愛国心と罪責感

毎年北海道の朱鞠内という場所でおこなわれている「東アジア共同ワークショップ」という催しに参加するため、数日間ブログを休んでいた。この催しには、民族、国籍などさまざまな立場の東アジアの若者や年配の方たちが参加していて、今年も強制労働・「タコ部屋」労働の犠牲となった朝鮮や日本の人たちの、発掘された遺骨が安置されているお寺の雪降ろしを行った後、ゲストの方の講義を聞いての感想や質疑応答という形で活発な議論がおこなわれた。
そのなかで、このブログでも最近何度か書いた「愛国心」の是非に関しても、かなり率直な議論がなされた。ぼくはそれを専ら聞いていただけなのだが、いまそれを思い返して整理しながら、この事柄についての考えをもう一度書いてみたい。

まず、この討議の場でも出され、他のところでもよく聞く「愛国心」肯定の論理として、「倫理的な社会を再建するためには愛国心も必要ではないか」というような言い方がある。ぼくは、これにはついていけない。社会倫理や社会(または国家)そのものを再建するためのツールとして「愛国心」を機能的にとらえ、容認しようというかんがえかたには、「ツールなら他にいくらでもあるだろう」とでも答えておくしかない。そういう一般的なものとしての「愛国心」は、たんに胡散臭く、押し付けがましいだけのものだ。
愛国心」を一概に否定してしまうことに対するぼくの躊躇の理由は、そういうことではない。


ある年配の参加者の方が述べられていたことだが、「愛国心が一概にわるいとは言わないが、利用されやすい感情であることはたしかだ」といった意味の発言があった。
ぼくには、この言葉が一番真実に近いものだとおもえた。
これまでこのブログで書いてきたことを振り返ると、この「利用される」危険についての認識が、たしかにぼくには薄かった。「愛国心」を、個人の趣味としてのほかの感情や思想、価値観の偏りと同列に並べて、単純に「多様性を認める」立場から肯定しようというのは、ナイーブすぎたとおもう。


またそれとは別に、この発言の前段の「一概に悪いとは言わない」という言葉は、如上の社会的機能論の意味ではないだろう。むしろ「他人」のこころの問題として、「愛国心」が、個人を生かす力となる可能性を、完全には否定できないという意味ではないだろうか。
ぼくは、人間の感情や思想はかならずどこか不自然であり偏っているものだとおもう。だから、「愛国心は不自然な感情であり、偏ったものだ」という理由だけで、「愛国心を持つと自認する個人」を批判する位置には、ぼくは立てない。


そのことをもう少しかんがえてみるために、ここで愛国心と同じく、ぼくが自分には希薄だと感じているある感情のあり方を例に出してみる。それは、「罪責感」である。具体的にいうと、植民地支配や戦争責任に対しての、「日本人として」あるいは「マジョリティーとして」の罪責感情というもの。自分がある支配的な集団に属することを理由とした、罪の感情だ。
これは、「感情」としては、ぼくにはほとんどない。あったとしても、ぼくのなかの「愛国心」ぐらい薄っぺらなものだ。
いや、そう断言するのも気がひけるが、本当にそういうものを強くかんじているらしい人たちを前にすると、自分にそれがあるなどと、とても言えない。それがいいことか悪いことかは別にして、ともかくそういうことで悩んだりすることは、ぼくにはないのだ。
だから(歴史や社会の現状に関しての)「罪責感」も「愛国心」と同様、ぼくにとっては「他人の感情」以外ではない、というのが実感だ。


たしかに、自分が「日本国民」であったり、マジョリティであることは事実だから、そういう立場にある人間として、「するべきことをしていない」あるいは「するべきだ」という倫理的な意識はぼくにもある。
だがそのことと、「罪の意識(感情)」をどのぐらい持つかということとは別だろう。重要なのは、「なにをするか」であって、「どう感じているか」ではない。
「罪」という言葉は、「愛」という言葉と同じぐらいアブナイ。過剰な感情は、時として逆に人間の行動を抑圧し、制度にとって都合のよい型に嵌めたり、窒息させたりするための装置として働くからだ。いわゆる「権力の内面化」の問題である。
ぼく自身に関することをいうと、このブログの初めのところで、ぼくは自分の生き方について、親に対して「加害意識を持っている」という意味のことを書いたが、いまそれを恥ずかしくおもうのは、結局そうした罪責感というものが、ぼくの場合には具体的な改善の行動をしないですませるための「代償」的な感情でしかないということに気がついたからだ。
そういう感情なら、持たないほうが倫理的だろう。


一般的にいって、愛国心と同様に罪責感もまた、制度や自己の特権性と安定を保持し、マジョリティー集団の同一性を強化するための装置として働きうる。ドイツの哲学者ヤスパースが、第二次大戦直後に表明した「罪責」の論理が、フィヒテ以来のドイツの精神的ナショナリズム(ドイツ国民の精神的・倫理的優位性の主張と確認)の枠内にあるものだという批判は、特に左翼のなかでずっとされてきた。
よく「ドイツの戦後責任の思想にも問題はあるが、日本ではそれさえもないのだから」というふうに言われる。それはその通りとおもうが、だからといって罪責感の必要性が増すとは、ぼくはおもわない。


だが、そうしたことは全て一般的な話なのだ。
罪責感が個人の生の体験と深く結びついた場合、それは制度的な枠組みを越え出て、具体的な行動や優れた表現を生み出し、深く個人的な、また横断的な連帯の感情の発露として働く場合がある。
そういうレベルの「罪責感」に対しては、ぼくには、それを有している「他人」を認め、尊敬することしかできない。言い換えれば、「罪責感」の一般的な是非(「利用される危険もある」といったこと)をそこで論じても戯言でしかなく、ただ「自分には、それはない」ということしかいえない。
それは、ここでは「罪責感」と呼ばれる一つの感情が、一般的で制度的なものであることをやめ、その他人が生きることと一体化しているからだ。


ところで愛国心についても、このような深い個人的な感情である可能性、また集団を横断する連帯の感情や行動の端緒となる可能性も、完全には否定しきれない。
ナショナリズムの強い感情が、抑圧された他の集団や個人に対する連帯の意識や行動につながった例は、日本に限らずいくらでもあろう(もちろん、それらを「限界があった」という一言で片付けることはたやすい。そう断じる人間自身の思想や感情の「限界」を棚に上げるのなら。)。
だから、「一般的に危険が高いから」というだけの理由で、他人の「愛国心」を原理的・先験的に否定するわけにはいかない。ぼくには、他人の心を、そこまでは見通せない。
ただいえることは、それが利用される危険性が高いことを、「愛国心」を持つと自負する人もそうでない人も、つねに自覚しているべきであるということだけだろう。


実践的に重要なのは、「愛国心」の是非を論じるよりも、現状の日本での「愛国心教育」や「愛国心の強制」について具体的に議論し、批判することだろう。
感情や思想に関して「べきだ」という公的・集団的な強制は、あってはならないと、ぼくはおもう。それは、個人の「趣味」とは異なる次元の問題であり、逆に趣味の多様性を殺してしまうものだからだ。


また、今回話をしたある若者は、「愛国心」に限らず、「愛校心」という言葉も、胡散臭く認めがたいものだと言っていた。このような、現行の制度との心理的な同一化を正当化するような言葉は、「強制」の意味合いを他の概念以上に強くもつことも事実だろう。
もっと簡単に言って、「愛」と「心」という同義的な二つの語で「国家」とか「学校」とかをはさんでいるところが、ぼくにもなんとも胡散臭く、押し付けがましくかんじられる。
「罪責感」と同様、「愛国心」も、完全に近代主義的な概念だとおもうが、啓蒙的な西洋的価値観の押し付けを嫌う日本の右派的な人たちが、こちらのほうは胡散臭くかんじないらしいことが、ぼくには不思議だ。