず)ヒューマニズムや人権概念をも人間中心主義(=供犠の思想)と見なして攻撃するデリダの言説は、この為、日本では受け入れられやすいのである。そもそも、「人権」だの「人間の平等性」だの、誰も本心からは信じていないのだから。

だが、忘れてならないことは、デリダの批判は、他者の「有限な生」を犠牲にすることによって主権者の優越的な立場を正当化するような思考と態度、そして制度に対してこそ向けられている、ということだ。デリダの、(あえて言えば)動物についての哲学とは、そういうものである。

すると、日本のような国の文脈においては、この「動物」たち(デリダは「アニモ」という造語をあてているのだが)には、実に多くの語(たとえば、ジェンダーや国籍に関する)を代入できそうなことが分かるだろう。

 

『この共形象をなす男たち(注 上記の西洋の哲学者たちを指す)、あたかも彼らは見られずに見たかのようであり、動物に見られることなく、動物に自分が見られているのを見ることなく、動物を見たかのようなのだ。動物的と言われる生の底からおのれを差し向けて、その瞬間彼らに、それもまなざしによってばかりではなく、自分がかかわっていることを認めさせたはずの誰かから、自分が裸なのを見られているのを見ることなく。(p36)』

 

 

『雄羊』

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デリダが亡くなる前年の2003年に行われた、ハンス・ゲオルク・ガダマーを追悼する記念講演を文章化したもの。

最初のパートのなかで、こういうことが書かれている。

 

『というのも、そのたびに、そのたびに単独=特異に、そのたびにかけがえなしに、そのたびに無限に、死は、まさしく世界の終わりだからである。それは、世界内の誰かあるいは何かの終わり、ある生あるいはある生者の終わりといった、数ある終わりの内の一つであるだけではない。死は、世界内の誰かを終わらせるのでも、数ある世界の内の一つを終わらせるのでもない。死はそのたびに、そのたびに算術の計算に立ち向かって、ただ一つの同じ世界の絶対的な終わり、それぞれがただ一つの同じ世界として開始するものの絶対的な終わりを印づける。唯一無二の世界の終わり、人間であろうがなかろうが、しかじかの唯一無二の生者にとって世界の根源として存在する、あるいはそのようなものとして現われるもの全体の終わりを印づけるのである。

 そのとき、生き延びる者は、ただ独りで残されるのだ。(中略)彼は、少なくとも自分がただ独りで責任を負う者だと、他者をも彼の世界をも担う定め、消滅した他者と消滅した世界そのものとを担う定めを負う者だと感じている。世界なしに(weltlos)、どんな世界の土地もなしに、以後は、世界の終わりの彼方の地の果てのような、世界なしの世界の中で、ただ独りで責任を負う者だと感じている。(p020~021)』

 

ここで言われているのは、こういうことだと思う。

ある人(もしくは人間以外の生き物)の死に直面したとき、(特にそれが身近な存在の死である場合には意識しやすいが)その人(もしくは動物など)が不在である世界を、私たちは現実として受け入れ難いという思いを持つ。それは、昨日までの(死以前の)世界がそうであったようには現実ではなく、私には現実として受け入れることができない、現実ならざる様相の世界でしかない。

つまり、そのとき、「唯一無二」である、この現実の世界そのものが(私から)失われているのだ。

私にとっての生命の喪失というのは、本来そうした出来事である。デリダが言っているのは、まずこうした事柄であると思う。

そして、二段落目では、このように「世界なしの」状況にただ独り置かれた私(生き延びる者)が、他者と向き合い、他者とその世界を担い、責任を負うという、「単独=特異」な場所の倫理性が語られているのだが、このような場所こそが、デリダが私たちの生の剥き出しの在り様として見出したものだと言えるだろう。

生命の喪失、他者の死は、(私にとって)取り返しのつかない(かけがえのない)ものだが、その「取り返しのつかない」ということこそが、じつは私という生存の独異性(「単独=特異」)を支えている。身近なものの死は、そうした生存の構造の在り様を、私たちにまざまざと知らしめるのだ。

 

 

さて、そこからデリダは、やはり生前に深い関わりのあったパウル・ツェランの詩の読解を通して、このテーマを掘り下げていく。その詩とは、最終行に

 

『世界は消え失せている、私はおまえを担わなければならない。』

 

と書かれている作品である。

デリダは、たとえばこのように述べている(日本語表記のみ引用)。

 

『世界がもはや存在せず、もはやここにではなく、彼方に存在しようとしているとき、もはや近くにはなく、もはやここにではなくあそこに、もはやあそこにすらなく、遠くに消え去って、たぶん無限に接近不可能であるとき、そのとき私はおまえを担わなければならない、まったく独力でおまえを、おまえだけをただ私の内だけに、あるいはただ私の上だけに担わなければならない。(p073)』

 

『もし私、この私が、おまえ、おまえを担わなければならないならば(ところでは)、さて、その場合には、世界は消滅しており、世界はもはやそこにもここにもなく、「世界は消え失せている」。(中略)もはや世界がない世界に、私はただ独りだ。(p074)』

 

さらに、講演の後半では、デリダが強い影響を受けてきた三人の思想家、フロイトフッサールハイデガーへの批判的言及を通して、この思索が展開されていく。

 

『それでもなおある種のメランコリーは、正常な喪に抗議するに違いない。このメランコリーが、理想化的な取り込みを甘受するはずがない。フロイトが、まるで正常さの規範を確証するためでもあるかのように、もの静かな確信を持って述べていることに対して、メランコリーは激怒するにちがいない。「規範」とは、健忘症の良心にほかならない。そのおかげで私たちは、他者を自己の内部に自己として保存すること、それはすでに他者を忘れることだということを忘れることができる。忘却が、そこに始まるのだ。だから、メランコリーが必要なのだ。(p081)』

 

またフッサールに関して、

 

『そのとき私は、世界が見えなくなるところで、他我を担い、おまえを担わなければならない。(中略)自己固有化することなしに担う必要があるのだ。担うとは、もはや自己の内に「含む」こと、封じ込めること、包含することではなくて、まさに私の内部でも、つまり私の外なる私の内で、他者の絶対的超越性を迎え入れるために、他者の無限の自己固有化不可能性の方に向かうことなのである。そして私として私が存在するのは、私が存在することができるのは、私が存在しなければならないのは、私の内における無限に他なるものの、この脱臼した奇妙な懐胎期間以降のことでしかないのだ。世界がもはや私たちのあいだや私たちの足元には存在せず、私たちのために媒介を保証したり、基盤を強固にしたりすることのないところで、私は他者を担い、おまえを担わなければならず、他者は私を担わなければならない。(p083)』

 

『存在する前に、私は担うのであり、私である前に、私は他者を担うのだ。私はお前を担い、そうしなければならず、私はおまえにその義務を負っている。(p084)』

 

これらの批判的言及において強調されているのは、「自己固有化」されない、つまり同化されない他者と、「世界なしの」状況において出会うことの重要性である。

そういう他者との出会いだけが、私の生の独異性を成り立たせる。私が、そうした他者とその世界(生)を(「世界なし」に)担うことによってだけ、私は独異(「単独=特異」)な生としての、私自身として生きうるのだ。

デリダのこのような言葉が、2003年のヨーロッパにおいて、難民や宗教(的対立)の問題を念頭に置いて述べられたものであることは明らかだろう。

そして、この講演の最後では、次のように述べられる。

 

『(前略)私としてはまず、私たちの内で、私たちよりも前に他者が語っているその場で、私たちがどれほど他者を必要としているのか、これからもなおどれほど彼を必要とし、彼を担うことを、彼によって担われることを必要としているのかということを喚起することから始めただろう。(p088)』

 

こうして、ヘルダーリンのある詩の一節が引かれて講演は終えられるのだが、その一節は、訳注によると、(より正確には)次のようなものである。

 

『ほかのものたちにたよるということは / 良いことだ。だれもただひとりでは生(いのち)に耐えないからだ』