サルトルとカフカ

サルトルは、人間の対他存在が他人に規定された、「他人にとって存在する」ところのものでしかありえないということの説明のなかで、『審判』や『城』などのカフカの小説の(不透明な、不安な)世界の印象を、その感覚をよく表現しているものとしてあげている。

けれども、それと同時に、それらの行為の真理は、たえずそれらの行為から脱れ出る。それらの行為は、原理的に、一つの意味をもっており、これらの意味がそれらの行為の真の意味であるのであるが、「K」も「測量師」もついにこの意味を認識しない。(ちくま学芸文庫版『存在と無』巻2 p125 松浪信三郎訳)


これはすごく的確な例だと思った。
カフカの小説の独特な不安な気分を、そういうふうに説明されると、とても納得できる。
カフカはどこかで、「われわれは夢を見ない。とても深い夢はわれわれを見る。」という意味のことを言ってたが、それはこういうことだったのか、とも思った。


たしかに、「他者」という場合の現象としてのイメージを言えば、カフカにおけるものと、サルトルにおけるものとは、ずいぶん違う気がする。
だが大事なことは、もっと根本的な部分で、彼らが、「見られること」による不安定な意識に対して鋭敏だったということ、他人に規定され対象化されて存在している、そのようにしか存在し得ないという自分の存在のあり方を率直に見つめていた、ということだろう。
それは、「私」が「存在させられている」ということ、その事実への違和感や反感を、自分に隠さなかった、ということだ。


そして、この「存在させられている」ことへの違和感が、「〜のおかげで」というロジックに吸収されてしまうとき、他者との関係としての、私が生きているという具体性が消去されてしまうのではないか。


サルトルカフカも、他者に規定され、対象化されて存在する私というものの脆さ、危うさ、その「崩壊可能性」のようなものにこだわったのだと思う。
そして、この崩壊可能性というものが、この本の第一部で語られていた対自の根底をなす「自由」(無)というものに関わってるような気がするのだが、そこはまだよく分からない。


サルトルが書いていることのなかでも、とりわけ今アクチュアルだと思えるのは、たとえば次のような箇所だ。

いいかえれば、他者にとって、私は、とりかえしのつかないほどまでに、私があるところのものであり、私の自由までもが、私の存在の一つの与えられた性格である。(中略)私の逃亡のこの対象性を、私は、私が超越することも認識することもできない一つの他有化として、体験する。それにしても、私がこの対象性を体験するというただそれだけの事実、私の逃亡が即自を逃れるにもかかわらず、この対象性は私の逃亡にそのような即自を付与するというただそれだけの事実からして、私は、この対象性の方へ振り向き、この対象性に対して種々の態度をとらなければならない。私と他者との具体的な諸関係の根原は、そのようなものである。他者との具体的な諸関係は、「他者にとって私がそれであるところの対象」に対する私のもろもろの態度によって、全面的に左右される。(同上、p364)


カフカと情報化社会

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カフカ・夜の時間―メモ・ランダム

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