東京新聞の腹立たしい社説

朝鮮学校無償化 対話と理解の契機に
http://www.tokyonp.co.jp/article/column/editorial/CK2010102202000044.html

 無償化の狙いは子どもの支援だ。しかも、その子どもたちは日本で生きていく。在日朝鮮人の子どもも自ら選んだ高校で学ぶ権利が守られるべきだ。朝鮮学校には学校運営と教育内容の踏み込んだ情報公開を望みたい。日本社会の誤解や不信を拭(ぬぐ)う努力が大切だ。


言うに事欠いて、偏見で見られて差別的な扱いを受けた側に『誤解や不信を拭う努力』を求めるのか。
いわれのない暴力を被って傷ついてる人に、「あんたの方にこそ責任がある」と言ってるようなもんだよ。
こういうのを「セカンドレイプ」的言動と言うんじゃないのか?


こういうひどい言葉を投げかけて、被害者の心の傷を決定的なもの、社会から完全に疎外されたようなものにしてしまうのは(事実、そういうメッセージなのだが)、多くは警察関係者の言葉らしいけど、実際、この社説の観点は、警察や国家の観点、つまり監視・管理し、また誰を排除するのかを決定する側の観点を内在化させたものになっている。
リベラル的な言説、つまり「われわれの社会には多様な言説が許容され、存在している」ということを強調する言説には、往々にして、「われわれの社会」に属さないと(恣意的に)認定した対象を、その「普遍的な」公共の場から排除することを合理化する機能が含まれてる気がするけど、この社説の文章には、そのことがあまりにも露骨に表れていて、吐き気がするほどだ。


『踏み込んだ情報公開』というのは、東京新聞は警察みたいに、全ての学校や家庭にそういうものを求めるのか?
まあ、実はそれが本音かも知れんけど、建前上は違うだろう。
朝鮮学校が、「われわれの社会」にとって不気味な存在だという考えがあるから、もしくはそのように人々に思い込ませたい意図があるから、特に朝鮮学校だけに情報公開を求めてるのだろう。
社説の中では、「子どものことが心配だから」みたいに書いてるけど、子どもが心配なら、情報は親や家族などに知らせればいいだけであって、それを国や日本社会全体に広く知らせろと要求するのは、「子ども」は関係なくて、自分たち自身が国や社会の安定を脅かされるのが心配なのに違いない。
要するに、たんに自分たちの不安の投影としての偏見が、あるいは監視の眼差しがあるだけであり、それをどうにかして正当化しようとしてるのだ。


朝鮮学校に通う子どもたちや、その親たちを脅かし、傷つけてるのは、硬軟とりまぜた恫喝的な態度でどこまでも「踏み込んだ情報公開」を迫ってくる、このような国や日本社会の眼差しであり、態度なのだ。
その暴力と圧迫を強めながら、学校のあり方を開かれたものにしろだの、(暴力的な)周囲の社会に合うように「変えろ」だの、よく言えたものだ。
朝鮮学校の教育内容に、かりに改善していくべき点があるにしても、それが「自由」に行われるための大前提は、朝鮮学校が現実に存在している日本社会や国の方が、差別をやめて「自由」な教育が可能な環境を提供すること以外にないじゃないか。
その大前提とはまったく逆の、迫害や差別を差し向けるような現状を変えずに置いて(それどころか、あえて固定化して)、要は「われわれの社会」に適合するような教育に変えていけというのは、たんに同化を強制してる以外の何だというのだ。


それに、『在日朝鮮人の子どもも自ら選んだ高校で学ぶ権利が守られるべきだ』と書いてるけど、その「自ら選んだ高校」のあり方が、マジョリティーの色眼鏡や思惑に沿うように強制されるのなら、それは「選ぶ権利」が守られてると言えるか?
自分たちが現に加えてる暴力にはまったく無自覚なままで、その暴力を日々受けてる人たちに向かって、「この社会で生きていきたいなら、われわれのルールに合わせろ」と際限なく迫ることの、どこが民主的な態度なのだ。





大体、この社説のタイトルは『対話と理解の契機に』となっていて、冒頭部には

無償化実現を契機に在日朝鮮人との対話と理解を深めたい。


などと書いてあるけど、無償化実現は当たり前のことであって、今回のすったもんだで、元々あったであろう信頼までぶち壊し、関係を滅茶苦茶にしたのは、日本の国と社会の方なのだ。
さんざん殴って除け者にしておいて、「これをいい機会に、今後はよく知り合いましょう」なんて、悪い冗談でなければ恫喝にしか聞こえないだろう。


あらためて言うけど、この記事で言われてる「対話と理解」というのは、完全に国家の観点というか、自分たちの側のメンバー、自分たちにとって見えやすい(監視しやすい)存在になれ、ということだ。
そうではない教育機関、自分たち権力の側、マジョリティーの側が、ちょっとでも不信な感じを持つような学校は、恣意的に権利を剥奪できるという考えが、はっきりうかがえる。
その恣意的な暴力の行使こそ、排除と差別の危機にさらされている人たちを、日常的に脅かしているものなのだ。
そう考えれば、この社説が、まったくそういう国家的な形態の暴力として働いていることが分かる。


元々「無償化」のような政策には、そういう国家管理上の狙いも含まれてるのだろうとはいえ、日本のマスコミにはそういう権力の意志を批判的にチェックする力もつもりも全くないのだと、あらためて実感させられる。


他にも批判したい箇所は一杯あるが、きりがなくなる。
この問題をめぐって、大マスコミの「リベラル」的な言論の、国家との共犯性、もしくは無防備さがあからさまになっている感のあることが、ぼくには腹立たしい。