『抵抗への参加』

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この本は、すごく大事なことが書いてあると思った。

僕から見て、ポイントになるのは「解離」という言葉だ。著者は、家父長制の構造をとっているわれわれの社会では、人間は成長の早い段階でそのシステムへの参入を強制されることになり、そこから苦悩と抵抗、そしてシステムに参入しつつも自分として生きていく為の手段を身に付ける、ということが生じる。この手段というのが、自分の意識や思考を、自分の身体と経験から切り離すということ、つまり「解離」である。

著者が「解離」の分かりやすい例としてあげているのは、テネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』の中で或る登場人物が口にする「あなたの言っていることを信じたら、私は夫と暮らしていけなくなるわ」という言葉である。この人物は、夫が妹に性暴力を振るっていることを妹に打ち明けられるのだが、夫婦生活(それに安住したい自分の心理)を守るために、その事実を「信じないふり」を自分自身に対しても装うことを選ぶのである。これが「解離」であり、家父長制社会を、そして(著者の言う)民主主義を否定する社会構造を支えている核心的なメカニズムだということになる。

 

 

『(前略)起こったことを信じないこと、知らないことが、抑圧を要求する文化に参加するためには必要なのだ。(p130)』

 

 

「解離」がもたらすのは、人間が本来持っている関係性を希求し不可欠とするような生き方から、われわれの生存が遮断されてしまうという事態である。この遮断によって、階層構造にもとづく非民主主義的な社会の構築が可能になる。

 

 

『階層構造を確立するためには、その妨げとなるつながりを解離によって断ち切らなければならない。相互理解は構造的には水平であり、本来的には民主主義的だ。この水平構造から、上位と下位、善と悪といったさまざまな分断をともなう垂直構造へ転換することが不可欠なのである。もし相互理解の能力、すなわち共感し、相手のこころを察し、協働する能力が生得的なものであるならば、それは破壊するか、少なくとも周縁に追いやる必要があるということだ。これが家父長制による通過儀礼の仕事であり、これが効果的に行われることで、人間本性とは異なる要素を精神に植えつけることができる。(p82~83)』

 

 

重要なのは、こうした家父長制への「通過儀礼」が強要され、「解離」が余儀なくされる時点には、男女で大きな違いがあるということだ。男の子の場合、それは幼児期に到来するが、女の子にそれがやってくるのは思春期になってからだ(この違いは、社会システムに由来するものなのであろう)。それゆえに、(一般的には)家父長制への強制に対する葛藤と抵抗は女性の心の歴史の方に、より大きな痕跡を残すことになる。男の子は、まだ自己が形成されていない段階で家父長制の仕組みに飲みこまれてしまう(「ヒーロー=男らしさ」への同化など)が、女性は自己がある程度形成された段階で、この強制の圧力に直面することになるからである。そこには、男性に比べてより強烈な抵抗と、深い苦悩や屈折が生じてくる。

この、家父長制システムへの参入を強いられる時期の男女間における違いが、関係性を重視する人間本来の(非解離的な)あり方への志向(「ケアの倫理」)が、フェミニズムと特に関連づけられる理由なのだ。

 

 

フェミニストのケアの倫理は、わたしたちの人間性をかたちづくる能力を育み、その能力をおびやかす慣習に対して警鐘をならしてくれる。わたしは「家父長制」という言葉を、男を女からだけでなく男からも引き離し、女を善と悪とに分けるような態度や価値観、道徳規範や制度を表すのに用いてきた。心理学者としての経験から、わたしは家父長制を心の断片化、すなわちトラウマと結びつけてきた。人間の特性が男らしさと女らしさに分断されているかぎり、わたしたちはお互いに疎外しあうだけでなく、自分自身からも疎外されてしまう。わたしたちの共通の願望である愛と自由は、これからもわたしたちから逃れ続けるだろう。(p217~218)』

 

 

つまり、著者の思想は、男性と女性との間に本質主義的な違いがあることを前提にするものではない。そうした違いをもたらすのは、ひとり家父長制システムのみであって、それを解体し、「男らしさ」「女らしさ」へと分断されない人間本来のあり方(関係性、ケア重視の生存)を回復するための絶対条件だということになる。

 

 

『家父長制的な枠組みのなかでは、ケアは女らしさの倫理である。民主主義的な枠組みのなかでは、ケアは人間の倫理である。(p27)』

 

 

以上のような著者の思想は、現実の社会を支える核心的なメカニズムとして「解離」の仕組みを提示している点で、僕には特に重要なものだと思える。

著者は、家父長制システムの強制に直面した思春期の少女たちの様子や言動を観察しながら、「解離」がどのように生じてくるのかを見極め、詳述している。その記述が、本書の最大の魅力だともいえるだろう(解離からの回復の様子の、ドラマティックな記述と共に)。

本当は「知っていること」「経験していること」を、「知らないこと」であると、最終的には自分自身に対しても装うことで、人はこの社会に参入し適合していく。思春期の少女たちは、その過酷な現場を生きているが、それは実は、私たちすべての内面で常に生じている葛藤でもある。

 

 

スウェーデンのジャーナリスト、〔スヴェン・〕リンドクヴィストが言うように、「わたしたちに欠けているのは、知っていることを理解し、結論を導き出す勇気だ」。抵抗のための土台は、わたしたちのなかにある。(p219)』

 

 

ただ、本書を読んでいて気になったのは、関係性への希求を人間本来の(非解離的な)傾向として重視する著者の思想には、それが生物学的な知見と結びつくと、別種の本質主義、関係性を絶対視するような排他的な考え方に陥る危険もあるのではないか、ということだった。例えば、次のような箇所がある。

 

 

『進化は、共感、相手の心を察する力、協働という、相互理性をうながす特性を選択したのだ。人間にとって核心的でほとんど人間を定義するようなこれらの主要な特性を欠いたこどもたちは、自閉症と呼ばれる壊滅的な発達障害のなかに見ることができる。(中略)わたしたちの遺伝子に組み込まれているのは、核家族や母親による排他的なケアではなく、相互理解や拡大家族に向かう能力なのだ。(p64)』

 

 

相互依存の重視や、「家族」の拡大(非血縁的なものを含むのであろう)という志向は良い。言い換えれば、普遍的なものとしてケアの倫理を強調する著者の議論には同意する。だが、「関係性」は、それほど生存にとって絶対の前提だろうか?

非常に分かりやすく書かれていて感心させられるフロイト精神分析の歴史に関する章のなかでは、女性たちのヒステリー症状に着目することで「トラウマ」の真実、つまりは解離に抵抗する生存のあり様の真実に肉薄していた初期のフロイトが、やがてエディプス・コンプレックスの理論を構築することで自らこの発見を抑圧し、家父長制的な知と社会の体系の執行者へと変質していったことが批判されるのだが、こうした「初期フロイト」の称揚は、「初期マルクス」への称揚に似ているのではないかと思った。どちらも、疎外論(失われた本質の回復)に陥るおそれがあると思うのだ。

どちらにおいても、「関係性」に重きが置かれている(広松哲学を想起されたい)。今日の社会において、そのことの意義はどれほど強調しても足りないだろうが、しかしそれは、生存よりも常に重いだろうか、あるいは生存や自由を賭けた「抵抗」よりも?