山本太郎氏の行動に思う

天皇の政治的利用(この言葉自体に抵抗があるが)について書いたところなので、今回の山本氏の件についても、少し感想を書いておく。
http://mainichi.jp/feature/koushitsu/news/20131101k0000m040039000c.html

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2013103100946&j4



政治家たちのみでなく、運動内部・左翼内部からも批判が出ているように、この行動はたしかに、政治的には非常に問題であると思うし、また天皇制を否定する立場から、僕は思想的にもこのやり方をとても認めることは出来ない。
だが、それはそれとして、一つの明確な目的の為に、山本氏がこうした果敢な行動をとったということ自体は、それが間違ったものであったとしても、評価し支持するべきだと思う。
ある行動を断固批判するということ、その行動が間違ったものであれば、批判することを決して抑圧しないということは、行動というもの自体の価値を否定することとは違う。
行動は、行動だから、思慮を欠いて間違うということもある。だからこそ、批判は必須なのだ。だが、だからといって、行動したこと自体が評価されず、否定されてしまうなら、個人は行動を慎む方が賢明だということになる。
それは、良くない傾向である。


最近の運動をめぐる議論を見ていて不満に思うのは、この行動ということに対する評価の低さである。
反原連やしばき隊にしても、僕が彼らに批判的な理由の一つは、逸脱的な行動の可能性を、あらかじめ排除しているところがあると思えることだ。逸脱的な行動をして警察に睨まれたりするような者は、運動の足を引っ張る邪魔者だという風にされる。逮捕された者も、特に救援されず見棄てられ、時には非難されたりする。
こうしたことは間違っている。
また、彼らを批判する左翼の側にしても、行動において間違わないことが第一義とされ、とにかく行動したということが、その間違いの有無に関わらず、ひとまず肯定されるということが少ない。間違った主張や手法の行動に参加した人間は、それだけで否定される対象と見なされるのだ。
今回の山本氏の行動への批判についても、そうした種類の批判が見受けられる。
これは、間違いであるかもしれない行動を、あえて行うという、いわば運動における「賭け」の要素を排除してしまうことである。それは、運動を細られるだけのものだと思う。


そして、大事なことは、いま山本氏の行動を、大きな顔をして非難し、あわよくば彼を国政の場から追放しようと息巻いている与野党の政治家たちは、政府による公然たる、そしてまた周到このうえない天皇・皇族の政治的利用、いやむしろ、その本来の悪しき政治的機能の活用を遂行したり、見て見ぬふりをすることで加担したりしてる連中だということだ。
つまり、いわゆる「天皇の政治利用」といったようなことは、それが大きな権力によってシステマティックに行われる場合には、何ら非難されることがなく、(国会議員ではあるが)現体制の政策に反するような主張を続けている個人がそれを行ったと見なされる場合にだけ、激しい断罪と非難の対象になるのである。
ここで貶められ攻撃されているものは、国家やシステムの論理に異を唱えるような個人の「行動」であり、ときにそういう危うい行動の姿をとるしかないような、非国家的な個人の生だ。


天皇という存在を政治の場に持ち込むということは、その存在が元々非難されるべきこの国の政治体制と不可分に結びついたものである故に、誰が行っても強く非難されるべきことである。
今回の山本氏の行動も、それがこの天皇を含んだ政治制度の強化につながりかねないものであるだけに、間違いであり、批判されるべきである。
だが、人々の被曝を防ぎ、原発という抑圧的・破壊的な存在を無くしていくという、正しい目的のために行われた個人の(あるいは人々の)行動の意義は、抑圧的な国家やシステムの力の抵抗し、それを打破しようとする行為として、擁護されなければならない。
山本氏が、今回の行動によって体現した、その小さな生の抵抗の意志は、われわれが守りぬいて行くべきものであると思う。
山本太郎氏の行動の意志を支持し、彼への政治的攻撃と、その国政からの排除に強く反対する。