正しい「反日」

神奈川・松沢知事、朝鮮学校視察へ…補助金支出で
反日教育していたら出せぬ」

http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20101110-OYT8T00544.htm


東京、大阪だけじゃなくて、神奈川でもこんなひどい人が知事をやってるんですね。


文科省でさえ審査基準に教育内容を含んでないのに、「反日教育」なんていう曖昧かつ恣意的な概念を持ち出して補助金を打ち切り、子どもたちが受ける教育を選択する自由を侵害しようとは、恐れ入った態度だ。
これで民主主義だの自由だのを標榜してるんだから。
朝鮮学校は、戦後の法制度のなかで日本の学校のような保障を得られてこなかったから、日本が朝鮮を支配して今日の状況の元を作ったという経緯も考慮して、各自治体が補助金を出してきたのだろう。本来なら、補助金のような制度を用いないでも、はじめからきちんと制度の中で立場が認められて、保障が得られているのが当たり前なのだ。
日本全体の行政が、民族的マイノリティー(しかも旧植民地出身の)の教育の権利の保障という事をあえてやってこなかったから、それを補うものとして補助金という制度があった。
その補助金さえ、「反日教育」というようなことを口実にして打ち切られようとしている。


今はどこの自治体でも財政が苦しいから、あらゆるところで経費を削減しようとしてるけど、マイノリティの教育の権利(選択の自由)の保障ということを考えたら、この分野の経費というのは、絶対削られてはいけないもののひとつだと思う。
まして、在日朝鮮人朝鮮学校が、過去も現在もこの日本で置かれてきた(いる)人権状況を考えるなら、補助金打ち切りの暴力性は、どれほど強調しても足りないものだ。
だって、「朝鮮学校に子どもを送るな」と言ってるのと同じだもの、これは。


以上のようなことは、私がわざわざ書くまでもないだろう。
これが「ひどい」のは分かりきっている。
そしてこのひどさは、日本がずっとやってきたことのひどさの、最悪の帰結でもあるだろう。
ここで強調しておきたいのは、ここに見られるように「反日」という言葉が、このところ政治家や右派・保守派によって使用され、この人々による「敵視」のレッテルとして、世の中を闊歩し始めているということだ。
いったい、この「反日」という語の内実とは、どんなものだろう?
今回の知事の発言では、朝鮮学校が「反日教育」をしているのではないかということが問題になっている。もちろん、多くの政治家やマスコミも、そんなことを言っている。
もし「反日教育」という言葉が、闇雲に日本を憎めというような教育を指すのであれば、たしかにそれは問題だろう。だが、そんなことは偏見でしかありえまい。
私は朝鮮学校の教育にそれほど詳しいわけではないが、そのような意味の「反日教育」が今の朝鮮学校で行われている可能性はないと確信する。


しかし、この「反日教育」という言葉が指しているものが、日本が朝鮮半島の人々を支配した歴史を教え、その支配と闘った朝鮮の歴史をも教え、そのことによって、差別の蔓延する社会であっても自分自身を肯定して生きていくことを可能にするような教育なのであれば、右派や短絡的な保守派が「反日教育」と罵倒するその教育は、人権の見地からも正しいものである。
他の国の人たちやマイノリティを暴力的に支配した国家(ここでは日本)の歴史を、批判的に語るような教育は、とりわけその暴力を過去も現在も被り続けている人たちにとっては、「正しい教育」に決まっている*1
なぜなら、それがなければ自分を肯定して生きていけない人が少なからず居るであろうほどに、この国のこの社会はひどいからであり、いわば日本という国の暴力性が、この「正しさ」をマイノリティの人たちに強いるのだ。


また、この意味での「反日」は、朝鮮人や外国人に限らず、誰にとっても、とりわけわれわれ日本人にとってこそ正しい。
反日」という言葉を日本の政治家やマスコミが使うとき、そこに込められているのは、自分たちが見たいと思う自己イメージにそぐわないような「日本」の姿を提示してくる者たちを排除したいという気持ちであり、それは多くの人々の心理を代弁しているものでもあると思う。
生活の苦しさや不安感や絶望に追い詰められ、最後にすがる対象として「日本」という自分の国を見出そうとする。その、自分たちが抱き続けたい「日本」のイメージに、異を唱えてくる者たちは、「反日」であり、敵だということである。
だが本当は、これら多くの人々を追い詰めているのは、その自分の国そのものなのだ。
そういう、微力な人々を追い詰め、奪いつくすような力を非難し、それに抵抗して生きる力を与えようとするのが、「反日教育」と揶揄されるものの本当の意図であり、だからその意味の(正しい、肯定的な意味の)「反日」は、これら日本の追い詰められた多くの人たちこそが、自ら手にするべきものである。
権力者たちが、「反日」的なものを罵倒し排除しようとするのは、その力と正しさを、言いかえれば真の敵への抵抗の意志というものを、大衆が手にすることを、無意識に恐れているからだろう。


このことは、「反」の対象となる「日本」というものが、権力者たちによって、私たちの手から奪い取られ、やせ細った貧しいものに擦りかえられてしまっているという事実を意味するだろう。
元来の日本は、「朝鮮」や「中国」や、その他どこでも、いや別に国名でなくてもよいが、それらの地域名と同じく、さまざまな人たち、マイノリティとマジョリティが、それぞれに個人としての自己を肯定しながら共に生きていけるような(いわば)任意の土地、地理上の空間を指す言葉(固有名)だったはずである。
その豊かさを奪い取った者たちが、支配のために大衆に投げ渡した、貧弱な国家の自己イメージ、それが「反日」という語を揶揄的に用いる者たちが抱く「日本」なのだ。
私たちは、このからくりを打ち破って、豊かな、全ての人々に共有される場所のイメージを、奪還していくべきだと思う。
とりあえず、そこから始めるしかない。
そのために、「反日」という言葉が、攻撃と排除のためのレッテルとして流通するような薄ら寒い現実を、どこまでも拒んでいかなければならないのだ。

*1:もちろんこの「正しさ」とは、それが受けるべき(選ぶべき)唯一の教育だということではない。それを選択する無条件の自由が、当の人たちに保障されていなければならない、ということである。