『コーラ』11号発行

Web評論誌『コーラ』11号が発行されました。
以下、転載します。

     
   ■■■Web評論誌『コーラ』11号のご案内■■■

 ★サイトの表紙はこちらです(すぐクリック!)。
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html
 ★Web等での本誌のご紹介も、よろしくお願い申し上げます。

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 ●シリーズ〈倫理の現在形〉第10回●
  フェミニズムに対する違和感
  ──「学問としてのフェミニズム」に(震えながらも)物申す

  上間 愛
 http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/rinri-10.html

 私はアカデミズムの場でフェミニズムに携わる若年フェミニストとし
 て、フェミニズムに対して違和感を抱き続けている。フェミニズムによっ
 て私自身が救われた経験を持ちつつも、何か、やり過ごせないひっかかり
 が残る。この違和感はいったい、何なのか。
  「フェミニズムに対する違和感」が、異議申し立てや反動などの形で現
 れたのは、最近のことではない。海外に視点を移せばフェミニズムに対す
 る批判は、もっと以前から展開されてきた。1980年代のアメリカにおいて、
 「フェミニズムは白人高学歴女性の諸権利を拡大していくもの」という異
 論を唱え、「ブラックフェミニズム」としてその意義を唱えていこうとし
 た1人に、ベル・フックスがいる。彼女の著書『ブラック・フェミニスト
 主張──周縁から中心へ』から、当時彼女がどれほどの勇気を持って、黒
 人女性として声を上げていったのかがうかがえる。白人のフェミニスト
 ちについて、フックスは次のように手厳しく分析する。
 (以下、Webに続く)

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 ●新連載「新・玩物草紙」●
  箪 笥/植物奇譚

  寺田 操
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/singanbutusousi-1.html

 《箪笥が生きていると/言ったのは誰だったかしら》と青山雨子詩集
 『暇な喫茶店』(書肆山田・二〇一〇・三)より「箪笥」を開いていて、
 箪笥にしまったまま袖を通していない着物を風にさらした昨秋の温かい陽
 のことを思いだした。足を手術してからは着物を着て出かける気にはなら
 ない。といって処分するのもリフォームするのも抵抗がある。お茶や仕舞
 をしていた亡母のたくさんの着物だって、結局は妹の子どもが数点形見分
 けにもらっただけでほとんどを処分してしまったのだと思えば、箪笥の肥
 やしにしていてもしかたがないこと。詩の続きは、祖母の形見分けのする
 箪笥の中から《出てきたのは蝉だったわね/桜の葉影の地模様から盆、盆
 が近いって》だった。木を倒して家や家具にして暮らす人間の棲み家で、
 最期を迎えた樟脳まみれの蝉の一生。(以下、Webに続く)

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 ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  15章 風と波、花と雪─ラカン三体とパース十体(破ノ弐)
 
  中原紀生
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/uta-15.html

  神田龍身著『紀貫之──あるかなきかの世にこそありけれ』は、貫之文
 学の本質を、屏風歌歌人としての言葉の営みのうちに見てとります。いわ
 く、貫之は屏風歌歌人としてスタートし、絵に相対することから、絵を詠
 むという特殊事情から、一つの普遍的な表現方法を確立した。またいわく、
 屏風歌を詠む経験が、貫之の専門歌人としての名声を高めたのはもとより、
 屏風歌という固有性をも超えて、ある種の普遍的認識を彼にもたらした。
  それでは、屏風歌の経験がもたらした普遍的方法、そして普遍的認識と
 はどのようなものだったか。以下、神田氏の議論の一端を、若干の編集を
 ほどこしたうえで、紹介します。(以下、Webに続く)

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 ●「新・映画館の日々」第10回●
  男と云ふ「秘密」――パムク、華宵、谷崎、三島(鈴木 薫)     
             

  鈴木 薫
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-10.html
  
  2006年にノーベル賞を得たトルコの作家オルハン・パムクの長篇小説
 『私の名は紅(あか)』(☆1)は、十六世紀末のイスタンブールの細密
 画師――ペルシアが本場である“ミニアチュール”の描き手。訳者によ
 れば、この時期、トルコの細密画は「本家ペルシアの芸術を凌駕する域
 に達した」という――の世界を舞台に、「わたしは屍」「わたしの名は
 カラ」「私は犬」「人殺しとよぶだろう、俺のことを」という具合に、
 語り手がいちいち名乗り出るかたちの表題を持つ59の章から成っている。
 いったい何人の語り手がここにはいるのだろう。
  実際には、これらの章は、語り手が一度きりで消えるか、繰り返し現
 われるかによって、二つに分けることができる。二回以上出てくる語り
 手は、“物語”――細密画師が殺された事件の犯人探しと、それに関連
 する一組の男女(カラとシェキュレ)の関係の進展――の進行役であり、
 彼ら自身が主要登場人物でもある(これが探偵小説だとすれば、この中
 に真犯人がいるわけだ)。(以下、Webに続く)

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 ●コラム「コーヒーブレイク」その5●
  33年目に解けた「社名の謎」 

  橋本康介
  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/column-5.html

  1977年から1998年まで、20年数ヶ月の間、細々と存続した会社がある。
 奇妙な名称で「株式会社ダン」という。友人が経営していた会社だ。
 その会社は、労働争議──組合潰しの計画倒産──組合による職場バリ
 ケード占拠五年──組合自主経営……という経過の中で設立された。
  ダン? 何度も社名の由来を訊ねたが答えてもらえなかった。