続・ザンパノ考

きのうの記事への補足。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070825/p2


ザンパノが、自分の人生の体験を喪失していたという意味で「われわれ」みんなではないかと思った、というのは、ジェルソミーナとの関係についてのことである。
つまり、誰かを見捨てているという行動、その事実を否認することによって、自分の人生の一番核心の部分をとりかえしがつかない仕方で損なっているという意味で、そのように思うのである。
そうであったという事実に気づいたとき、ザンパノは、その「とりかえしがつかなさ」にはじめて直面し、号泣した。
ただ、二つ補足したい点がある。


そのひとつ。

その「体験」というなかにジェルソミーナという、彼にとってもっともかけがえのない存在だった人の、その「かけがえのなさ」というものが含まれていた。


と書いたところは、正確にいうと、そういう位置関係にはなってないのかもしれない。
ジェルソミーナという存在が、ザンパノの人生の「体験」にむしろ先立つようなものとして在った、と言うべきかも知れない。
だが大事なことは、ザンパノにとってジェルソミーナが大事な存在、かけがえのない存在であるということは、ザンパノとジェルソミーナとの関係の近さとか同一性・親近性といったこととは無縁である。したがって、ジェルソミーナという属性とも無縁だということ。
彼女とある仕方で関わり、利用したり傷つけたりし続け、最後に見捨ててしまう。その関わりの事実性において、ジェルソミーナは、ザンパノにとって、ある種特別な存在となった。
それは、いわば関係性の問題であって、ジェルソミーナという属性とは、したがって、ザンパノの同一性(自己)の世界とは関係がない。
そのような、属性とは別種の存在として、ジェルソミーナはザンパノの人生の体験を、むしろ作り出すような特別な存在となった。
そんな気がする。


補足したいもう一つのことは、最初に書いたように、ザンパノが「われわれ」みんなだ、と(ある程度)批判的に言えるのは、あくまで「ジェルソミーナを見捨てた主体」としてみた場合の話である、ということ。
あの映画を見た人は分かるように、ザンパノは、やはり社会の辺境に置かれた人間でもある。だから、彼がある時期に自分の人生の体験を損なうような生き方をしていて、その「喪失」のなかでジェルソミーナという存在を「見捨てた」のであれば、そのゆえにその行為がもたらす痛みを否認して生きたのだとすれば、そういう「喪失」の人生を彼に送らせた責任は、社会の側にあるともいえる。
その意味では、彼にそういう人生を強いた者、あの号泣へと突き落とした者としてこそ、「われわれ」という代名詞を用いるべきだということになる。
ザンパノは「われわれ」みんなでもあるが、同時に、「われわれ」はザンパノから人生(体験)を奪った者でもあるのだ。