竪川・野宿者の住まいのことと、その人たちへの「不安」について

何度か情報を紹介してきた、東京竪川の強制排除の問題だが、解決の糸口が見えず、排除強行がいつ行われるかという不安と緊張の毎日が続いているようだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/tatearakansai2012/3091621.html
(是非、上の記事を読んでください。)


ところで、こうした問題が起きると、「出て行って別のところに住めばいいではないか」と、考える人も多いだろう。
しかし他に住む場所が無いから、そこに小屋を作ったりテントを張ったりして住むわけで、そこさえも追い出されるということは、路上にでも寝泊りしろいうことであり、事実上、死ねと言ってるのと同じである。
町を歩いていても、この人は路上で毎日寝泊りしてるのではないか、という人を時々見かけるが、考えたくないが、ぼくたちはその人を毎日見殺しにしながら生きている。
今回の強制排除のようなケースでは、なんとか夜露をしのぐ最低限度の住まいだけは保持している人たちから、それを奪って死の淵に追いやってしまうこととなり、そういう行政なり何なりの行為を、ぼくらは容認するかどうか、ということが問われてるわけである。


それでも、行政がこういうことをする場合、代替の施設や入居先を用意するものだから、そこに行って住むのがなぜ嫌なのかと、また言う人もあろう。
はじめにリンクさせた記事を読んでも、ブルーシートの小屋では夜露をしのげると言っても、この寒空に、外との温度差は5度ぐらいしかないらしい。路上よりははるかにましとはいえ、ぎりぎりの住環境のところなどに住むより、
だが、それがどういうところか。


『山谷ブログ』の「竪川」というところを開くと、
http://san-ya.at.webry.info/theme/2f5e6ca9a9.html


「竪川河川敷公園:これまでの経緯」という項目が出てくる。
その最後のところに、区が示した入居支援の案について書かれている。

【区が準備したアパートの実態】
工事に際し、水辺と緑の課の予算により、一年間のみ家賃無料のアパートを提供する事業が行われてきた。「竪川河川敷公園路上生活者自立支援事業」である。しかし、このアパートの契約はサブリース契約であり、入居者の居住権は著しく制限されている。また、留守中に江東区職員や委託民間団体(新栄会)が入居者の許可無く立ち入ることを認める同意書や、屈辱的な内容の誓約書(別紙2参照)への署名を強要される等、深刻な問題をかかえている。住宅への入居の支援と呼ぶには、到底値しない内容のものである。


つまりはプライバシーも何もない暮らしである。
しかも、屈辱的で不安に満ちたその生活を受け入れ、我慢したところで、一年後にはどうなるか分らない。
こういうところに住むことよりも、強制排除されれば路上の生活を選ぶという人は、きっと居るだろう。それは無理からぬことと思う。そういう選択をする人を、自己責任のように言うことは欺瞞であり、その人の生死は、追い出した人間、またそれを容認した人間の責任なのだ。
そう思えないという人は、次の記事を読んで考えて欲しい。
http://0000000000.net/p-navi/info/column/200601311924.htm


これは6年前にあった、大阪のうつぼ公園大阪城公園の行政代執行の時に書かれたもので、今回のケースとは違ってこの時は大阪市側は「自立支援センター」というところへの入居を提案していたのだが、そこもまったくプライバシーのない施設だった。
そういう場所で生きていくことを他人に求めるということ、そこでなら生きていてもいいだとか、そこに住むことも出来るのだから行政による排除(追い出し)に応じろなどという主張が、いかに人間というものを侮蔑した発想であり物言いであるかということを、よく自覚して欲しいと思う。
しかもこのケースでも、そこに居られる期間は短く限定されていたのである。これが事実上、「路上への放逐」に他ならなかったことも明らかだろう。


今回の竪川の場合も同じ事で、(繰り返しになるが)このアパートでの生活を受け入れた人も、こんな名ばかりの「支援」では、やがてまた住居のない暮らしに戻ってしまう可能性は高い。
いずれにしても、強制排除は、社会全体に支持された行政の殺人的行為だと言うしかない。



もうひとつ、書いておきたいことがある。
上の『山谷ブログ』の記事の中にも、行政側が、『「区民から不安の声が上がっている。区民の安全の確保だ」』ということを、排除の理由にしてることが書いてある。
おそらくこんなことは、口実にすぎないであろう。
だが、野宿者の存在や、そのテントや小屋を「不安」に感じる一般市民の意識が、行政の後押しをしたり、その暴力を黙認する原因になっていることも否定できない気がする。
この「不安」は何だろうか?


もし、「野宿者が不安だ」という声が本当に寄せられてるのだとすれば、その漠然とした中味は、子どもや女性など弱者がなんらかの暴力を受けたりする、ということではないかと思う。
だが実際には、「一般市民」より「野宿者」の方が、そうした暴力を振るう確率が高いと言えるかどうか、どう考えても疑問である。
もしも統計的にそういうことが言えるのなら、(その種の暴力は、一般社会においても日常的に不安が感じられたり、行われたりしているものだから)そのような偏差が生じる理由を明らかにすることが、一般社会におけるそうした暴力の減少にもきっとつながるはずだと思うのだが、その実態や原因が直視されることはなく、ただ「野宿者=危険」というイメージだけが流布される。
きっと人々は、社会のなかの矛盾や暴力という不安な要素を、野宿者たちに押し付けることで、不安から解放されたいのであろう。


また何より、むしろ野宿者の方が、「一般社会」(便宜的にこう書く)の側から、さまざまな暴力を日々受け続けているという現実を直視するべきだ。
今回の一連の事態のような行政による暴力もそうだが、「野宿者」襲撃は、各地で日常的に起きている。
http://san-ya.at.webry.info/201201/article_15.html

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120202-OYT1T00597.htm?from=tw


また、ある意味ではそれ以上に、今回のような行政の暴挙を黙認したり、日々の生活のなかで野宿してる人たちの存在を見て見ないふりをしている、ぼくたち自身の態度の暴力性について、よく考え、自覚する必要がある。


「野宿者」に押し付けられた過剰な「不安」や「不気味さ」、「暴力」のイメージは、ぼくたちの社会が彼ら、彼女らに振るっている暴力の投影であり、またさらに、ぼくらの社会がはらんでいて、ぼくらが日々被ったり行使したりしている暴力の投影でもあるのではないかと思う。
ぼくらは、自分の身にまといついた暴力性を、「野宿者」という見知らぬ(実際には隣人なのだが)存在に押し付けることで、自分たちの不安や、生活の本当の姿を、見ないで済ませようとしている。
野宿している人たちは、少なくとも、ぼくら「一般社会」(本当はこの言葉を、「野宿者」と対置させる形で使うべきではないのだが)の住人と同じ意味合いと程度においてしか、暴力的ではないだろう。なおかつ、彼ら、彼女らは、日常的に、この社会全体からの、圧倒的な暴力にさらされながら生き延びようとしているのである。