『近代朝鮮文学と民衆』

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珍しく、出版されたばかりの本についての記事です。

書名の「近代朝鮮文学」とあるが、1919年の三・一運動から1945の日本の植民地支配からの解放に至るまでの時期に、朝鮮人によって書かれた(主に朝鮮語の)文学作品が論じられている。

「日本近代文学」という言い方をよくするが、「近代朝鮮文学」と「日本近代文学」とは、ずいぶんかけ離れた言葉だと思う。前者が近代というグローバルな枠組みのなかに置かれた朝鮮文学を考えようとしているのに対して、「日本」が語頭に来る後者の印象は、帝国主義国家のどこか偉ぶった感じがあるという、語順から来る印象の差異もあるが、その根底にあるのは、他ならぬ朝鮮を植民地支配することで成し遂げられた日本の「近代」と、その日本の支配に苦しみ抗いながら希求され、もしくは希求された朝鮮の「近代」との、同じ概念でありながら気の遠くなるような内実の隔たりだといえよう。その距離の大きさを思うと、茫然となる。

では、その近代朝鮮文学に描かれた、あるいは描かれようとした植民地時代期の民衆の姿は、どのようなものだったか。民衆を理解し、表象し、あるいは働きかけようとした朝鮮の文学者(知識人、表現者、運動家でもあった)と、対象とされた現実の民衆との関係性はいかなるものでありえたか。本書の著者の大きな関心は、そこにあるといえる。

 

 

本書は著者の博士論文をもとに、それを日本語に訳し、また大幅に修正を加えたものであるという。文学テキストそのものや、資料情報についての、きわめて綿密な読みこみが全体の眼目であることは確かだ。とはいえ、僕が興味深く思うのは、植民地時代の作品について論じられたこれらの(所収の)文章のなかに、現在のこの社会に対する著者の視線が感じられるところだ。

たとえば、「感覚」を重視することで、正統的な「プロ文学」(プロレタリア文学)が取り逃した現実の「民衆」に接近し、あるいはそこに介入することで展望を切り拓こうとした朝鮮人文学者たちについての、以下のような文章。

 

 

『既存の関係の延長でも、党に指導されるのでもない、別の形式で民衆と出会う為の模索としてプロ文学批評を読むことが求められるのだ。このような読みのためには、プロ文学が既存の「思想」では見えない、つまり感覚が変化することをもってようやく見えるようになる民衆を提示しようと模索したということを確認しなければならない。(p78)』

 

 

『林和にとって芸術の歴史的成就と大衆化は、最後までともにあるべきものだった。(中略)大衆化とは、民衆がもつ既存の感情の延長線上にあるものではなく、民衆の感覚的土台自体が変化することで可能になるものだからだ。林和は芸術を通して民衆の感情自体に介入し、芸術の歴史的成就を得ようとするのだ。(中略)大衆化とは李光洙歴史小説を読む大衆と出会うことに留まるのではなく、いまだ見えてはいないが確実に存在する民衆と新しい関係をもつことなのだ。(p116~117)』

 

 

啓蒙的な態度によっては出会うことのできない「民衆」に関わっていく為に、作家(知識人)自身の感覚の改変が要請される。また、そうしてこそ、「民衆の感覚的土台自体」の変化という、芸術の目指すべき目標も成就されるという議論がなされていたのだ。これらの思想は、現在に通じるものだと思う。

さらに、作家蔡萬植の作品について、こう書かれる。

 

 

日中戦争以前、蔡萬植の描きだした民衆は政治的目標や当為をもたず、ただ負債返済に追われている。蔡萬植小説の登場人物たちは負債返済を通してのみ、つまりそれを達成することの先にのみ、未来の想像が可能になる。主体的な生き方はこの経路しかないのだ。プロ文学は到来する肯定的な未来を想像しようとしたが、蔡萬植の登場人物たちは負債ゆえにそのような未来を見ることができない。負債は債務者たちの未来に対する想像力を統制する。換言すると蔡萬植はプロ文学が展望した革命という明るい未来とは全く異なる、負債返済を経由するしかない未来を想像したのだ。それはプロ文学が見ることのできなかった民衆の心性を描きだすことである。(p88)』

 

 

『蔡萬植はプロ文学のように前衛の目をもって小説を構成したわけではない。また労働者そのものを描いたわけでもない。むしろかれは植民地朝鮮で労働者が存立しえない条件を生きる民衆を、単に受動的存在ではない形で、その意識と存在の様式を描いたのだ。しかしそれは、負債によって現在とは異なる生を想像することを徹底的に禁じる、つまり自らの力すら卑下する民衆である。(p101~102)』

 

 

こうした、芸術的・運動的な(相互)関与の対象としての「民衆」を捉える為の苦闘というテーマも、間違いなく現在の社会とも重ねて考えられていると思うのだが、関東大震災による瓦解と虐殺、そして「復興」(再秩序化)の暴力について書かれた以下の文章では、その重なりがさらに鮮明になっていると言えるだろう。

 

 

『日本人の不安は朝鮮人を殺すことを正当化するほど高まった。「復興」はこのような秩序崩壊の不安を「克服」し、それを「過去」にすることでようやく可能になる。(p153)』

 

 

『ここまで論じてきたように、東京を舞台とした朝鮮文学が描きだした民衆にとっての新しい課題は、レイシズムを内面化した日本民衆のなかで生きていくことであると確認できる。これは序章で論じたようにレイシズムを含みつつ移民を産出する資本主義・帝国主義の下における民衆の姿だ。(中略)日本人にとってヒエラルキーが再び打ちたてられた不安から解放されるということは、他方で朝鮮人にとって再び虐殺されうるという意味の不安を呼びおこすのだ。換言すると日本人にとって不安を解消してくれる「復興」が、朝鮮人にとっては不安の源泉なのだ。(p156~157)』

 

 

『民衆の力を抑える秩序と「復興」には、民衆に対する不信と蔑視が根底にある。廉想渉が民衆によって秩序が途切れる情景を描きつづけたのは、ともすれば現在とは異なる民衆像を探しだそうとしたからであろう。それゆえ日本民衆についても、朝鮮人虐殺を通して秩序を回復させるのとは異なる現れ方を求めたのだ。

 日本における朝鮮民衆の生活を考えるさいに、日本民衆という要素を除外することはできない。きわめて否定的な形である虐殺の遂行者という形態をとったり、それを「過ぎ去ったこと」として蓋をしたりする日本民衆とは異なり、そのようなヒエラルキーに合流しない日本民衆を描くことは、朝鮮民衆の暮らしを肯定するために必要なことであった。卞チャンギルは「復興」の上で条件闘争をするのではなく、絶対的平等性への関係形成を試みているのだ。(p170~171)』

 

 

「絶対的平等性への関係形成」は本書の重要テーマである。日本人と朝鮮人のみならず、それは知識人と民衆、運動家と大衆の間でも、永続的に試みられなければならない課題だろう。そのために必要不可欠なのは、国家や制度に基づく強固な鎧から自分を解き放って他人の前に立とうする態度だろうが、「日本民衆」は概ねそれを忌避し続けてきた。

 

 

第四章の「動員される民衆」では、「転向」して日本帝国の動員政策に合致する作品を書くようになった李箕永という作家の、その時期の作品について考究されている。

まず著者は、この作家の「転向」(日本の国策・戦争への協力)という行為を、いったん政治的な善し悪しの問題としては括弧に入れた上で、そこに次のような意味を見いだす。

 

 

『李箕永の転向は、かれがプロ文学において示したプロレタリアートブルジョワジーという敵対性から、さらに多くの民衆の力を生かすことができる別の敵対性へと移行することとして読み解くことができる。それはプロレタリアートブルジョワジーの敵対性よりも現実に立脚すると判断される新しい敵対性を構築することによって、民衆との関係を再編成することなのだ。李箕永の転向は図式的に言えば、敵対の構図を、階級の敵対性から日本が遂行する戦争の敵対性へと移動させることだった。(p209)』

 

 

『動員は、積極的に参与する市民たちの民主主義では絶対に表象されえないような民衆を表象の舞台に引きあげることを可能にする。動員を通して見えるのは、参与しようとする市民たちの民主主義よりも数的にはるかに多い人口を対象にして民衆を描きだすことなのだ。(p210)』

 

 

『一九四〇年代初の文学を推動した力は、まさしく多数の民衆を言説的に形成しようとした試みであったと言える。動員はこれまで論じてきたどの試みにおいても対象になりえなかった民衆と出会おうとする文学的な民衆に対する呼びかけだ。(p212)』

 

 

 

李箕永のこうした態度は、転向以前の社会主義的な傾向(プロ文学)とつながるものとしても論じられているが、僕はむしろ、ここでいう「動員」される民衆は、「扇動される」民衆と重なるものでもあるのでは、と思った。それは、圧倒的多数を占めながら、民主主義によっても、運動によっても、プロ文学(及びその他の文学)によってもアプローチしえないような存在としてある。

そうした、いわば接近不可能な「民衆」への接近の試みとして、著者は、この時期の李箕永の作品のなかに元来は積極的な意図が含まれていたことを掬いだそうとする。

だが実際には、その作品に描かれた民衆の姿は、現実の朝鮮の民衆のあり方とは無縁な、理想化された虚像でしかなかった。そのことを著者は、外村大『朝鮮人強制連行』の記述なども参照しながら、克明に暴き出し批判していく。

 

 

『むしろこのような言説的な平等性と同質性の強調は、実際の状況を見えなくさせる。民衆なき民衆の形成はこのように登場する。このように現れる民衆なきままに描かれる民衆は、理想的な民衆像を提示すると同時に、理想的ではない実際の民衆はイデオロギー下にあるものとして扱う。理想的民衆像を提示することは「あるべき姿」を頂点にヒエラルキーを作りだすものなのだ。理想的民衆の姿のみを描くことは、認識主体と認識対象が相互的に影響を与える平等な関係を成立させるという方向性が存在しないことを意味する。(p240)』

 

 

したがって、次のように結論される。

 

 

『その安定的構図の反復を通して、李箕永は植民地朝鮮における朝鮮文学の諸表現において「人口数」的に最も多くの民衆を表象することに成功したと言えるが、その方法は認識主体と認識対象の相互的な出会いとして民衆を描く場から遠ざかるやり方を通してであった。敵対性を絶えず変化させることができるならば、認識主体である作家もまた民衆の力によって変化することのできる可能性をもつ。しかし植民地期の李箕永が到達した場所は互いの関係を固定化することをもって変化の可能性を塞ぐ地点であった。(p248)』

 

 

認識主体(作家)が自ら変容することを放棄した、啓蒙的・操作的(マーケティング的と言ってもいいか?)な姿勢の産物であることが、李箕永の動員文学の実態だった。つまり、まさしく日本帝国の政策を文学の形で遂行することになってしまったのである。

これはしかし、現在の私たちも、常に起こしうる過ちではないだろうか。平等的な関係性を投げ捨てた他者との関わりにおいて、私たちは日々、悪しき「国策」に加担していないか?

本書の問いの射程は、そういうところにも届くものだと思う。