検察の問題について

さっき、日曜に放映された特捜検察のFD改ざん問題についての番組の再放送を、ちょっと見てた。


番組に出てた人のなかでは、江川紹子氏が言ってたことに、やはり賛成である。
前田という検事個人の犯罪や責任の問題としてだけ終わらせず、検察という組織全体の責任が問われ、同時に真相究明がされなければならない。少なくとも、そう思う。
だが最高検という検察の一部が、自分たち自身の捜査を行っている現状を見ていると、どうもそうした究明がなされるとは期待できない。


番組を見てて思ったのは、元特捜の人とか、色々喋っていたが、その組織に長く居た人というのは、組織を守ろうとか事実を隠そうとか意識していなくても、どうしても組織には罪が無いという発想で物事を考えてしまうらしい、ということだ。
これは、たとえば「国民」という立場についてもあることだろう。自分でそう思って無くても、知らず知らず「国民」という枠組みでものを考えてしまい、国家のやっていることに実質的な批判を向けられなくなる、ということがある。
だから、「検察が検察を取り調べる」ということは、最大限善意に考えても、やはり不十分な結果になるに違いないと思う。


それなら、一部で言われてるような政治家、とくに与党による真相究明ということはどうか。
もちろん、これは権力闘争の色を免れないだろうが、それでも検察(少なくとも特捜)の暴走と呼べるものに、一定の歯止めがかけられる可能性はある。
だが、それもちょっと期待できないという気がする。
結局、やはりわれわれ自身が、検察やマスコミを盲信しない、批判していく、という姿勢を持ち続けることしか、現状ではないのだろう。


検察の手法の横暴ということについては、さかんに言われている。
だがこうしたことがマスコミで大きく取り上げられる場合があるのは(それも滅多に無いのだが)、政治家なり官僚なりの問題に限られるのであり、そしてやはり特捜検察の問題に限定されている。
特捜の場合は、「国策捜査」と呼ばれるようなもの(の可能性)もあり、ここには別種の危険性があるから、これはこれで特別な警戒が向けられることは、当然ではあろう。
だが、検察のような強大な権力を握る集団・組織の横暴というものは、検察から特捜だけを切り離して問題にするのでなく、根本的に非難されねばならない。
国家も警察も検察も、たしかに必要だろう。だがそうだからこそ、それは常に批判の対象でなくてはならない。


たしかに、「検察の正義」なるものが市民社会の中で十分に実現されたとしても、肝心の国家そのものが不正義に根ざしているのであれば、そんなものにどんな妥当性があるのか、という疑問は大きい。
だが、国家がその都度行使している現実の不正義に歯止めをかけるためには、検察なら検察というものの横暴な権力、あるいは検察という組織を使って行使される政治的な力を、見えるものにし、非難していく必要が、やはりあると思う。
それが唯一の道でも、また十分なやり方だとも思わないが、それを行わないということは、やはり権力の横行に手を貸すことにしかならないだろう。
不正義の行われる現実の道筋を、一つでも暴いて潰しておくという努力は、やはり大事なことのはずだ。


そうした意味で、今回の問題はまともに究明されるならば、日本が民主化されていく上で、小さくない意義を持つものだと思う。
だがその道は、やはり険しいもののようだ。