『東日本大震災 東北朝鮮学校の記録』

28日の日曜日、リバティ大阪でコマプレス製作の記録映画、『東日本大震災 東北朝鮮学校の記録2011.3.15〜3.20』の上映とトークの催しがあり、参加してきた。


この映画は、去年3月11日の震災の直後、発生から三日目に東北に入り、建物や設備に大きな被害を受けた東北朝鮮学校の人たちの苦難の姿を、韓国出身の朴思柔(パクサユ)さんと在日コリアンの朴敦史(パクトンサ)さんのお二人が記録したもの。
非常に貴重な記録だと思うのだが、僕は少し遅れて行ったので、映画のはじめの部分が見られなかったのは残念だった。
内容に関しては、こちらのサイトに、短いが的確な評が載っている。
http://10plus1.jp/monthly/2012/03/post-38.php


僕がこの映画を見ながら感じたのは、被災地の様子を撮った他の映像に比べて、アングル(視線)が低いように感じられる、ということだった。
それは、全体を通して言えることだが、特に女川町など沿岸部の津波の被害の惨状(震災直後の様子である)を車中から移動撮影したものを見ていても、明らかに「視線が低い」という印象があった。
また、朝鮮学校の校長先生などが行政の担当者に会って、最低限の救援(給水車を派遣してもらうことなど)や支援を要請する場面でも、人物を下から撮っている様な印象を受けた。
これは、実際にカメラがそういうアングルなのかどうかは分からないが、行政による救援・支援や、国民・市民社会のまなざしからはこぼれ落ちてしまう、あるいは暴力的に排除されてしまう、「弱者」の視線で被災地の状況を捉えている、ということだろうと思う。
地面すれすれの場所から見つめられる、被災地の人々の極限的な生のありさま。
映画の最後に、「コマプレス 小さな声 低い視線」というクレジットが出るのだが、まさしくそういう視線で撮られた映像だと思った。


上映の後に、映画を撮ったお二人によるトークがあり、そのなかで東北朝鮮学校が被災当時置かれた恐ろしいほどの状況と、現在も変わっていない苦境が語られた。
それによると、郊外の山の中腹のような場所にあるこの学校は、建物や設備が甚大な被害を受けたにも関わらず、学校関係者や同胞達の避難場所になったのだが、行政には救援の対象としてまったく認識されず、クルーが現場を離れた被災後二週間以上経った時点でも、給水車が来ることも、公的な救援物資が届けられることも、一度もなかったそうである。
行政の見方は、「勝手に集まっている」といったものであったらしく、実際給水車の派遣などに加えて、使用不可能になった校舎の代わりにプレハブ校舎の建設などの最低限の要請をしても、実際上は援助を断られてしまう。
そうしたなか、人々は、朝鮮総連の人たちや全国の同胞からボランティアで送られてきた物資でどうにかしのいだのだが、話を聞いていて、そうした動きがなければ、この人たちの何人かは今の日本社会のなかでは震災を生き延びられなかったに違いないと思った。
その送られてきた食料を、この人たちは、やはり救援物資の乏しい周囲の日本人の避難所に分けて配り、その分、自分たちは一日二食で我慢した。
普段から、国家や国民社会から排除される立場にある生を送ってきた人たちだからこそ、社会全体から忘れられがちになる被災者の人々の窮状に、深い思いを寄せたことの現われであろう。


校舎は大きな被害を受けたので使えず、小さな寄宿舎を教室代わりにして授業を行っている現状だが、阪神大震災以後に改正された法律に基づいて、校舎を改修する費用の補助を申請しても、震災から一年半経った現在でも、「審査中」などの理由をつけて、給付は先延ばしされているという。
また知られているように、宮城県の村井知事は、震災後まもなく、「県民感情に配慮して」などの理由で、朝鮮学校への補助金を打ち切った。


映画を撮った一人の、朴敦史さんは、日本社会の朝鮮学校に対する差別的な振る舞いは病理的なものであると指摘すると共に、行政にとってのみならず、多くの住民にとっても朝鮮学校が「不可視」の存在になっているのだろうと述べていた。
僕が子どもの頃から二十年以上を過ごした四国の都市にも朝鮮学校があったのだが、この東北朝鮮学校と同じように、郊外の山の中腹のような場所にあるその学校の存在を、僕は一度も知ることがなかった。だから、この「不可視」ということは実感できる。
しかし、僕らがよく考えるべきだと思うのは、この「不可視」であることの理由である。


震災が起きると、国家や行政やマジョリティのまなざしからこぼれ落ち、排除される「弱者」、マイノリティは、ただちに生死の淵に立たされるのだが、そのことは震災発生以前の「日常」を支配している排除の暴力が、露呈したものでもある。
国家や国民による排除の論理が、あからさまに立ち現われるのが、大きな災害というものなのだろう。
そして、震災の体験の全体を、国家や社会による人為的なものを含めた巨大な暴力の経験であると考えるなら、朝鮮学校関係者や在日朝鮮人の場合、このあからさまな暴力の被害経験は、「3・11」以前からまったく日常的なものである。
つまり、この人たちは、すでに地震津波が襲う前から、巨大な人的災害のさなかに置かれてきたのだ。もちろんそのことは、今もまったく変わらないどころか、その「揺れ」は激しさ、凶暴さを増している。
朝鮮人の数が多くない地方都市で、朝鮮学校がしばしば人目につきにくい場所にあり、その意味で「不可視」となっている理由の一つは、無意識にもせよ、日本社会に恒常的な、朝鮮人をはじめ少数者・弱者に対する攻撃の激しさの標的になることを、この人々が恐れたからではないだろうか。
それが杞憂ではないことを、関東大震災時の出来事を参照するまでもなく、「弱者」バッシングに狂喜し、軍事化への道に決定的に踏み入ろうとする今の日本社会の現状を眼前にしている僕等は、よく知っている筈である。


この人たちが経験しているものは(そしてそれは突き詰めて言えば、全ての「弱者」・被排除者に関して言えることでもあるのだが)、決して単なる「排除」ではなく、「攻撃」なのだ。
無関心や黙認によってこの「攻撃」に手を貸すのか、それとも不当な攻撃に抗して立ち上がることで巨大で卑劣な暴力との一体化を拒むのか、それがいま僕たちに問われていることだといえる。
自然の災害は防ぎがたいが、人間による災害は人間が防ぐことが可能なはずだし、可能でなかったとしても、それに取り組む義務が僕らにはある。この視点が欠落するなら、どんな社会変革の思想や運動も、国家による暴力の加担者になってしまうだろう。