『増補 エル・チチョンの怒り』

図書館が休館中ということもあって、かなり久しぶりに本屋で新刊の本を買った。

岩波現代文庫の『増補 エル・チチョンの怒り』(清水透著)だ。

 

 

この本は、著者がメキシコ南部チアパス州のチャムーラという先住民の村をフィールドワークした結果をまとめた1980年代後半の著作に、2010年代以降の人々と村の状況をリポートした増補分をあわせたもの。

メキシコ先住民(「インディオ」というのは、植民地支配の中で生み出された総称)の近現代史を背景に「村」の実情を描き分析した前半の部分だけでも、ずっしりと重いが、後半に書かれた近年の変容ぶりは、さらに衝撃的なものだ。

著者の基本的な見方は、先住民(ここではチャムーラの人々)の歴史や、社会の構造と、その変貌の経緯の全てを、外部からの破壊的な力に対する主体的な対応として捉える、ということのようだ。

 

『具体的なエスニック集団やその共同領域を、われわれは固定的なものとして捉えたり、固定的であることを無意識のうちに願っていることはないであろうか。あるいはまた、彼らの歴史における存在を単なる敗者とみなし、彼らに同情し、「伝説」の破壊を憂い、破壊者に対し怒り、しかも、彼らの世界における主体的ありようを見過ごしていることはないか。(p242)』

 

 

19世紀(ちょうど明治維新と同じ頃)に始まるメキシコの近代化やメキシコ革命にしても、それを契機としたり、刺激を受ける中で、先住民の人たちはさまざまな行動をとったり、選択をしてきた(反革命の立場に立った先住民たちの大反乱があったということを、初めて知った)。それらは全て、先住民たちが、数百年間危機にさらされ続けてきた自分たちの集団的な生を、外側からの暴力に対して守り抜いていこうとする営みであったとかんがえられる。

そうした主体的な選択の一つとして、著者は例えば、コーヒー・プランテーションでの労働をあげている。その栽培上の特性から、コーヒーは、村の行事のサイクルとうまく合致する産物であり、その意味で、コーヒー・プランテーションはいわば先住民たちによって「選ばれ」て存続することになったのだ、というわけだ。

ところで、1929年以来、約70年にわたり事実上の一党独裁体制を敷いた「制度的革命党」は、暴力的・抑圧的な政治を行ったことでも知られているが(その代表的な例は、メキシコ五輪開催の1週間前に起きた、有名な「トラテロルコの虐殺」だろう)、一方で、この体制は、インディオの村の自立的な存続や労働条件の改善ということについては、大きな貢献をしたようである。実際、本書を読んでいて、もしメキシコが、こういう体制ではなく、米国なり資本主義にべったりの体制であったなら、先住民の村の「伝統」ばかりか、その「存在」そのものが失われていたのではないかとも思った。これは、日本の状況を考え合わせればよく分かるだろう。

とはいえ、「制度的革命党」の統治(それは資本主義と無縁のものではないのだが)の下で、村の社会は大きな構造的な歪みを抱えることになる。それは、「カシーケ」と呼ばれる一握りの村人による富と権力の独占、という事態である。著者が前半部を執筆した1980年代には、このカシーケ支配が重大な問題だった。カシーケたちは、国家権力とも共謀して、反対者たちを暴力を使っても排斥し、その地位を守る。追放された村人は膨大な数にのぼり、やがてその人々が、非インディオの町の周辺に集住地区を作り、拡大していく。それが、当時の状況である。

ただ、そうした「カシーケ」への抵抗を村人たちに働きかけた、「赤い司教」と呼ばれるような進歩的なカトリック文化人類学者たちの姿勢(それらが村人に受け入れられることはなかった)に対しても、著者は根本的な疑問を呈している。

 

『しかし、神のまことの代理人は誰か、というチャムーラの問いが、「村」=「われわれ」の存在を認めその価値を理解する意志と感性とを外部世界に求めていることは事実だ。国家によって生み出されたカシキスモという、いわば外部世界の側の非を外部世界の論理にもとづいて打破しようとしても、それは論理を強要されてきた人びとにとっては、新たな論理の押しつけに他ならなかったのである。(p246)』

 

 

『「村」=「われわれ」の存在を認めその価値を理解する意志と感性』、それを私たちの社会は、また自分自身は持ちえているか。それが、著者の根本的な問いであり、それはもちろん、僕たちにも投げかけられているのである。

 

 

 

さて、後半で描かれるチャムーラの人々の「近況」だが、その最大の変化は、多くの村人が米国への「不法入国」を行っていることだ。相変わらずメキシコ社会の「底辺」に置かれている貧困が原因となり、米国で「稼ぐ」ために人々は旅立つが、何割かの人たちは、運よく国境を越えられても、ネバダ砂漠を越えることが出来ず白骨死体と成り果てるという。

それでも、そこで手に出来る金額は、メキシコに居ては考えられないものであり、一度村に帰ってきても、また何度も決死の「不法入国」を行う人が少なくないようだ。

米国側では、入国にはやたら厳格な一方で、一度仕事に就いてしまえば、「不法」であることを特に問題にされることはなく、(最低賃金でだが)働くことには不自由はないという。ここには、日本と同じく、低賃金・使い捨ての外国人労働力によって支えられている、資本主義経済の歪んだ実態が示されているようだ。

そして、「不法入国」するにあたって、「仲介人」に手数料などで莫大な借金を背負わされ、時には帰国する方途さえ失ってしまうというのも、どことも同じ事情といえるだろう(戦前の沖縄からメキシコへ移民した人々を描いた上野英信の『眉屋私記』にも、沖縄での同様の事情が描かれていた)。ここでは、その仲介業者となっているのは、ポジェーロと呼ばれる村人たち自身で、彼らの建てた白亜の豪邸が、今ではチャムーラのあちこちに見られるという。

こうした現状についての分析には、著者の(スペインによる征服以来の)「歴史」に対する見方が、集約的に示されている。

 

『まずは、今僕たちが目にする「伝統的な村」とは、征服によって再編され、近代化という長い歴史のなかで離合・集散を繰り返してきたという歴史を思い起こしたい。あえて極論するなら、今ある村は、時代の変化に応じて柔軟に自己を再編してゆく、仮の姿だといえる。そのような解釈が可能なら、大量の村人の都市への移動も米国への越境も、メキシコ革命によって空洞化された「村」の緊縛からの自己解放、さらに新自由主義という外圧に対する主体的な対応と捉えることができる。そして彼らは、移動する先々で柔軟にアイデンティティを再構成しながら、インディオとしての生活空間を一気に拡大しつつあると見て、まず間違いはなさそうだ。そして、ロレンソやパスクアルが大切に守り抜こうとしている「村」は、これからも恐らく、村を離れた人々の心のよりどころとして、光を灯し続けることとなるだろう。(p393)』

 

 

このように、人々への信頼と希望を記したうえで、著者はまた次のようにも書いている。

 

『そもそも、サン・クリストバル市に限らず、「市民社会」の中核ともいえる近代都市は、つねに都市内部の被差別集団の存在を前提として成立してきた。そして近代国家も、国内外の「後進地域」=(南)の存在があってはじめて発展を維持することができた。そのような理解に立つなら、そう簡単に都市も国家も、「インディオ社会」に対する差別的なフロンティアを放棄するとは思えない。(中略)そして、歴史的差別の構造が存続するかぎり、インディオインディオであることを放棄することもないだろう。(p393~394)』

『飼いならす』

 

飼いならす――世界を変えた10種の動植物

飼いならす――世界を変えた10種の動植物

 

 

 

この本をはじめて知ったのは、たしかジェームズ・C・スコットの『反穀物の人類史』を読んでいてだったと思うが、邦訳されて去年は新聞紙上で多くの人が高い評価を与えていた。特に、福岡伸一氏が誉めた影響が大きいようだ。

それで、近所の図書館にあるのを見つけたので読んでみたのだが、最新の知見を紹介する科学読み物としては大変上出来と思ったものの、違和感の方が多く残った。内容の優れている点については、多くの人が書いてると思うので、その違和感についてだけ書いておきたい。

 

 

本書でもっとも議論を呼ぶところは(僕は勝手にそう思ってるのだが)、遺伝子編集や遺伝子組み換え(GM)について、著者が、その懸念や問題点は詳しく指摘しながらも、概ね肯定的に展望しているという点だろう(しかも、モンサントという企業名まであげながら)。

GM導入の必要性については、地球人口の急激な増大による食糧危機に対処するためということなのだが、僕が違和感をもつのは、そもそも著者にとってGMが、やむをえない必要悪のようなものではなく、進化の観点から見て理にかなった当然のものとされていることである。

確証のない「危惧」や「不安」に基づいてそれに反対を唱えることは、無知・偏見か、何らかの悪しき保守主義に属するものと考えられているようだ(たしかに、反GMが政治的保守主義と相性が良いといえるところはあるであろう)。そうした人々は、飼育栽培における種の交配は問題視せず実行していても、遺伝子の組み換えとなると、急に警戒や反発を示す。その根底には、「種の純粋性」に対する信念(イデオロギー?)のようなものがあるのかもしれない、というわけだ。

 

『(前略)だが時として、種は人間の都合で定義される。とくに、飼育栽培種とその野生の祖先に対して別の種名をつけるときには。

 交雑が起こる可能性は、野生種への飼育栽培種の遺伝子の「混入」に関わる倫理的な問題ももたらす。飼育栽培種を作り出してしまったわれわれは、現在生き残っている近縁の野生種を懸命に守ろうとしている。しかしこれは、現実の世界に本当は存在しない「種の純粋性」という考えを呼び起こすのではないか?(p61~62)』

 

それに対して、著者が強調するのは、多様性の保持や交雑によって展開してきた生物の進化(淘汰)の歴史である。

 

『ヒト―および飼育栽培化された協力者―を含め、非常に多くの種が本質的に雑種であることが最近明らかになったが、これはまさに驚きの新事実だった。遺伝学者さえ、「種の境界」がどれほどあいまいなのかがわかって仰天した。この発見は、遺伝子をほかの種へ移すことを倫理面から考えるための、新しい土台を提供してくれるにちがいない。(p402)』

 

だが、逆に言えば、多様性が守られるべきであるのは、それが進化のレースに勝ち残っていくことにとって有利だからだ、ということになってしまうのではないか?

「多様性」や「交雑」をかたくなに拒む、保守主義というより極右的な思想(両者が全くの別物だとしてだが)をもつ勢力への対抗として読めば、著者の主張はある程度理解できる。

しかし、著者の「多様性」賛美は、結局のところ、人間(例えば科学者や大企業)が作り出しつつある現実の変貌(それは破壊でもあると思う)のあり方を、肯定するためのロジックになっているのではないだろうか。

著者は、進化をめぐる事柄が、道徳や倫理の問題ではないことを強調する。ただ、事実としてこう(今のように)なったというだけだ、というわけである。だが、大事な点は、この著者の「自然史」のなかには、(GMを含む)人間の営みも、すっぽり含まれているということだ。

 

『ひょっとしたら、自然選択と人為選択を分けること自体が人為的なのかもしれない。ほかの種の進化に影響を及ぼす種は、ヒトだけではない。われわれの存在は、相互依存のもとに成り立っているのだ。(中略)われわれが人為選択と呼んできたものは、ヒトを介した自然選択にすぎないのである。(p379)』

 

モンサントのような大企業のやってることも、国家の政策も、すべて「結果としてこうなっただけ」のこととして、道徳や倫理の対象外の事柄として捉えられる。いわば、(汎神論的な)神の目から見れば、遺伝子操作も環境破壊も「自然の営み」の一部にすぎない、ということになるのか。

 

 

著者はもちろん、人間による環境破壊を是認しているわけではない。だが、現実に働いている破壊の力に対して、それをけん制する著者の議論のベクトルは、あやふやに過ぎると思える。これは、進化や文明史についての著者の捉え方や語りの力が、現実の力(資本主義)を正当化するロジックになってしまっているということではないだろうか。

著者の根本にあると思えるのは、人間は自然に対する全能の支配者などではなく、その主体性は、自然との相互的な関係性によって規定されたものだという観点である。

 

『多くの場合、飼育栽培化は意図せぬプロセスとして始まったのではないか。種と種が出会い、ぶつかり合い、近しくなり、ついには進化の歴史が絡まり合ったのだ。われわれは、自分が主人で、ほかの種は自発的な僕(しもべ)か奴隷だと当たり前のように考えている。ところが、われわれが動植物と結んだこうした契約関係は、それぞれに異なる複雑なもので、共生や共進化の状態へと徐々に進展した。最初にこの協力関係が築かれたとき、背後に思慮深い意図はほとんどなかった。(p379)』

 

 

『われわれと相互に関わった種が、かりにそうなっていなかったら―たとえば存在しなかったり、捕獲できなかったり、家畜化できなかったりしたら―ヒトの歴史はまるで違う展開を見せていたはずだ。時にわれわれは、己の運命をすっかり支配し、外部の力はほとんどあるいは何も役割を果たしていないかのように、先史時代も含めた歴史を知ろうとする。だがどんな種の歴史も、単独で語ることはできない。あらゆる種は、ひとつの生態系のなかに存在しているのだから。われわれは皆、相互につながり、依存し合っているのだ。そして、われわれのもつれ合った歴史で働いてきたすべての相互作用には、幸運と偶然が織り込まれている。(p381~382)』

 

 

こうした、脱主体的ともいえる歴史観、文明観は、非常に説得的だ。

だが、われわれが全き主体でありえないということは、われわれの責任を解除するものではない。(共生の)生物史や文明史の脱主体化が、環境を改変・破壊していくことに対する人間の責任を回避するための手段になってはならないだろう。

ホブズボーム『いかに世界を変革するか』

 

 

 

 

 本書に書かれているホブズボームの考え方の大きな特徴は、マルクスの思想の発生とその後(現代まで)の動向を、特に19世紀で(これも特に)西洋で極めて有力になった思想潮流の展開の一部として位置づけていることである。

 その意味で、単純な経済決定論的な考え方ではない。もちろん、マルクスの思想の最重要部分、そしていま現在、私たちにとってのその重要性の本質をなしているものが、主著『資本論』に示された、資本主義経済システムの分析にあることは、言うまでもないだろう。

 だが、マルクスの思想のすごさは、その経済学が、社会学歴史学などの他の人文科学と一体・不可分をなしているという総合的な性格(マルクスエンゲルスの時代には、自然科学との統合も本気で考えられていた)にあるのだということを、ホブズボームは強調する。

 そこで、その「思想潮流」だが、それをかりに、「理性・啓蒙・進歩」という三つの理念で表してみたい。マルクスマルクス主義は、そうした理念を、同時代のさまざまな運動や思想・文化と共有してきた。

 このうち、「進歩」(主義)については、たとえば環境問題(反原発を含む)に関して、それがマルクス主義の弱点ともなりがちであることは、よく指摘されるところだろう(とはいっても、本書のなかで特に読みごたえのある章の一つである第7章では、マルクスの重要テクスト『経済学批判要綱』を論じて、その歴史観が決して単純な進歩史観などではなかったことが強調されている)。

 そして、「理性」や「啓蒙」について言えば、それらを攻撃対象としたファシズムとの対決が、広範な人々にとって最重要の課題となった1930年代に、マルクス主義が空前の(そして絶後といってもよい)共感を広げ、影響力を発揮したことは、いわゆる「人民戦線」路線がスターリンの戦略に他ならなかったという事実にも関わらず、極めて当然かつ正当なことだったとされるのである(この点で、トロツキーオーウェルに対する著者の見解は、やや冷淡にも思える)。

 

 

『いうまでもなくより明白な事実は、共産主義者自由主義者のそれぞれがお互いを必要としているということ、また一九三〇年代の諸条件の下では、どれほどショッキングであろうがスターリンのしたことはロシアの問題であった一方で、ヒトラーのしたことは各国の脅威であったということである。(p350)』

 

 

『こうして、マルクス主義者と非マルクス主義者が協力して得たものは、共通の敵に対して団結する実践的必要性どころではなかった。それは、両者がともにフランス革命の伝統すなわち理性や科学、進歩、ヒューマニズム的価値観の伝統に属するという、大恐慌ヒトラーの勝利によって明示されるとともに活性化された深い感覚であった。(p390)』

 

 

 また20世紀末においては、(たんに社会主義国の消滅や、新自由主義の台頭などの理由にとどまらず)やはり文化や社会における「理性」や「啓蒙」という理念の危機・失墜が、マルクス主義の凋落の大きな背景をなしているという見方も示されている。ここには「ポストモダン」的な傾向を、ファシズムの復活につながりかねないものとして警戒する、歴史家ホブズボームの立場も示されているのだろう。

 

 

『したがって、非共産圏におけるマルクス主義からの撤退は、一九七〇年代の社会科学および人文科学における、より一般的な盛衰の一部であった。(p508)』

 

 

『さらに、より一般的な事象を忘れないようにしよう。すなわち、いわゆる一八世紀啓蒙主義的な社会変革のイデオロギーの一般的な後退と、社会的行動主義を一八世紀啓蒙主義とは別に喚起するもの―とくに、暗黙の内に近代化された型の伝統的諸宗教―の興隆あるいは復活である。これらは、ヨーロッパで大人気とはならなかったが、他方で、一九七九年のイラン革命すなわち二〇世紀の最後の大きな社会革命において最初の大成功を収めた。これがそうではなかったとしても、二〇世紀後半の歴史的および知的発展は、明らかに、伝統的にマルクスから引き出された政治的な分析、綱領、予測を侵食した。(p512)』

 

 

 21世紀に入ってからの展望については、最後の第16章に書かれている。ここは、どう読みとるべきか自信がもてないのだが、どうも社会運動の未来に対してホブズボームは懐疑的、あるいは少なくとも見とおせない思いを抱いていたのでないかと思う。というのも、プロレタリアを変革の主役と捉えたマルクス主義の展望は、そのプロレタリアの解体ないしは保守化・反動化によって、すでに瓦解したと見なすしかない。その一方で、世界では階級矛盾が露わとなり、(サービス業種を中心として)階級闘争も現実に行われている。

 だが、上記の意味でマルクス主義がすでに失効した今日、先住民やマイノリティによるものも含めて、そうした諸々の「闘争」が、結局は国家・民族や宗教といったものの吸引力に敗れ、回収されていくのではないかという危惧は大きい。

 この点で、本書のなかで、マルクス主義のもう一つの特色として何度も言及されているのは、その国際主義的な性格だ。宗教もまた国際的なものだから、それと区別する意味で、マルクス主義のそれを「超境界的」ないしは「境界横断的」とでも名づけるべきかもしれない。

 それが真の意味で実現したことは、歴史のなかでごく稀であったとはいえ、そこにはマルクス主義の重要な遺産の一つがあると言えるのかもしれない。つまりそれは、何らかの同一性に収斂しよう(させよう)とする(おそらく根本的には資本主義の)圧力に対して、マルクス主義はしばしば、牽制する働きをしてきたということである。

 上に、マルクス主義は失効したと書いたが、それは人々を吸引する、分かりやすいストーリー(目的論とか権力獲得とか)としての力を失ったということであって、むしろそれによって、マルクスエンゲルスが本来目指していた、真の共産主義の姿に近づいてきたとも考えられるのである。とりわけ、晩年のマルクスエンゲルスが、ナロードニキや原始共同体への関心を深めていたという指摘(第7章)も、その観点から興味深い。

 そういったことを、色々と考えさせてくれる本だった。

 

 

 最後に、これまで書いてきたことにも関連して、非常にホブズボームらしいと思う文章を一つ引用しておきたい。グラムシについての力強い論考のなかのこの一節の、特に最後のところで批判されているのは、執筆当時(冷戦期)の社会主義国のあり方だが、いまこれを読むと、その批判の射程がずっと広く深いことを思わざるをえない。

 

 

『少なくとも先進諸国におけるブルジョワ社会は、ここでは深入りできない歴史的理由により、つねに自らの政治的枠組みと仕組みに主要な注意を払ってきた。それが政治的調整活動がブルジョワヘゲモニーを強化する強力な手段になった理由なのであり、だからこそ、公共性の擁護とか民主主義の防衛あるいは市民的諸権利と自由の保障のようなスローガンが支配者の側に主要な便益をもたらす形で支配者と被支配者をひとつに結びつけるのである。しかしこのことは、そうしたスローガンが被支配者に対して無関係だということを必ずしも意味しない。したがってそうしたスローガンは、強制力の表面にほどこされたたんなる虚飾あるいは単純なごまかしとは異なる何かそれ以上のものなのである。

 社会主義諸社会もまた、包括的な歴史的理由により、他の諸課題に、とりわけ計画経済の課題に集中してきたのであり、(中略)自らの実際の政治的法的諸制度や諸過程にはそれほどの注意を払ってこなかったのである。(中略)そのような場合、何かが明らかにまちがっている。こうした政治の無視によるその他の不都合は問わないとしても、人民大衆が政治過程から排除され、いつのまにか脱政治化し、公共的な問題について無関心になることが、認められさえしてしまうときに、社会主義的な一社会を(所有され運営される経済とは別に)創出することが、どうやって人間生活を変革することが期待できるというのか。(p429~430)』

『マツタケ  不確定な時代を生きる術』

 

マツタケ――不確定な時代を生きる術

マツタケ――不確定な時代を生きる術

 

 

 

 

『人間が発生を管理することができないキノコの生命は、わたしたちが所与のものと考えていた社会が崩壊したときには、恵みであり、拠りどころともなる。(p5)』

 

 

これは、去年(2019年)翻訳・出版された本。

内容については、訳者によるこちらの対談記事が詳しい。

 

https://hagamag.com/uncategory/7160

 

 

訳題のとおり、たしかに「マツタケ」をめぐる本なのだが、非常に広範囲のことが書かれていて、要約するのが難しい。本書の中で著者は「アッセンブリッジ」という言葉を用いていて、それは「意図をもたない寄せ集め」のような意味らしいのだが、全体がそれこそ深く生い茂った森のようで、その多様で予測できない細部に分け入っていく興奮をたのしむことの出来る本である。

 

 

著者がマツタケに着目するのは、それが現代の社会が生み出した、破壊された「景観」(この言葉は、人間社会を含めた広い意味で使われている)のなかで、私たちが生き延びていくことのヒントを与えてくれるものだと思えるからだという(下の一文には、原発事故後の森のイメージもあるのではないかと思う)。

 

 

『グローバルな景観というものは、今日、この種の瓦解が蔓延している(まき散らされている)。一旦は死の宣告をうけたにもかかわらず、これらの場のなかには生命にあふれている場所もある。見捨てられた富の場から、あらたなマルチピーシーズと多文化的な生命が生みだされることがあるからだ。全球的(グローバル)に不安定に覆われている状況下にあっては、こうした廃墟における生活を模索していく以外に選択肢は残されていない。(p10)』

 

 

たとえば、今日、日本で消費されるマツタケの重要な生産地の一つになっているのは、米国のオレゴン州だが、そこでマツタケ狩りをしているのは、ラオスカンボジアから難民としてやってきた人たちである。

フィールドワークした著者は、まるでインドシナ半島の山地に居るかのように米国社会にまったく同化していない、これらの人々の姿に衝撃を受けることになる。それは、著者自身を含めて、「良き米国市民」となる(見なされる)ために、言語を含めた自分の出自の文化をなるべく表出しないように、同化の努力を重ねて生きてきた旧来のアジア系移民たちとは、まったく隔絶した光景だったからだ。

それをもたらした(可能にした)ものは何かというと、グローバル化による米国の社会保障体制の「瓦解」だったと、著者は言う。つまり、レーガン政権以降、社会保障制度が崩壊した米国では、移民たちは同化の努力を重ねても、何も良いことがないことが明らかになったのだ。

 

 

アメリカの不安定である様―瓦解に生きること―は、こうした構造化されていない複数性の、溶解しえない混乱のなかに存在している。もはや人種のるつぼではなく、わたしたちは誰だかよくわからない他者とともに生活しているのだ。アジア系アメリカ人世界でのことだけではない。この不協和音は、米国の白人にとっても有色人種にとっても、同様に感じられる不安であり、それは世界中に波及している。(p150)』

 

 

 次の引用で言う「あらたな伝統主義者」とは、難民たちよりもむしろ、トランプ支持者たちのような排外主義的な人々のことを想定しているのだろう。

 

 

『あらたな伝統主義者たちは、人種的に交わることを拒絶し、強制的同化をともなって混淆を可能とする社会保障制度なる力強い遺産も拒絶する。伝統主義者が同化を拒絶するにつれ、あらたな構造が創発した。中心となる計画がなくとも、移民と難民は、生計を立てるために、かれらにとって最善の機会にくらいついてくる。(中略)社会保障制度のあとをうけ、このように勝手なフリーダムが乱立する時代がやってきた。(p162)』

 

 

著者は、(経済の)グローバル化によるこのような「瓦解」を、否定しようのない前提としたうえで、その荒廃した「景観」のなかを生き延びていくヒントを、マツタケをめぐる事柄(人間を含めた)のなかに探っていこうとするのだ。

ちなみに、上の引用の最後に出てくる「フリーダム」というのは、著者の独特の用語の一つである。マツタケ狩りと、マツタケを売りさばく、あるいは買い取る、仲介するといった商行為とに熱中する人たちを突き動かしている、訳の分からない熱情、場の磁力のようなものを、著者は「フリーダム」と呼ぶ。この言葉には、インドシナから逃れてきた難民たちの「反共」という政治的含意も一部に含まれてはいるが、それよりもはるかに広大なものを内包している。たとえば、非合法であること、悪を働くことに対する「自由」への希求も、そこには含まれる。そうした人々の、時には暴力的で醜くもある生のあり方を表現するのに、著者は、「汚染された多様性」という、これまた魅力的な言葉を案出する。

 

 

『(前略)そのひとつの理由は、汚染された多様性が複雑であり、しばしば醜く、屈辱的であるからだ。汚染された多様性は、拝金主義、暴力、環境破壊などの歴史を生きぬいてきた人びとを包摂している。(p52)』

 

 

著者の分析から類推するに、「フリーダム」は、資本主義の一般的な原理とされている「交換」(「疎外」)の論理に収まらない、むしろその論理(つまり資本主義の運動そのもの)を可能にさせているような、根源的な生の力のようなものだと思う。たんなる交換(金儲け)のためではなく、フリーダムに憑かれているがゆえに、人びとは採集や商行為に熱中するのである。むしろそれこそが、資本主義という運動の本体でもあるのではないか、というわけだ。

 

『フリーダムと憑かれることは、おなじ経験の両面である。(中略)工業生産にとって重要な「人と物の分離」を免れるのが、マツタケ狩りなのだ。(p121)』

 

 

 このように、著者のいう「フリーダム」は、いわば資本主義の運動を、そのうわべの交換原理(「疎外」の論理)から乗っ取る、あるいは奪い返して、われわれ(人間と非人間)の生に差し戻そうとする狙いをもった概念だといえよう。

 

 

 

 

 ところで、著者が(キノコのなかでも)特にマツタケに注目するのは、「マツ-マツタケ-人間」という三つの種の奇妙な共生(寄生)関係が、まさに上記の「瓦解した景観」を生きるということに深く関わっているためだ。

 マツは、他の樹木や植物が育たないような荒れ果てた土地を好む(他の木々があると成長できないのだ)。とりわけ、人間によって破壊(伐採)された土地に、好んでマツは繁殖するという。たとえば、北米のマツは、火を必要不可欠とするものが多い。その一種であるポンデローザマツという巨大なマツの原生林が維持されてきたのは、先住民が定期的に火を放って、山火事を起こしてきたおかげである。ところが、「防火」を第一とした近代的な森林管理は、森から「火」を排除することで、この原生林を維持できなくし、植生を変えてしまったのだ。

 その他、錯綜したことがあるのだが、いずれにせよ、人間による破壊的な介入、ここでは森林の破壊(瓦解)は、マツにとっては必ずしも悪いことではないのだ。本書で、特に繰りかえし紹介されているのは、(マツタケ消費の本場でもある)日本の「里山」回復の試みである。そこには、他の樹木を伐採・除去することによって、かつてのような松林を復活させようとする試みが含まれている。人間による意図的な「攪乱」(これも重要なキーワード)が、自然に肯定的な影響を与えることがあるという著者の見解の、実証例になっているのだ。

 一方、そのマツが、岩場のような養分のない土地で育つことを可能にしているのが、菌の一種であるマツタケである。マツタケは、マツの根に寄生する菌だが、これは岩のような鉱物を溶解して、マツが摂取可能な栄養分に変えることが出来るのだ。人間が伐採や放火によって作り出した、荒廃地という「望ましい」環境と、マツタケという寄生生物のおかげで、マツはこのうえなく栄えるのである。そしてもちろん、マツの繁栄が、マツタケの増殖を可能にし、人間をも利するというわけだ。

 

 

 このような「マツタケ-マツ-人間」の共生(寄生)関係の記述によって、著者が揺るがそうとしているもののひとつは、自己完結性のイデオロギーである。

現代の社会と科学を支配する、自己完結、あるいは自己複製のイデオロギーを、著者は、「スケーラビリティ(規格不変性)」という批判的な概念によって規定するのだが、それを揺さぶる力を、このような共生(種間)関係に見ようとしているのだ。

 

 

『種間関係は進化を歴史に引きもどす。というのも、それらは偶発的な出会いに依存しているからだ。(中略)種間の出会いは、つねに出来事なのであり、この「おこること」が歴史の単位なのである。出来事は相対的に安定した状態をもたらすことはできるが、自己複製単位のようには予期することができない。出来事を構成するのは、つねに偶発性と時間である。歴史はスケーラビリティを大混乱に陥らせる。スケーラビリティを創造する唯一の手段は、変化と出会いを抑止することである。(p216)』

 

 

マツタケは、決して自己完結的ではありえず、つねに関係性、つまり、場に特定される。(p332)』

 

 

 このあたりを読んでいて思ったのは、こういうことだ。

つまり、性は、たしかに自己完結性を揺るがす(混乱させる)重要な仕掛けであり、それゆえに国家や資本はそれを「性欲」としてコード化しようともするわけだが、それでも、性が自己完結性を揺るがす唯一の可能性というわけではない、ということ。

あるいは逆に、性は必ずしも、(個、あるいは種の)自己複製という隘路に閉じ込められるものとは限らない。

しかし、この二つの事は、実は表裏なのではないか?

 

 

 

 

ところで、先に、著者が日本の「里山」運動を高く評価していることを書いたが、とはいえ、著者はそこで、かつての松林が生い茂った日本の(今は失われた)景観というものは、近代以前からの森林伐採・環境破壊の偶発的な結果だったということを強調する。ここに、「攪乱」(偶発性)を重視する著者の思想の核心がある。

雲南省でも調査を行う著者が、近代(それ以前からだろうが)日本の森林破壊も、中国の大躍進政策も、どちらも一見すると酷い破壊だったが、マツとマツタケの再生には良い効果をもたらしたのではないかと気づくところは、印象的である。

 

 

『この発言に触発され、わたしは、景観が「意図しえぬ設計」の産物となる過程について考えさせられるようになった。それは人間と非人間とを問わず、多くの主体が重なりあう世界制作の活動を指している。生態系の景観において、デザインそのものは明確である。しかし、構成員のだれひとりとして、そうした効果を見据えていたわけではない。人間も、ほかの生物とともに、意図しえぬ設計のもとに景観が作られていく過程にくわわっている。(p228~229)』

 

 

『人びとと樹木は、不可逆的な攪乱の歴史に巻きこまれている。しかし、攪乱のなかには、多くの生命を育む再生をともなうものもある。(p284)』

 

 

近代化やグローバル化、あるいは戦争や原発事故のような人間による破壊(攪乱)は、意図しえぬ結果として、多くの生命を育む場合がある。

そこで示唆されているのは、もちろん、私たちの世界に対する自己完結的な捉え方を転換することである。

 

 

著者は、欧米の森林管理が、あまりにも合理的・計画的であることを批判し、景観の多くが(攪乱を含んだ)偶然の結果としてもたらされたものであることを強調する。

そこには、ヘーゲルやカント(『啓蒙について』)にも通じる、偶然的な歴史の展開が、結果として良いものをもたらすのだという、自然史への信仰に近いものが感じられる。

だが、まさに現在の日本の里山運動がそうであるように、偶然的なものの維持(回復)には、逆に人為が加えられねばならない場合がある。つまり、「(とりわけ人間が引き起こす)攪乱」の抑止も、また自然史的要請なのだ。

著者もその特徴に触れている、広葉樹が生い茂り、放置すればマツやマツタケの(共生的な)成長をいつまでも不可能にしてしまう「日本的風土」(もちろん、社会的・政治的な意味も込めて)のなかで生きていると、そのことをひとしお痛感せずにはいられない。

『宇宙の始まりと終わりはなぜ同じなのか』

 

宇宙の始まりと終わりはなぜ同じなのか

宇宙の始まりと終わりはなぜ同じなのか

 

 

 

この本は、専門的な内容はまったく理解できなかったが、非常に面白く読んだ。

あまりにも面白いので、読み終わるのが惜しく、途中までは読むつもりがなかった巻末の「補遺」、専門的な数式を展開しているところまで、皿に残ったスープを舐めるみたいに(でも、もちろん数式は全部飛ばして)読んでしまったほどだ。

数学や自然科学がまったく分からない僕が読んでもこれだけ面白いのだから、いくらかでも素養のある人が読めば、それ以上に面白いだろうと思う。

これはもちろん、著者だけでなく編集の力が大きいのだろうが、数式などの学問的な内容が分からなくても、丁寧に書かれてあることを追っていけば、かならず何か発見があると実感させる著述の進め方には、じつに感心させられる。

ちょっと、吉川幸次郎漢詩や戯曲の注解を読んでいる時の感じとも似ている。

この本のテーマであるペンローズの学説、「共形サイクリック宇宙論」については、以前、『知の果てへの旅』(マーカス・デュ・ソートイ著)という、これも大変面白い本を読んだときに初めて知ったのだが、その時は、なんという奇想天外な説だろうと思ったものだ。

ところが、本書でペンローズは、自分のこの説は、たいへん保守的なものであるということを言っている。その意味は、熱力学第二法則アインシュタイン一般相対性理論といった、古典的な物理学の法則・考え方と整合するものであるから、ということらしい。

他の説、たとえば、ビッグバンの直後に爆発的な宇宙の膨張が起きたという「インフレーション説」とか、多元宇宙論のようなもの、あるいは、ひも理論といった、広く関心を集めている新しい学説の多くは、こうした古典的な考え方と整合していない、のみならず、そもそも考慮していないように見える、ということらしい。

自分の考え方は、(一見奇矯に見えても)そういうものとは違うのだ、というわけである。

さらに、ペンローズは、量子力学自体についても、将来大きく修正される可能性があると考えているようだ。これも、物理学の古典的な考え方を重視する、「保守的」な態度の一つのあらわれではないかと思う。

あと、印象的だったのは、いわゆる宇宙論という学問は、1960年代になって「宇宙マイクロ波背景放射」というものの観測が契機になって、膨大な量のデータによって推論を検証・修正していく「精密科学」に変貌した、と書かれていること。それ以前の宇宙論は、ほとんど推論によって成り立っていたのだそうだ。

もちろん、ペンローズの説も、こういう精密な検証を経ながら展開されているのだが、ここにも技術の発展が、人間の思想の根本的な部分に劇的な影響を与えるということの、一例が見られるのではないかと思った。

『猿と女とサイボーグ』・その2

 

猿と女とサイボーグ ―自然の再発明―新装版
 

 

 

『猿と女とサイボーグ』について、前回の記事では、所収の文章の中で最も有名な「サイボーグ宣言」について、少しだけ書いたのだが、あらためて全編を簡単に紹介しておこう。

まず、前半の幾つかの章では、ハラウェイの専門的な研究分野の一つである、霊長類学研究(特に米国の)の歴史が概観され、検討されている。

「猿」の研究は、人間の研究にとって不可欠である、みたいなことを言ったのは、エンゲルスだったかカフカだったか。ともかく、ハラウェイは、霊長類の研究が、生物・動物の中でも、人間社会の管理や支配のための材料としての性格を特に強く持つものである点(したがって、動物自身はどこか置き去りにされている)を強調する。たとえば、戦前の霊長類研究の権威とされた学者は、工場のテイラー・システム導入や徴兵の為の知能検査についても指導的な役割を果たしていたらしいのだが、それはある時代に限ったことではなく、ずっと続いているものなのだ、というのが大事なところである(霊長類研究者が組織のボスになった場合は、特に注意した方がいいかも知れないね)。

霊長類研究の歴史に関しては、「男性=狩猟者の娘たち」と題された章が、特に印象深く、ハラウェイのフェミニストとしての視点も、明確に示されているものだと思う。そこでは、第二次大戦後に次第に増えてきた有力な女性研究者たちが、霊長類の観察や、そこから推論される人間への進化の過程の理論に関して、世代を追って徐々に自由で独自な思考と言説を展開するようになった歴史が語られるのだが、ハラウェイは、そうした学問上の変化は、社会全体のフェミニズム運動の展開と不可分であり、また強い相互性を有していることを強調する。

こうした「政治」と「科学」とのせめぎ合い、つながりは、決して欠かすことはできない。なぜなら、科学、なかでもとりわけ生物学は、政治から独立して存在したり発展したことなど、そもそも一度もないものだからである。

 

 

『我々が、以下で概観しておこうとしている、社会生物学の立場にたったフェミニズムの論理は、西欧の政治民主主義という尽きせぬ理論の泉に端を発するものである。(中略)繁殖をめぐる競争という生物学の論理は、我々が継承している資本主義の政治経済や政治理論での、ごくありふれた初期的形態の議論の一つにすぎない。生物学は、本質的に、政治言説の支流でありつづけてきたのであり、客観的真理の概説ではなかった。(p189)』

 

 

科学や科学者に限らず、政治とは無縁に生きている人間など、この世に存在するだろうか?

それはともかく、同時に(逆に)、政治や政治運動には、科学との強い関係性もまた不可欠であると考えるところに、ハラウェイの特異さがあるとも言えよう。

だが、その「科学主義」は、あくまで、科学が常に「政治」(支配の意志)を帯びていることへの批判をはらんだものなのである。

上の引用文中に「社会生物学」(ドーキンスなど)という語が出てくるが、これもまた、科学(生物学)が示す政治への従属の形態の一つと考えることができる。

ハラウェイがこれらの論文で言っていることを概括すると、時代を追って、a「優生学、優位性」、b「人間工学、リベラルイデオロギー」、c「社会生物学、市場の論理」といったセットで生物学の言説が進んできたことが分かるのだが、これらはいずれも資本主義と政治支配のツールであったことが、本書では詳しく述べられているとはいえ、なかでも、これらの文章が書かれた当時の時代状況(もちろん新自由主義の台頭期でもある)を反映して、社会生物学に対するハラウェイの批判は辛辣である。下の文章では、aとの比較を含めて次のように述べられている。

 

 

社会生物学におけるエンジニアリングによる再設計の限界は、価値の私的領有や、それに必然的に付随する、まさに目的論としての支配の必要性といった資本主義の原動力によって設定される。性役割を遺伝的素因によって合理化する方が、「人間」が「自然」を支配するという社会生物学に基本的なエンジニアリングの論理に比べれば、根源的性差別主義の度合いはまだしも低い。(p130)』

 

 

さて、本書の中頃には、フェミニズムの歴史と論争に関する文章が収められているが、そこで目を引くのは、米国の白人中産階級出身、そして高学歴の女性研究者としてのハラウェイの、「他者」である女性たちの眼差しと言葉に対する感受性だ。

 

 

『その一方で、具体的には、黒人女性―そして一般的には、新世界による征服に遭遇した女性たち―は、もっと広い社会領域を構成するような生殖上の自由なき状態(リプロダクティブ・アンフリーダム)と直面してきた。すなわち、有色の女性たちが直面してきたのは、米国社会の基礎をなすような覇権的言説の数々において、彼女たちの子どもたちが、人間という地位を継承することがない、という状態だったのである。(p278)』

 

 

『屹立する矛盾同士の緊張状態を保ったままアカウンタビリティを創出するというのが、帝国主義、人種主義、男性至上主義のホロコーストを横断する女性たちのあるべき団結についての私のイメージである。(p233)』

 

 

フェミニズムの歴史と、当時の論争の状況についての、ハラウェイの詳細で難解な分析と主張を、ここで要約・紹介することはとても出来ない。

ただ、前回の記事でも紹介した「サイボーグ宣言」は、レーガン政権下(80年代中頃)の政治・社会の状況への鋭いカウンターであると共に、こうした「他者」との連帯を模索する、ハラウェイのフェミニストとしての実践の一つの里程として捉えるべきものだと思う。

 

 

『サイボーグは、断固として、部分性、アイロニー、緊密さ、邪悪さに関与する。サイボーグは抵抗的で、ユートピア指向で、無垢さなどまったく持ちあわせていない。(p290)』

 

 

『サイボーグたるフェミニストたちは、「我々」が一体性に関してこれ以上自然な根拠など欲していないし、どの構築物も全体などではない点について論じてゆく必要がある。(p303)』

 

 

「自然」概念に対する批判というのは、本書を通底するハラウェイの重要なテーマであり、「サイボーグ」というイメージ・発想も、当然、その文脈で読まれるべきものではあるだろう。

だが、「サイボーグ宣言」をいま読んで、何より驚かされるのは、経済のグローバル化新自由主義の拡大、そしてIT技術の急速な発展とその軍事との結びつき(また、やがては生命科学との合流)という、当時の社会の状況に対する分析が、現在にもほぼ当てはまっているようにも思えることだ。

ここでは、レーガン政権下で急速に発展しつつあった政治(統治)の手法について、ハラウェイは、「支配の情報工学」という言葉を使っている。

 

 

『女性たちが直面している状況とは、私が支配の情報工学と称する生産/再生産とコミュニケーションの世界システムへの女性の統合/搾取である。家庭、仕事場、市場、公的舞台、身体自体といったものは、いずれも、ほぼ無限かつポリモルフなやり方で、分散させ、連動させることが可能であり、その結果、女性をはじめとするさまざまな人々に重大な帰結がもたらされる。しかし、もたらされた帰結の内容自体が、その結果の及ぶ人々によって甚だしく異なるため、国境を越えた強力な抵抗運動が不可欠であるのに、そうした運動を想像することさえ困難となってしまう。(p314)』

 

 

具体的な状況の分析を、引用が多くなるが、さらに引いておこう。

 

 

『労働は、それを行うのが男性であると女性であるとにかかわらず、文字どおり、女性的、あるいは女性化されたものとして再定義されつつある。女性化されることが意味するのは、極端に弱い立場に追いこまれ、予備労働力として分解・再組み立てされたり搾取されたりする対象となり、労働者としてよりは奉仕者であるとみなされるようになり、賃労働に時間契約で就いた結果、就労時間制限すら用をなさなくなり、猥褻かつ場違いで、セックスに還元可能な状態と常にスレスレの存在となることである。(p319)』

 

 

『こうした経済、技術の新たな編成は、福祉国家が崩壊し、その結果、女性に対して、自らのみならず、男性、子ども、老人の日常生活をも維持せよとの要求の強まったこととも関連している。貧困の女性化―福祉国家の解体によって、そして安定した職業そのものが例外と化したようなホームワーク経済によって生起し、子どもを養っていくという意味で、女性の賃金が男性の収入に匹敵するレベルに達することはないだろうという予測のもとに維持されているような動向―が、焦眉の課題となっている。(p320)』

 

 

『新技術から派生した世界規模の構造的失業状態についての見通しが、ホームワーク経済という情勢の一部をなしているのは、こうした文脈においてである。(p321)』

 

 

『新技術の社会関係に必然的に伴う今一つの側面は、労働力として科学やテクノロジーに携わる多くの人々にとって、期待、文化、労働、生殖/再生産が再編されることである。社会的、政治的に見た危険としては、極めて二重性の強い社会構造が形成されることが重要だろうし、その過程では、ホームワーク経済の恒常的な人員余剰状態から抜け出せず、いろいろな意味で無能力、無気力状態に追いこまれ、エンタテインメントから監視、痕跡抹消にいたるハイテク抑圧装置によって管理された女性や男性の大衆が生み出される。こうした大衆にはすべての民族(エスニック)グループが含まれるものの、中心をなすのは有色の人々である。(p324)』

 

 

『支配の情報工学は、不安がいちじるしく増幅され、文化が疲弊し、最も傷つきやすい者が生存するためのネットワークが常に欠落しているような状態としてしか描写のしようもない。(p329)』

 

 

「サイボーグ宣言」とは、こうした情勢認識をもとに、それを乗り越えるために提起された、連帯とサバイバルの処方なのだということは、何度でも強調されるべきだろう(その一端については、前回の記事を参照されたい。)。

 

 

『サイボーグのジェンダーは、グローバルに復讐するローカルな可能性である。人種、ジェンダー、資本は、さまざまな全体やさまざまな部分についてのサイボーグ理論を必要としている。サイボーグには、全体に関わる理論を作ろうという衝動はないものの、境界に関わる―境界を構築し、脱構築してきた―親密な経験がある。サイボーグには、いずれは政治の言葉となって、科学やテクノロジーを考え、支配の情報工学に挑戦して、強力な活動を行ううえでの一つの方策を基礎づけることになるであろう神話の体系が存在する。(p346)』

 

 

さて、本書の最後から二番目に収録された「状況に置かれた知」という文章は、かなり理論色の強いものだが、フェミニズムの立場から、科学的認識、のみならず「客観性」という言葉のあり方を定義し直そうという、非常にラディカルな内容のものだ。

フェミニズムの立場からというのは、つまり、超越的な視点や位置に立たず、自己にとって「対象」とされるような相手との相互性、いわば対等性を受け入れる、という意味だ。

ここも引用が続いてしまうのだが、ハラウェイの言葉を読んでいただこう。

 

 

フェミニズムの立場にたつ者は、超越性―誰かが何かについて責任を有さざるをえなくなったまさにその地点で、自らの媒介行為の轍を消してしまうような物語り―や、無限の機器的権力を約束するような客観性という教義を必要としてはいない。我々は、ことばと身体の双方が有機的共生の至福へと転落していくような世界を表象するための無垢なる力をめぐっての理論を欲しているわけでもない。我々は、大文字のグローバルシステムとしての世界を理論化したいわけではないし、ましてや、そうした世界で行動したいわけでもないものの、地球規模の連携のネットワーク(中略)は必要としている。(p358~359)』

 

 

『というわけで、さほど予想外というわけではないけれども、客観性とは、特定の具体的な具現化の過程に関わるものであって、決して、あらゆる限界や責任を超越することを約束するような偽りの視覚(ヴィジョン)に関わるものではないということになる。教訓は、単純であるが、以下の通りである―部分的な視角(パースペクティブ)のみが、客観的な見方(ヴィジョン)を保証する。客観的な見方とは、視覚(ヴィジョン)にかかわるあらゆる実践の生成能力に関わる責任という問題を隠蔽するのではなく、創出していくような見方である。(p363~364)』

 

 

アイデンティティにしても、自己アイデンティティにしても、科学を生成することはない―科学を生成するのは、ぎりぎりのところで位置を選びとる過程、すなわち客観性である。支配者としての各種の位置を占めている者たちのみが、自己同一的で刻印されておらず、具現化されておらず、媒介されておらず、超越的で、生まれかわる。残念ながら、被隷属の位置にある者が、そうした主体の位置を熱望したり、場合によってはそうした主体の位置にスクランブルをかけたりする―そして、その後、視界から消えてしまう―ことも可能である。

刻印されざる者の目の位置からみた知は、心底、幻想的で、歪んでいて、そしてなんとも不合理である。客観性を到底実践できず、客観性に栄誉を与えることもできない唯一の位置が、マスター、大文字の男性/人間、唯一無二の神という位置であり、彼らの「目」があらゆる差異を生成し、領有し、指令する。(p370~371)』

 

 

ここで、「刻印されざる者」という語に、代表例として、政権の指導者(辞めかけだが)のイメージを当てることは、あまりにも容易(超越的?)であるものの、そう間違ってもいまい。要は、男性主義的な世界観(像)ということである。

それに抗して、ハラウェイが主張するのは次のようなことである。

 

 

『状況に置かれた知においては、知の対象が、行為主体であり、なおかつ媒介行為主体として図像化されることが必要である。(中略)かくして、「リアルな」世界をめぐっての記述内容は、「発見」の持つ論理にではなく、「対話」の持つ、充電され、権力を帯びた社会関係に依拠していることとなる。(p381)』

 

 

『客観性とは、非-相互関与状態に関わるものではなく、世界という場―すなわち、「我々」が、恒久的に、死にゆくような存在でありつづけ、すなわち、「最終的」管理のもとに置かれた存在などではないような場―において、「我々」が、相互に、そして大抵は、相等しからざるかたちで、何を形づくっていくのか、そして、その過程でいかにリスクを負ってゆくのか、といったことがらに関わるものである。(p386)』

 

 

ところで、「訳者あとがき」によると、ハラウェイは、80年代後半からのエイズの流行のなかで、元夫であった人の同性愛のパートナーの男性と、元夫とを相次いで失っている(この二人は、ハラウェイとそのパートナーと共に、四人で共同生活をしていたとのこと)。

その深い喪失の痛みのさなかで書かれたのが、最後に収められた免疫学の言説の社会における役割についての分析、「ポスト近代の身体/生体のバイオポリティクス」である。

そのなかでハラウェイは言う。

 

 

『いったいいつになったら、自己が自己に飽きて、医学や戦争やビジネスにおける制度化された言説の全体にとって、自己の有する境界が最重要事項となるような状況をもてあますようになるのだろう。免疫と傷つきにくさというのは、互いに交錯する概念であり、こうしたことは、集団としての個や個人としての個についての手近なリベラルな言説が、死や有限性をめぐる体験を収容しえない核文化では、当然の帰結である。生き物は、傷つきやすさの窓のような存在である。その窓を閉ざしてしまうのは誤りではなかろうか。(p438)』

 

 

ハラウェイが批判しているのは、死や有限性という外部を認めない、不死(超越)のイデオロギーのようなものだろう。

だがそれは、資本主義の想念であると同時に、彼女が言うように「核文化」の本質でもある(これは、80年代の運動が切り拓いた重要な観点だと思う)。つまりそれは、実際には、生を否認する、死のイデオロギーなのだ。

この資本主義に覆われた社会においては、(自他の)死への希求は、われわれみんなの内部に深く埋め込まれていることを自覚するべきだろう。とりわけ、「心底、幻想的で、歪んでいて、そしてなんとも不合理」な内面に閉ざされた、われわれ男性の内部には。

『猿と女とサイボーグ』

 

 

猿と女とサイボーグ ―自然の再発明―新装版
 

 

この本は滅茶苦茶難しいんだけど、とても繊細で力強い。

とくに、レーガン政権下の1985年に書かれた「サイボーグ宣言」。

そのなかでハラウェイは、オードリー・ロードの提出した「シスター・アウトサイダー」という概念を自分なりに解釈して、次のように述べる。

 

『私の政治神話では、シスター・アウトサイダーとは、米国の女性労働者や女性化された労働者(注 ここでハラウェイが「女性化」というのは、情報産業化によって男性労働者の状況も不安定化したことを指している)から、彼らの連帯をはばみ、安全を脅かす敵としてみなされることになっているような米国国外の女性である。(p334)』

 

『性産業や電子部品の組み立てに雇用される若い韓国女性は、高校から採用され、その段階で、すでに集積回路向きの教育を受けている。(同上)』

 

共同体内的な「連帯」の可能性をはばむ「敵」としてみなされるような、サイボーグ(境界横断・侵犯)的な他者の存在のありよう(現実)にこそ、レーガン政権時代に顕在化した高度情報化社会(シリコンバレー)とグローバル支配体制に抵抗していく方途を見出すべきだということを、すでにハラウェイは見切っていたのだ。

当時、その「現実」は、米国や日本のグローバルハイテク企業によって搾取される、東南アジアや韓国の女性労働者に、もっともよく示されていた。

この「シスター・アウトサイダー」が体現する「サイボーグ」的な生存と闘争に関して、ハラウェイは、さらに次のようにも書く。

 

 

『一例を挙げるなら、新世界のメスティーソという「非嫡出」人種の母であり、ことばの達人であり、コルテスの情婦でもあった土着の女性マリンチェの物語りを語り直すことは、メキシコ系の女性たちがアイデンティティを構成していくうえで格別の意味を持つ。チェリー・モラガが『戦いの時代における愛すること』で探るのは、アイデンティティというテーマ―すなわち、起源の言語を有したことも、起源の物語りを語ったことも、文化の園の正統的へテロセクシュアリティという調和に身を置いたこともなく、したがって、アイデンティティの基礎を、神話や無垢からの堕落、そして母のものであれ父のものであれ自然な名前を有する権利に置くことができないような場合に、いったいいかなるアイデンティティを想定しうるのかというテーマ―である。(中略)モラガのことばは、「全体」ではなく、意識的に接合された、英語とスペイン語という征服者の言語のキメラである。しかし、有色の女性にとってエロティックで使い手のある有力なアイデンティティを紡ぎだすのは、違反以前の起源言語を主張することのない、こうしたキメラとしてたち現われる怪物(モンスター)である。シスター・アウトサイダーが喚起するのは、世界が生き延びてゆく可能性であり、こうした可能性があるのは、彼女が無垢だからではなく、彼女が境界上を生き抜く能力を持ち、起源の一体性という基底神話―無垢かつあまりに偉大な母、すなわち息子による今一つの搾取の螺旋から最後の最後になってようやく解放される母になるという、男性/人類が想像してきた死に至る一物性への最終回帰という黙示録がいやがうえにもつきまとうような神話―に依拠することなく書く能力を身につけているからである。(p336)』

 

 

ずいぶん色々なことが包含されている文章だと思うが、何らかの「起源」や「自然」という一体的なものに回収されることなく、あくまで「生き延びてゆく」ことというメッセージを、サイボーグという異種接合の生のイメージによって伝えようとしていることに、とくに心を打たれる。

また、僕は、このくだりを読んで、同時代に書かれたジャン・ジュネの『恋する虜』(86年)を思い出した。新自由主義レーガン政権の「スターウォーズ」構想とが世界を覆いつつあったこの時代に、母と息子の物語の呪縛からの、つまり、ハラウェイの言う「死に至る一物性への最終回帰」という仕組みからの離脱が、複数のテクストの上で試みられたことは偶然だろうか。

そういえば、ジュネとハラウェイは、どちらもアンジェラ・デイビスと強いつながりがある。