国場幸太郎『沖縄の歩み』

国場幸太郎の伝説の名著ともいわれる『沖縄の歩み』が、今年6月、岩波現代文庫から修正を加えて再版された。この本は、施政権返還から間もない1973年に、牧書店というところから、青少年向けのものとして出版されたそうだが、平易な文章でありながら重厚な内容である。

 題名の通り、古代からの沖縄の歴史を書いてるのだが、冒頭の二章に沖縄戦を置き、それ以前とそれ以後の歴史を書き継いでいくという異例の構成だ。沖縄にとって、歴史とはどのようなものとして存在するのか、そして、それは沖縄だけにあてはまることなのか、このことからだけでも考えさせられよう。

 73年の初版時に書かれた「まえがき」で、著者の国場は、こう書いている。

 

『沖縄を見る目は、日本を見る目をするどくすると、よくいわれます。沖縄の歴史を知ることは、沖縄の現実を理解し、沖縄の将来を考えるのに必要なだけではありません。それは、また、日本の真実の姿に照明をあて、日本の前途を考えるためにも必要なことです。

 私は、そう考えて、この本を書くことにしました。(pⅲ)』

 

 つまり、呼びかけられているのは、私たち日本の民衆でもあるのだ。

 

 

 本書の最大の特徴は、なんといっても、沖縄が歴史のなかで常に日本(ヤマト)の植民地主義の暴力にさらされてきた、という視点の一貫性だ。

最近、首里城の消失に際して、琉球王国の繁栄が想起され、明治の「琉球処分」がそれを無残に潰したことも語られたが、本書を読むと、それに先立つ薩摩藩の(構造的には日本全体による)琉球への支配こそが全ての始まりだったことがよく分かる。

 明治以後、アジア侵略に向かう日本帝国の(戦後は日米の同盟による)政策の下で、そうした支配からの脱却を求めた沖縄の人々の歩みを、著者は(自身の米軍機関による拉致・拷問の体験をも交えながら)書いていくのだが、そこでとくに印象的なことは、あくまで内側からの批判の目を失わずにしっかりと見つめる姿勢だ。その捉え方が、よく示されている箇所を引用しよう。

これは日本復帰運動が始まった1950年頃の沖縄の状況に関するくだりだが、当時も一部にあった反対派(「独立派」)の「日本に復帰したのでは、被差別と搾取の現実が再来し、沖縄戦の悲劇が繰り返されるだけだ」という主張に対して、復帰派の人びとが「われわれが復帰しようとしているのは、かつてのような天皇中心の日本ではなく、国民中心の民主主義的で平和愛好国家の日本なのだから、そんな心配は杞憂に過ぎぬ」という趣旨の応答をしていたことについて、こう書かれている。

 

『これでは、問題の答えになっているとはいえません。なぜかというと、ここにえがかれている日本の姿は、現実の日本の姿ではなく、日本復帰を主張する人びとの胸のなかにある理想の姿でしかないからです。もし、当時の日本が、ここにえがかれているように理想どおりの民主的な平和愛好国家になっておれば、沖縄を日本から分離して、アメリカの軍事基地にすることに、日本政府が賛成するはずはありません。

 しかし、事実は逆に、日本政府は、日本の独立を回復してもらい、資本主義経済を立てなおしてもらう代償に、沖縄をアメリカの軍事占領支配にゆだねたのでした。第二次大戦の末期に、アメリカ軍の本土上陸を引きのばし、本土決戦を避けるための捨て石にされた沖縄は、こんどは、日本が敗戦の憂き目から立ちなおるための質草として、アメリカにゆずり渡されたのです。そして、沖縄の住民が「八千万同胞」と親しく呼びかけている日本国民も、一部の人びとをのぞいて、沖縄のことにはほとんど関心がありませんでした。それでも、なお、沖縄の人びとは、理想の「祖国」を思いえがいて、日本復帰運動をつづけました。それ以外に、アメリカの軍事占領支配からぬけ出す道を見つけることができなかったのです。(p224~225)』

 

 著者は、上記の反対派の言い分が「杞憂」に終わらなかったことが明白となった、1973年の時点に立って、これを書いているのである。

 結局、日本の(あるいは日米の)植民地主義的な支配から脱却し、解放されようとする沖縄の人々の歩みは、一面では、つねに、理想化された強い他者(清国・祖国日本・米国など)に依存しようとしては裏切られるものだった。このことは、一見「解放」とは逆のベクトルを持つように見える「日本化」「皇民化」の願望の底にも、共通して見出される、沖縄の人々の苦しみのあり方であり、桎梏そのものだったともいえよう。

 国場(著者)は、そうした理想化された他者への依存という心性から脱して、自分たちの足下から解放への道筋を作り上げていくことの大事さを、この本で語っている。

 そして、その実践の生きた証として、とりわけ第二次大戦後の沖縄の人々の、米軍の軍事占領に対する抵抗の積み重ねを見ようとするのである。それは、ひたすら「本土なみ」になることを求めてきた戦前の沖縄の姿と対比する時、自分たちと同様に外国の植民地支配の暴力に苦しんできたアジアの人民との連帯を目指すという、まったく新しい心のあり方を示しているからだ。

 このような国場の眼差しは、天皇(そして米国)という理想化された依存の対象に、またしても耽溺しつつある私たちをこそ、鋭く打つものであろう。

 

 

沖縄の歩み (岩波現代文庫)

沖縄の歩み (岩波現代文庫)

 

 

『ジハードと死』

本書で著者は、宗教の過激化(原理主義)と、過激性の宗教(イスラーム)化とを区別している。

前者は、移民やグローバリゼーション、それに世俗化(ライシテ)といった原因によって引き起こされている「宗教の脱文化」(宗教が文化から切り離されること)と呼ぶべき現象であり(ただ、著者がこれを現代に特有の現象と考えているのかどうかは、僕にはよく分からなかった)、それと「大規模テロ」やダーイシュへの若者たちの参加という状況とは、全く無関係とはいえないが、別に考えるべきだと、著者は主張する。

宗教がどれほど原理主義化・過激化したところで、それが過激な「テロ」や聖戦を引き起こすとは限らない、というのが著者の言いたいことである(米国のキリスト教原理主義などを見ていると、もっとひどい破壊を引き起こしてる気もするが)。

「大規模テロ」を実行したり、シリアでの「聖戦」に参加したりする若者たちに見られるのは、死への願望のようなものであり、彼・彼女らは死によって、自分の生に「大義」を付与し、(主観的な)栄光を手にしようとしてるのだ、というわけである。

神風特攻隊を思い出させるが(もちろん、カミカゼという言葉はこうした行為をする世界中の人たちの間では有名なものだろう)、このあたりの分析には興味深いものもある。

それは、現代の世界における実存ということに関わっているからだろう。

 

『彼らは親よりも先に死ぬが、そうすることで、親に救いと永遠の命をあたえる。自分が犠牲になれば、罪に汚れた親は自分の仲介で天国にいけるというわけだ。テロリストたちはこうして親を生みなおすのである。(p58)』

 

そして著者は、こうした若者たちの行動は、イスラームや宗教にとどまらないもっと広範囲な「過激性」の広がりの一部をなすもので、その大きな広がりがイスラームをも捉えたということであり、それをもっとも巧妙に活用した勢力がダーイシュであるという。

実際に、最近の例だけを取りあげても、やまゆり園の事件や京アニの事件など、日本でも宗教とは関係のないところで、大規模な殺傷事件が発生している。もちろん、宗教の名による「大規模テロ」が日本でもあったことは、まだ記憶に新しいが(なにしろ「神風」をはじめとして、天皇教というカルトによる国家的な大殺害をやってきた国である)。

だから、こうした大規模な暴力事件や行為の根底にあるものが、宗教という問題圏を越えているということ、少なくともそれとは別な種類の現象だということは、納得できる。

ただ、その「過激性」という大きな現象の中味については、本書では十分な分析がされているとは思えない。著者の主な関心は、先述の「宗教の脱文化」の方にあり、「過激性」一般の方は、やや専門外なのではないかと思う。

著者は、このことを「若者」一般の傾向のように書いてしまうのである。

 

『世代に依拠した反乱は、中国の文化大革命からクメール・ルージュを経てダーイシュにいたるが、そこには、すべてを白紙にし、記憶を消し去り、親たちに対して真理の支配者になろうという意志が刻みこまれている。過激な若者が反逆に向かうのは、松明を受けつぎ反乱を継承するためではなく、過去の記憶が欠落し、親たちが沈黙と無力におちいっているからである。ドイツ赤軍は前の世代がナチスの時代について口をつぐんでいることを非難していた。また一九六〇年代にフランスに移住したアルジェリア人二世たちにとっては、フランスに抗する民族をあげての戦いについて高言を吐いてきた一世たちが、結局フランスに移住し、隷属同様の立場に甘んじていることが理解しがたかった。(p145)』

 

「沈黙と無力」というが、ドイツの戦中世代が「沈黙」したのは(日本でもそうだが)、無力どころか、力を保持する為だろう。アルジェリア人一世たちが強いられた「無力」とは、その帰結は旧来の支配構造の温存ということで同じであっても、立場においては全く違う。

著者の視点には、そういう過去から現在へと継続している構造に対する批判の力が欠けているのだ。

それは、生を束縛する現実を直視する力を欠いているということであり、したがって、その現実のなかに置かれた実存の苦悩に関しても、制度の内側の視点からの分析にとどまってしまっている。

 

ジハードと死

ジハードと死

 

 

大道寺将司句集『残の月』

『残(のこん)の月』は、大道寺将司の2012年から15年までの作を収めた句集である。

死刑囚であったことに加え、晩年の2010年以降はガンとの闘病も重なっていたからだろうが、自分の生命(それは国家ではない、別の何ものかによって生かされていた)と向き合い、そこから、自分が奪った生命の重さ・かけがえのなさにあらためて直面し、さらに、歴史の中で権力により奪われていった無数の生命の重さにあらためて思い及んでいく、そうした過程を想像させる本になっている。

また、2011年3月に起きた震災と原発事故に関連する句(明示されていなくても)が多いのは、(国策によってもたらされたものでもある)災害や被曝という事柄が、この生命への思いと深いところで重なるものだったからに違いない。

以下、ランダムになるが、句の感想を記しながら内容を紹介する。

 

生きてあることの宜しくづくの鳴く

 

きれぎれの一生涯よひこばゆる

 

いくそたび告げられし死ぞ草青む

 

 「づく」とはミミズクのことだそうだ。

最初読んだとき、「きれぎれの一生涯よ」という表現からは否定的な詠嘆のような印象を受けたが、「ひこばゆる」(根株や折れた枝先に芽が出ること)という語意を知り、次の句の「草青む」という言葉ともあわせて考えると、むしろ、そういう極限の状況にあっても息づき続ける生命の力の不思議さを肯定する心境を詠ったものに思えてくる。

だが、それはもちろん、以下の句に詠われるような死の切迫の実感と表裏をなすものであったろう。

 

花の朝のんどをごきと潰されし

 

堕ちむ時ちちろの声を聞かむかな

 

塩辛き時雨に濡れて消えゆくか

 

あじさゐやまた今生の朝迎へ

 

西瓜食ぶ刑死のことは考へず

 

蝉のこゑ秋津の鬼になれと言ふ

 

月白や残さるる日を恃みとし

 

縮みゆく残の月の明日知らず

 

「ちちろ」とはコオロギのこと、「秋津」とは日本の呼び名、そして「残の月」とは「まだ残っている月」をいう言葉だそうだが、また次のような句もある。

 

狭霧湧く駅に待たるるのどぼとけ

 

キム・ミレ監督のドキュメンタリー『東アジア反日武装戦線』では、大道寺の故郷である北海道の地の深い霧が印象的だ。

狭霧湧く駅とは、その郷里の駅のイメージだろうか。そして、のどぼとけとは、もちろん遺骨の隠喩だろう。

その「故郷」への思いは、次のような歴史の現実と切り離せないものとしてあった。

 

落葉敷くアイヌ・モシリに父母の墓

 

ノッカマップに散り敷く枯葉群れ立てり

 

ノッカマップとは、その故郷に近い、蜂起したアイヌが和人に虐殺された地であるという。

その思いの重さに押し潰されるようにして自分が犯してしまった、生命に対する取り返しのつかない罪への悔恨。

 

贖物は身ひとつなりぬ断腸花

 

加害せる吾花冷えのなかにあり

 

冬の月詫ぶる四壁の絶え間より

 

息の緒を奪ひてしるき烏瓜

 

 この最後の句の印象は、とりわけ峻烈だ。息の緒(命)を奪ってしるきものとは、自分(大道寺)自身でもあり、また同時に国家(つまり僕たち)でもある。

そう自覚して、次のような句も読まねばならない。

 

木枯や連れて帰らぬいのちたち

 

枯葉掻くごと員数を除きけり

 

武士という存在が大きな比重を占めた、日本の伝統文化や宗教・思想においては、「殺害からの回心」ということが、重要なテーマになってきた(「善人なおもて往生を遂ぐ」など)。大道寺将司が、俳句という伝統的な詩形にその深い表現の場を見出したことは、その意味で偶然ではないと思う。

 彼は確かに直接的な殺害を行った。だが、侵略戦争や植民地支配、また死刑制度ということを別にしても、人間社会で間接的な殺害を行っていないものなど、果たして居るだろうか。

その殺害の規模と、正当化の仕組みとは、今日急速に増大と高度化の一途をたどっている。

大道寺の表現は、その事実への内省をも鋭く迫るものとなっていると思う。

 

 

国家が生命に及ぼした暴力である、震災の被害や被爆に関する句としては、「放射能」「建屋」「セシウム」といった語を用いた直接的な表現のものが目を引くが、僕としては以下のような明示的でない作に、特に心惹かれるものを感じた。

 

なり見えぬものこそ恐し花けぶる

 

散らされし牛の野晒し星流る

 

人絶えし里に非理なし蝉時雨

 

料峭の地に赤丸の旗垂るる

 

「料峭」とは、春先の寒い時期の気候のことをいうそうだが、この句集においては、それが「3・11」の記憶と結びついていることは明白である。

 

 

さらにもう少し、句の感想を書いておこう。

 昆虫をはじめとした小動物への共感、そこにかもしだされるたくまざるユーモアは、この作者の特徴の一つのようだ。たとえば、

 

九条も螻蛄(けら)の生死も軽からず

 

秋の蚊の拗ね者に仇なしにけり

 

燕雀の性根は勁し芋嵐

 

梟の眠りうかうか四十年

 

野伏せりとちちろの夜を分けにけり

 

 「ちちろ」は、先に書いたようにコオロギのことらしい。「野伏せり」とは、野宿者や山賊のことを言うと注釈にあるが、「賊」とは、国家の意に沿わず生きる者の総称でもあるだろう。この句には、「分けにけり」という言葉に、共生の理念を感じさせるところがある。

また、2014年の、「韓国珍島」という前書きを付された

 

沈没を無為に見てゐる四月かな

 

という句は、明らかにセウォル号事件のことを詠んだものだろうが、大道寺の心がなお朝鮮半島の人民にあったことをうかがわせると同時に、牢獄のなかにある自分の無力への言いしれぬ思いが伝わってきて、忘れがたい印象を残す。

 

花冷えやただあてびとを仰ぐ群

 

 「あてびと」とは、高貴な人の意。

 

日の丸の波不穏なる土用入

 

尊ぶは倭ばかりや冬ざるる

 

日の丸の揺れて戦時の貌となる

 

啓蟄やみな心中に狂気秘め

 

憲法卯の花腐し頻るなり

 

 「卯の花腐し」とは、梅雨に先駆けて降る長雨のことだそうだが、沛然と降る雨は古くから処刑のイメージにも重ねられる。

 江戸時代初期の若狭(小浜)の義民として知られる松木庄左エ門が処刑された時、刑場に「卯の花腐し」が降り注いだという記録があるのを大道寺は知っていただろうか。

 

抗はぬ民と侮る春の潮

 

蒼氓の枯れて国家の屹立す

 

 「蒼氓」とは、石川達三の第一回芥川賞受賞作の作品名としても知られるように、困窮し流浪する人民をあらわす言葉である。

そこには、アイヌモシリに植民すること余儀なくされた「父母」の記憶が重なり、また原発事故によって故郷を追われたうえ、避難した先でも排除されようとする、国家の犠牲者である民衆の姿が浮かぶだろう。

 

 

大道寺将司は、極限的な生存のなかでこれらの作品を残したことによって、生命を否定する国家権力と死刑制度に対する最大の弾劾を為したと思う。

 

 

うどん屋にて』

 

昨日、中之島であった抗議集会とデモに行く途中、入ったうどん屋でたまたま中継を流してたので、新天皇が即位にあたっての所信表明みたいなのをする場面を見た。

各局が昼間は特別番組を組むのかと思ってたが、NHK以外は通常営業のワイドショーで、芸能ネタなど他の話題を流してる合間に、適宜「式典」の生映像を入れるというスタイルだったようだ。それだけ、天皇制(=軍事化)が、日常に深く浸透したということだろう。

店員も、お客たちも、中継には関心を示していない、もしくはそんな風を装っていたが、それでも画面をチラチラ見てる人も居て、その一人が僕だった。

すだれみたいなのが開いて、天皇が出現するシーンは、昔の手品みたいで滑稽だったが、外国の人には分かりやすい演出(「東洋」のイメージ)だっただろう。

天皇の言ってることは、あまりにも型どおりなので、逆にびっくりしたが、よく考えれば、「先代」も即位当初はあんなものだったと思う。官僚の作文、もしくは吹きこまれた内容を、あたかも自分で考えたもののように演じきること、そのように自分でも思いこむこと(それが、リベラリズムというものの内実だが)には、「芸」の熟練が必要で、「先代」がその域に達したのは、退位間近になってからだったと思う(彼の越えられない理想である先々代に少しは近づけたか?)。

もちろん、熟練した芸人とは、観客の「願望」を、無意識のうちに感じとって演じて見せる者のことを言うのである。

 

温かいうどんの味はまずまずだったが、「冷やしぶっかけ」にすれば良かったと、店を出るとき思った。

『東アジア反日武装戦線』を見て

先週末、京都市内で『東アジア反日武装戦線』という韓国のドキュメンタリー映画の上映会があり、参加した。

1970年代に日本で起きた有名な一連の事件と、関係者のその後を題材としたものである。監督のキム・ミレさんは、韓国で労働問題を題材に映画を撮ってきた人だが、その彼女がこの出来事について知ったのは、日本に来て釜ヶ崎で「昔、こんな闘いをした人たちが居た」と、偶然に聞いたことによる。

建設労働者であった父親をもち、韓国や日本社会における虐げられた人たちの映画を撮り続けてきたキムさんは、この出来事に強い関心をもち、映画をとるにいたったようだ。

作品では、当時の檄文などと共に、事件の経緯が詳しく紹介され、その中心となった人たちの痕跡や、その後の人生を追って、日本各地で撮影が行われる。それを通して、この出来事についての、日本の権力や社会の対し方のようなものが(他者の眼から)浮き彫りにされていたと思う。

また、被告となった人たちの、その後の思想や心情の変遷、それに彼女たち・彼らを支える、周囲の人々とのつながりに、暖かい目が注がれる。

 

 

上映が終わって、キム監督がトークを行ったのだが、その冒頭で彼女の言った言葉について、ずっと考えている。

それは、この映画の上映は、韓国国内の映画祭や集会の場で何度も行ってきたが、今日のこの場の雰囲気は、それとは全く違う。今日の雰囲気は、まるで殺人者に対してでもいるかのような、ひどく緊張したものに感じる、という意味の言葉だった。これは、かなり強い違和感の表明のように感じられた。

僕自身、ある種の緊張を覚えながらこの場に臨み、映画を見たと思うので、この言葉は心に刺さるものがあった。この出来事に対する時の、独特な心の「構え」のようなものは、何に由来しているのか?

映画では、取材をすすめるうち、日本の社会では(おそらく、運動に関わる人たちの中でさえ、ということだと思うが)、この一連の事件が、タブーになっていると気づいたときの、作り手の違和感が表明されている。

韓国から来た作り手たちは、死刑囚とされた人への面会が認められないというような、制度の冷酷さにも衝撃を受けるのだが、故郷の土地においてさえ、その人たちの存在の痕跡まで消されているような、また刑を終えて出所してきた被告の人たちを地域社会から排除するといった、日本社会の姿に対しても、慄然とする。

まるで、彼女たち、彼らの存在は、(運動を含む)日本社会のあらゆる空間において許容されてはならないものだという了解が、社会の隅々までを覆っているごとくである。

この時のキム監督の言葉は、このタブー化に対する違和感と、重なるものだったのではないかと思う。

 

 

おそらく、「東アジア反日武装戦線」の存在が(特に運動に関わる人たちのなかで)タブーになっている理由は、天皇の暗殺を企図したということもあろうが(いわゆる「虹作戦」について、僕はその詳細をこの映画を見て初めて知った)、それ以上に、爆弾テロによって多くの人を殺傷した、命を奪ったということにあるのだと思う。

それは、どんな目的のためであっても、人命を奪ってはならないという絶対的な規範を蹂躙するものだったゆえに、その後の運動史のなかで否定され、タブーになっていったのだろう。

それは、社会運動の封じ込めと忘却が進んでいく、当時の日本社会全体の動きと同期するものでもあったが、運動内部の認識としては、内ゲバやリンチに象徴される陰惨な体質から脱却し、より人間的なものを目指したいという、当然な希求があったと思われる。

実は、ぼくはこの上映会に行くにあたって、この過去の出来事を自分の現在と接続するには、「東アジア反日武装戦線」の行動や思想のなかに日本の社会や文化の「軍事的な伝統」が内在していることを指摘する他ないと思っていた。「軍事的な伝統」は、上に書いたような運動内部の暴力という形でも当時から露呈していた事柄だし、それは形を変えて(パワハラやセクハラなどの形で)、身体の次元の問題として現在も継続しているものだと思えたからだ。

それで、そういう批判的なことを、上映後の討議の時にも言ったと思う。

 

 

 だが、考えてみると、そうした暴力(「軍事的な伝統」)の否定や、人命の尊さの強調といったことは、あの出来事のタブー化とほんとうに重なるものだろうか。

 そもそも、「東アジア反日武装戦線」の人たちの行動のもととなったのは、戦前や戦時中、そして戦後においても、アジアの膨大な数の人たちの命が、日本の帝国主義や資本によって奪われ続けているということ、そして、その現実が社会から何ら省みられることもないということへの憤りだ。

その結果として彼らがとった方法は間違っていたかもしれないが、こうした現実をこれだけ真摯に受け止めた日本人が、当時極めて少なかった(今はもっと多いのだろうか?)ということも確かである。

その人々が行使した暴力の犠牲者の「命の尊さ」を理由にして、この出来事をタブー化してしまう人たちは、アジアの膨大な犠牲者たちの人命について、このタブー化の厳粛さに見合うだけの受けとめ方をしてきただろうか。そうでないならば、ここには、国内的な人々の死と、他者の死との間の、「命の差別」があることになる。

国内的な暴力が許容されてはならないということを理由に、他者への巨大な暴力を問題にした人々の思想や心情が(タブー化によって)封印されてしまうのなら、それは国家による「命の差別」の一翼を私たちが担っていることになるだろう。

 

 

あの映画を作った人たち(彼女たち、彼らは、韓国国内の外国人労働者の被差別的状況をずっと問題にしてきた)は、私たちが行なっているかもしれない、その「命の差別」に目を向け、おそらくは、慄いているのだと思う。

『日本の政治』を見て

 

いま、神戸映画資料館というところで、戦後の労働組合の映画の特集上映をやっていて、昨日の土曜日はその第一回目ということで、見に行った。

僕が見たのは、1949年に国労が作った『号笛なりやまず』から、1960年の三池闘争の映画までの何本か。

感想は、いろいろあるんだけど、一点だけ書いておくと、これは59年に全逓(この頃の全逓は、最も闘争的な労組の一つと言われてたはずである)が作った、『日本の政治』という、当時の岸政権を批判する内容の記録映画がある。

60年安保の前年だが、この時代はまだ高度成長以前で、日本でも「貧困」(他の映画でも取り上げられていた九州の炭鉱などで貧困に苦しんでいたのは、「日本人」ばかりではなかったはずだが)が政治批判の重要な材料となっていたことも分かる。映画では、岸政権の対米従属姿勢(アイゼンハワーに愛想を振りまきながらゴルフをし、戦闘機などのバカ高いものを買わされて、米国資本と軍事に奉仕することで権力維持する首相の姿)、その一方で、貧困に苦しむ庶民の姿、組合員や教員などに対する右翼の暴力、そして、それ以上に恐ろしい暴力的な集団としての「国家公安警察」(デモ隊役と警官隊役に分かれて、楽し気に鎮圧の訓練をする映像も、今と同じだ。もっとも、「デモ隊」の掲げてるプラカードに「給与を上げろ」と書かれてたのには、ちょっと驚いたが。そういうデモも力づくで抑え込む気だったんだな)などが次々に映し出される。

 

それは、岸の孫が首相として長期政権をやっている今の日本の姿にあまりにも似ているのだが、同時に思うことは、それを批判する描き方も、変わっていないということだ。

それは、進歩がないとか、代わり映えがしないからいけないという意味ではない。

だが、政権批判は、そこでは、かつて戦争を行った日本の社会や、労働者を含む国民自身につながる重さを、必ずしももっていない。

岸の政治姿勢を批判し、「この道はいつか来た道」というナレーションが流れるのだが、そこでオーバーラップされる映像は、今と同じく、ヒットラーである。つまり、岸(そして安倍)という敵の表象は、この天皇制国家日本がかつて行った、実際の戦争に重ねられることは、微妙に回避されている。

続いて映るのは、「広島・長崎の惨禍」であり、あくまで「戦争の被害者」としての国民のイメージだ。被爆した多くの朝鮮人や中国人のことが省みられることは、(今でさえそうななのだから、当時はもちろん)当然ながら、ない。

 

そういうわけで、政権批判の言葉やイメージが、国民自身、私たち自身の加害性への反省に基づくということは、この時代の運動においても、こうしたマクロな局面に限っていう限りは、まるでなかったということがわかる。

こうした批判や抵抗が、天皇崇拝や国民中心主義・排外主義、あるいは経済(豊かさ)絶対主義のようなところに収斂されて衰退していくのは、ある意味、当然なことではないかとも思えた。

炭坑や、鉄道をはじめとした、闘争と生活の現場で無残に敗れ、死んでいった数多くの労働者やその他の人たちのことを考えれば、なおさらそう思えるのである。

『資本論』第三巻から

資本論 6 (岩波文庫 白 125-6)

資本論 6 (岩波文庫 白 125-6)

続きを読む