朝鮮学校前でのレイシズム事件について

下記の件について、今ここで書いておきたいことは一点だけ。
メールからの転載文の後に、それを書き加える。


(MLより転載)

                           
皆様

私は朝鮮第一初級学校に二人の子どもを通わせている
保護者の金と申します。

ご存知の方もいらっしゃると思いますが
先日4日に名前を言うのも忌まわしいようなレイシスト(人種差別)団体(注:在日特権を許さない会)が

京都朝鮮第一初級学校のすぐ前で騒乱を起こしました。

http://corea-k.net/date/000.wmv

今まで生きてきてこんな腹立たしく悔しい思いをしたことがありません。

学校の前で子どもたちに聞こえるように
“スパイの子どもたち!”“朝鮮学校を日本からたたきだせ!”などと
人として信じられない暴言を拡声器の爆音をもって騒ぎ立てました。

子どもたちはおびえて、中には涙を流すこどもたちもいたそうです。

私が悔しい、腹立たしいと思ったのは、何もその団体に感じたことではありません。
朝鮮語のことわざに“糞を避けるのは怖いからで無く汚いからだ”という言葉があります。

私が本当に許せないのはこのような事態が許されている“この社会の規律と良識”に感じています。

当日警察も子どもたちがおびえてるにもかかわらず“自分たちは間に入っている立場”とし
制御しようともしない。スピーカを校門のまん前で校舎に向けて騒いでるにもかかわらず禁止させない。

これが言論の自由ですか?法や警察はこどもを守ってくれないというのがむなしくてたまりませんでした。

自由使用の公園なのにも関わらず“不法占拠”とののしり、地域の方々も使っているゴールポストを動かしたり、利用する子どもの安全のために設置されたスピーカーの線を切り、朝礼台と一緒に校門前に投げつける暴挙。
器物破損ではないのですか?強制執行は一般市民に権限があるのですか?

子どもたちがおびえ、泣いているのに脅迫罪ではないのですか?
そこにいる個人や団体を誹謗中傷し侮辱罪ではないのですか?

そこに駆けつけた私たちは声がかれるまで警察に訴えたのに取り合ってくれませんでした。

私は学校に駆けつける前に、某大学で人権教育の招かれ、“人権とこどもの学ぶ権利”を物知り顔で語っていました。
このときほど“人権と子どもの学ぶ権利”が虚しく聞こえたときはありません。

私はこの問題が一部のレイシスト集団の問題ではなく、それを許容する日本社会の“良識”を問いたいです。
たしかにこのような集団は日本人の一部かもしれません。
“日本人は悪い人ばかりではありません。信じてください”とおっしゃりたい方もいるでしょう。
そういう意味では日本の方々も被害者かもしれませんが、今回の問題の本質ではありません。

明確にこのような事態が起こったことは、これが許されたことになると思います。

いまこそ“日本社会の良識”にとうべきだと思っています。

いままで本当に悔しい思いをいっぱいしてきましたが、もうたくさんです。
今後このような事態が起こったとき、また私たち朝鮮人は門扉の前で歯を食いしばり、血の涙をのみながら我慢に我慢を続けないといけないのでしょうか?

正直に今回子どもたちに“守ってやれなくて申し訳ない”との考えが頭を離れず夜も悔しくて眠れませんでした。

無くなった祖父母や一世たちが空の上からこの事態を見ているならば、どんな思いをしてるでしょうか?
自分たちの曾孫までもこんな仕打ちをされているのかと嘆き苦しんでいるでしょう。

長々と書きたて、最後まで読んでいただきありがとうございます。
もうこのような事態が起こらぬよう皆さんどうかこの社会を良識とあるべき姿を考えてください。。。

(転載は以上)



文中にこうある。

当日警察も子どもたちがおびえてるにもかかわらず“自分たちは間に入っている立場”とし
制御しようともしない。スピーカを校門のまん前で校舎に向けて騒いでるにもかかわらず禁止させない。


警察としては、「警察は中立だから」と言いたいわけだろう。
「民事不介入」とでも呼ぶのか、しばしば聞く言い廻しだが、この状況で言われると、あまりに暴力的な台詞だと実感する。
「間に入る」とか「中立だ」とかいうが、何と何の間のことを言ってるのだろう。
暴徒が子どもたちも居る場所、在日朝鮮人が子どもたちを通わせている学校のすぐ前のグランドに押し寄せて、罵詈雑言やひどい暴力的な振る舞いをしている。子どもに限らず、この人たち(在日朝鮮人朝鮮学校の関係者)が、日本の社会のなかでずっと、とりわけ近年は、どれほど困難な社会的に弱い立場に置かれているか、攻撃や中傷を受け続けてきたかは、誰でも知ってるだろう。
そこに排外主義を声高に叫ぶ連中が押しかけて騒ぎ立ててるわけである、しかも子どもたちの眼前で。
一方の側が攻撃をしていて、もう一方は攻撃を受けているだけだということは、誰の目にも明らかなはずだ。
警察が司法の番人なら、ここで攻撃にさらされている者、目の前の弱者を守らないでどうするのか。
それなのに警察は、「攻撃してる側と、攻撃されてる側の間で中立を保つ」と言ってるわけである。
この言い草が、欺瞞でしかないのは明らかだ*1


もしもここで、攻撃にさらされている側の誰かが、挑発的な言動・攻撃に耐えかねて、実力で反撃に出るなら、警察はただちに介入して、その人を逮捕するだろう。
そうならない限り、警察は「中立」を保つのである。
その態度によって、この社会ではこうしたレイシズムが黙認されるということを示して、レイシストたちをそそのかし、市民たちには「深く立ち入らないこと」を暗に促し、そして攻撃にさらされている人たちには最大級の圧迫を加えている。
その社会的な効果は、比類がない。
実際、上の文中で示されている暴力の内実は、その実効性、脅威から言うなら、在特会によるものはせいぜい一割で、警察の振るっているこの黙認による暴力が、九割以上だと思う。
この暴力は、無数の暴力をそそのかしたり生み出したりする根になるものだし、「この社会ではこれが合法的に許される行為である」というメッセージによって被害者に与える打撃の力は、はかり知れないだろう。


だから、この警察、国家権力による恣意的な権力の行使こそが最大の暴力であって、われわれが批判するべき最大のものである。
在特会の暴力を許さない」という言葉は、たしかにその通りだが、それは核心においては(終着点としては)、その暴力を生み出す枠組みを作りあげている、こうした国家権力による恣意的な暴力行使を許さない、という意味でこそあるべきだ。
われわれは、そのことにおいてこそ有責だ。


なぜなら、こうした国家権力の恣意的な行使という暴力こそが、在日朝鮮人の過去と現在を作り出してきた、当のものでもあるからである。
戦後の歴史を振り返ってみれば、それは分かるだろう。
また、警察による扇動や黙認がなければ、関東大震災時の大規模な朝鮮人虐殺も起きなかっただろう。


こういうことを書くと、「いや、警察をなるべく介入させるべきではない」とか、「ここで国家権力に頼ってどうするのだ」とか言いたい人も出てくるだろう。
それは間違っているとは言わないが、ここではお門違いである。
なぜなら、ここでは「まだ介入していない国家権力の介入を防ぐ」ことが問題になっているのではなく、「すでに一方的な仕方で介入している国家権力の行使を非難する、除去する」ことが問題なのだから。
そしてまさに、この権力(暴力)こそが、悲劇を生み出す当のものである。


われわれ市民同士の対話や対決だけによって、差別や戦争や虐殺が防げるほど、日本は健全な民主主義社会ではない。
おそらく、そうであったことは一度もない。
また、およそ人間が、暴力的であったり、他者に対して排除的であることを免れたためしも、一度もないであろう。
そのとき、とりわけ国籍などの理由によって弱い立場に置かれている人や、その集団の命運を握っているのは、合法的な暴力を独占する、(この国の)国家権力、端的には警察権力以外ではない。


「警察しか弱者を守れない」のではない。
「警察の(恣意的な)権力行使だけが、真に弱者を苦しめる」のである。
真にわれわれが監視し、批判するべきなのは、いつでも国家の権力のあり方だ。
この大元の事柄、最大の暴力が、見失われてはならないと思う。

*1:あまり他の事例を引き合いに出したくないが、たとえばパレスチナの入植地で、パレスチナの農民に対するユダヤイスラエル人入植者たちの暴力や嫌がらせを、イスラエルの軍や警察が黙認するのと、これはまったく同じ振る舞いだと思う。