大阪の弾圧行為に救援を

すでにご存知の方が多いと思うが、13日火曜日の午後、大阪市でまた、原発・瓦礫拡散反対運動に関わる不当逮捕があった。今回は、四人が一挙に逮捕された。
大阪市がごり押しを進めてきたあげく、おざなりのように開いた「住民説明会」の直前の出来事である。

http://occupyosaka.net/archives/55



逮捕された四人は、いずれも運動のなかで重要な役割を果していた人たちであり、また大勢居た現場の人たちの中から、上司らしい警官が「こいつと、こいつ」と指差している姿が動画に収められていることから判断しても、不退去や公務執行妨害を口実にした「狙い撃ち」の計画的弾圧だったことは明らかだと思われる。
http://kingo999.blog.fc2.com/blog-entry-973.html

http://www.ustream.tv/recorded/26960730

http://www.ustream.tv/recorded/26960830



もちろん、不当逮捕は本当に最悪な暴力だし、弾圧など誰も経験しない方が良いに決まっている。
だが、今のような、国家的・国際的な不正義が公然とまかり通る社会のなかで、抗議行動に対する弾圧が起きるのは、その行動が有効で核心を突くものであればあるほど、不可避的である。
どういう抗議や働きかけの手法をとったかということは、あくまで相対的・主観的な違いに過ぎないのであって、運動が本質を突いたものであれば、国や警察はどんなやり方を使ってもそれを押さえ込み、潰そうとするのだ。
今回のような行政と警察の非道なやり方は、放射能汚染の全国的な拡散という致命的な暴力によって原発体制の維持を図ろうとしている、この国の姿と方向性を端的に示している。不正な権益のために、人生や健康や生活が、生存さえもが犠牲にされ蹂躙される。それが、この社会と世界を覆いつつある論理である。


とりわけ日本において、これまでこうした弾圧がどんな人たちに向けられてきたか考えてみればよい。
例えば釜ヶ崎の労働者や野宿者の人たち、日本の植民地主義の残滓に苦しみ続けてきた在日朝鮮人、最近ではとりわけ朝鮮学校の関係者や朝鮮総連の人たち、また「不法滞在」とされた外国人労働者など、この国の権力や社会によって「人権の外」の存在のように見なされた人たちは、はるか以前からずっとこのような弾圧の脅威に曝されてきたのである。
いま、原子力体制を維持するための国の強硬な政策に抵抗しようとする人たちが弾圧されるのは、その抵抗や抗議が、これまでこのような「人権の外」の人たちへの迫害を可能にしてきた、われわれ自身の生の植民地主義的な性格を改変することにつながるからだ。
それが国と社会のあり方の、根本的な変革をもたらしかねないという脅威を、統治する側は、われわれ以上によく理解しているのである。


誰も弾圧などされない方がいいに決まっているが、こんな現状の社会で、誰もが弾圧をされずに生きていくということが何を意味するのか、よく考えるべきだろう。
それは誰もが、不正義を受忍し、そうすることで不正義に加担するような人生を送ることを強いられる社会の存続しか意味しない。
その手法はどうであろうと、そういう最悪な状態に全力で抗おうとした人たちが、当然のように弾圧の被害者にされたのである。
彼ら、彼女らを救うことは、ぼくたち自身の生を救うことだ。