警官の孤独

以前にも書いたことがあると思うが、テレビ時代劇の『鬼平犯科帳』シリーズが好きである。


今でも時々新作が放映されたり映画になったりするし、毎週、20年ほど前に放映されたものを再放送してるのを、よく見ている。
このシリーズの特徴のひとつは、蟹江敬三梶芽衣子、それに先代の江戸家猫八などが演じる「密偵」たちの存在感だ。
彼らは、元盗賊だったが、「鬼平」(中村吉右衛門)に捕まったり関わりを持ち、その人柄に感化されて、今ではその手下となって働いているのである。
いわゆる「お上の犬」と呼ばれる立場になり、かつての仲間たちを裏切るようなことをする仕事である。
無論最終的には、元の仲間たちを裏切って「お役目」を果たすのだが、そこに至るまでに毎回いくらかの逡巡や苦悶が描かれる。ここにこのシリーズの、魅力のひとつがある。


それに関して特に興味深いのは、その際に、結局彼らがそうした最後の決断をする決め手になるのは、「法」や「正義」という以上に、「鬼平」との個人的な信義であるかのように描かれる、ということである。
一度、最近作られた特別版では、この「密偵」たちの内面が、鬼平にも見通すことの出来ない、元盗賊たちに特有の深い闇(謎)のようなものとして描かれていて、大変感心したのだが、さすがにそこまでの描き方がされることは滅多になく、たいていは「鬼平」は彼らにとっては絶対的な威光と人望を持った「全知」の存在のように描かれている。
しかしそれでも、「鬼平」と密偵たちの間には、「鬼平」と部下たちや家族との関係とは異なる、特別な心の結びつきがあるかのようなのである。
密偵たちは、最終的にはその信義のゆえに、かつての仲間たちを裏切り、「権力の犬」の役割を、自ら選ぶことになる。
そのとき、「鬼平」は、たんに強権的な役職にある者というより、若い頃にアウトロー的な生活をしたことがあるという履歴が強調され、いわば仲間たちを裏切る「犬」の境遇に生きる密偵たちの孤独と、武家社会のスタンダードに同一化できず(疎外感を持ち)、また今や世間からは「鬼」と呼ばれて蛇蝎のごとくに恐れられる存在である「鬼平」の隠された孤独とが、響きあうかのような印象を、見る者は受けるのだ。
ドラマを見る者は、その印象(二つの孤独の響きあい、重なりあい)を通して、仲間を裏切りつつ権力に身を寄せる密偵たちの孤独な屈折した心情と、「鬼平」が体現する法権力(そして暴力)の行使の爽快感に、同時に同一化していく。
ここでは、屈折した孤独な心情(情念)への共感が、見る者の権力への加担と同一化を唆したり正当化することで支えている、という解釈も成り立つだろう。






このドラマは、江戸時代の「火付け盗賊改め方」(字はちょっと違うと思う)という、今で言うと警察権力のようなものを描いたものである。
このドラマでの、密偵や「鬼平」たちの姿を見ていると、次のような言葉を思い出す。

『彼ら警察官と悪党が美しくあることをわたしが望んだのは、そうなることによって彼らの輝かしい肉体が、あなた方の彼らに寄せる蔑みの念に復讐することを望んだからだ。(ジャン・ジュネ 朝吹三吉訳 『泥棒日記新潮文庫 p294)』


『警察官と犯罪者とはこの世の最も男性的な発現物である。人々はその上にヴェールをかける。それはあなた方の恥部であり、しかもわたしは、あなた方と共に、この恥部を高貴な部分と呼ぶのである。(同上 p295)』


『わたしはそれらの逞しい男たちが、この、彼らの精神を蝕み、彼らを腐敗させる雰囲気を絶えず吸っていることを知るのが嬉しいのだ。わたしの献身の情が向かっていたのはこの種の警察だった。(同上 p296)』


鬼平犯科帳』の密偵たちは、元盗賊でありながら、仲間を裏切り、(当時の)警察権力に加担する人々である。
そこに、孤独や、屈折した心情が生じ、独特な魅力(雰囲気)を放つことになる。
だが、こうした「裏切った者」の孤独とは、実は(ジュネの描く)「警察官」という存在そのものの有する雰囲気と、同質のものではないだろうか?
警察官たちもまた、一人一人の人としては、いわばその出自である「市民社会」を裏切って、公権力のために働く存在なのである。
彼らが、畏れられながらも、ときに「蔑まれる」ことがあるのは(「ポリ公」などと呼ばれて)、そのためだろう。
つまり、「権力の犬」となった「裏切り者」たち、というわけである。
だが、この蔑視は、その存在が放つ(われわれにとっての)強い魅力と表裏のものでもあることを、ジュネの文章は教えている。
屈折した、孤独な、「権力の犬」こそ、われわれを魅惑する存在なのだ。
その理由は、おそらく、われわれ自身が「権力の犬」として生きざるをえない存在だからであり、われわれは「権力の犬」である警察官たちが公的な職務を遂行する姿を賛美・肯定することによって、われわれ自身が行っている(権力への加担という)日常的な行為の後ろめたさを覆い隠そうとするのである。


実際、刑事や警官を主人公にした映画や小説の主要な魅力は、われわれ自身が、日常的に権力の行使に加担して、何かを裏切っているということ、そういう風にしか生きることが出来ないという、無意識の感覚に関わっているのだろう。
「警官の孤独」は、われわれ全ての孤独なのである。
分かれ目はそれを、どのように引き受けるかということだ。
われわれの同類(「権力の犬」)である警官たちを、自分たちに引き付けて捉えた上で、彼らと(根本的には、我々自身の権力性や「裏切り」と)向き合ったり戦ったりするのか、それとも彼らを賛美しながら自分たちも権力に深く同一化していくことで、彼らを永久に、権力の側へと押しやってしまうのか。
もちろんたいていの刑事ドラマは、後者の立場をとっているのだが。




ところで、『鬼平犯科帳』シリーズには、尾美としのりの演じる「木村忠吾」という同心がレギュラーとして登場し、たいへん印象に残る演技を見せている。
尾美としのりは、大林宣彦の映画『転校生』(82年)で有名になった頃から、今でもまったく年をとったことを感じさせない、独特な雰囲気を持つ名優だが、最近、その尾美が、『鬼平』の木村忠吾と似た役柄を演じた現代劇(映画)を見る機会があった。
テレビで見た、『公安警察捜査官』(監督 鈴木浩介 2006)が、それである。
途中までしか見てないのだが、興味を引かれるところがあったので、簡単に触れておきたい。


この作品は、刑事警察から公安警察に配属替えになった男が主人公(竹内力が演じてるのだが、どう見ても取り締まられる側だ。)である。
警察学校のようなところで短期間の研修を受けた後、「北朝鮮工作員」とか、不法なことをしているらしい中国人労働者とか、日本人を大量に拉致した某国家(中東かアフリカの国らしかったが、よく分からず)とかと対決(捜査)していくという筋。
面白いのは研修のときに、教官のような立場の人(原作者で元刑事である北芝健が演じてるのだが、びっくりするような怪演)が、


『外国からのテロ組織などだけでなく、体制を否定する破壊活動をするような左翼や右翼も取り締まり対象とする』


という意味のことを述べた後、


『ところでお前ら、右翼についてどう思ってる?』


と質問すると、研修を受けてる刑事の一人(尾美としのり)が、やや自嘲的に(ここのニュアンスは微妙なのだが)


『右翼って、俺たちのことでしょう』


という風に答える場面である。
この男は、愛国的な感情が強いようだが、警官(公務員)という立場上、それが表面に出せないというもどかしさを抱えてる人物のように描かれてたと思う。
この答えに対して教官は、一応否定的に答えるのだが、真剣なものとは感じられない。


教官が言うのは、『われわれの使命は、自由と民主主義を守ることだ』ということである。
(そこで)もちろん思想信条の自由というものは尊いが、だからといって市民社会を脅かす破壊活動のようなものが許されるはずはない。そう語る。
ここでの「自由と民主主義」とは、(映画の製作当時の)政権政党の名称そのものであり、文字通り現行の国家体制の別名だといっていいだろう。
それは、警察が「自由と民主主義」を守るのは、それがこの国の体制のイデオロギーである限りにおいてであり、そのようなものとしての「自由と民主主義」を守る、ということを意味する。
逆に、この「自由」なり「民主主義」なりが、国家や体制を揺るがすものになりかねないときには、それを弾圧するのが警察の仕事になるだろう、ということだ。


また、警察は左翼(それが体制の否定を掲げる限りにおいて)とは基本的に組むことがないが、右翼とは不即不離の関係となる。
ただし、それが国家の現在のあり方を否定しかねないもの(たとえば反米)となったり、破壊活動を行ったりする場合は、この限りではない。
つまり、警察にとって左翼は原理的に取締りの対象だが、右翼は明白な反秩序的・反体制的な行動をとらなければ(厄介事を起こさなければ)、一応友好的な関係を保てるのである。
警察と右翼・暴力団との微妙な(心情面の)距離感のようなものも描かれていた。


要するにこの映画では、警察は「市民や市民社会を守る存在」としてではなく、警察の右翼性というか、国家・体制の守護者としての警察、という姿が、はっきりと描かれていた。このような警察の像が描かれることは、テレビや映画ではあまりない。
警察は「法の番人」と呼ばれるが、それは法秩序を守ることが国家・体制の安寧につながる限りであり、その限りにおいてのみ、警察は市民を守る。なぜなら警察は国家・体制を構成する組織の一部だからである。
そういう「現実」が大変よく分かる映画だった。


以上のように書くと、そういう警察のあり方を告発ないし批判した映画のように思うかもしれないが、そういう映画ではなかったと思う。
作品を最後まで見ていないので、断定は避けるが、少なくとも、このような警察の姿を赤裸々に(有り体に)描いたうえで、そこに刑事たちを一種のヒーローとして、幾分のシニカルさを含みながらも捉えることが、観客にとって可能になるような内容だったのではないかと思う。
そこでは、『右翼って、俺たちのことでしょう』という、あの刑事の言葉は、個人が公権力の行使に完全に加担(参加)するための接着剤のような役目を果たす。つまり、内面の屈折した心情が(それは、日常的な生への「裏切り」に由来するものかも知れないのに)、あらかじめ「右翼的心情」として立てられることで、警官である彼の公権力の行使(職務遂行)によって、この「屈折」(溝)が解消され、めでたく「国家=公」との一体化が完成する、という仕組みが見えるのである。


こうした職務の遂行の後では、警官は、もはや「孤独」ではないだろう。
だが、かつて自分が感じていた「孤独」が、日常的な生への裏切りに起因するものだということを覆い隠すことによって、この「孤独の解消」は成されたわけだから、実際には孤独は、まったく絶望的なものに変わっただけなのである。
そしてもちろん、これは、警官たちだけに関わる話ではない。
「警察的な日常」を生きざるを得ない、われわれの全てにとって、いっそう深いかかわりのある選択の問題なのである。

『ただドイツ人だけが、ヒットラーの時代に、同時に「警察」であり「罪」であることに成功した。この反対物の壮大な総合、この真理の大塊は恐ろしいものであった。そしてそれに満ちていた磁力は今後長いあいだ、我々を熱狂させ続けるだろう(『泥棒日記』 p286)』


泥棒日記 (新潮文庫)

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