「対象‐われわれ」


承前。
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20091122/p2


サルトルがここで「憎悪」に関して言っているのは、こういうことだろう。
「憎悪」には、対他存在に関して、したがって自由に関して、「嫌悪」より本質的なものが含まれているだけでなく、「寛容」よりも本質的なものが含まれている。
それは、憎悪する者は、この世界のなかで、共に「自由」という資格において他人と関わろうとする場合、他人を自己の安定のための道具として用いるという欺瞞的な共存策をとるのでなければ、他人の存在全般の除去を目指すしかないという結論に、真摯な苦闘の末に達した者だからである。
「自由な世界」においては、私と他人との関係は、必ず相克的(食うか食われるか)であるという事実を、率直に認めざるをえない地点に、憎悪する者は自らを追い込んだわけである。
これは、戦前のヨーロッパの自由主義世界、実質上帝国主義の延命の形態であった自由主義リベラリズム)の世界に対する、『国家』(プラトン)のトラシュマコスを思わせるような、非難と怨訴の叫びだろう。サルトルは、ファシズムの台頭を、このような観点でとらえたのではないだろうか。
そして、「憎悪」が本質的なものを含んでいるということの意味は、それが「嫌悪」や「寛容」とは違って、他人の存在のうちに、いわばその向こう側に、「超越」を予感している、ということである。それを予感しているから、その可能性を消し去るために、彼は他人の存在そのものを直接的に除去しようとする。
「嫌悪」や「寛容」は(憎悪もたいていは嫌悪という装いのもとに現れるのではあるが)、この予感そのものを否認している。だからこの意味でも、(リベラルな)私は憎悪を憎悪する(嫌悪する)のだろう。
だが憎悪は、たとえ他者をこの世から消し去ったとしても、自己の根源である「汚染」を、決して浄化することは出来ないだろうと、サルトルは言うのである。



さて、ちくま学芸文庫版では巻2に収められている『存在と無』の第三部「対他存在」の第三章の、いよいよ最後に近いあたりで、サルトルは「われわれ」という「共同存在」について論じる。
それは「対象−われわれ」と「主観−われわれ」の二つに分けて分析されているのだが、特に面白いのは、「対象‐われわれ」に関する部分である。
対自である私(の対他存在)がそうであるように、「対象‐われわれ」もまた、他者にまなざされることによって、羞恥や恐怖のさなかにおいて、しかも『屈辱の経験、無能の経験に、対応』(p504)して形成される。
というのは、本来相克するものである私と他人(第二者)とをひとしなみにまなざす「第三者」の出現によって、私は他人(第二者)にまなざされている時以上の徹底した対象化、(対象としての)「われわれ」という(屈辱的な)範疇に従属させられているという、徹底した他有化の感覚に襲われるからである。
サルトルはこのことをとくに、工場労働者が抱く「階級意識」について説明している。

圧迫する階級の状況は、圧迫される階級に対して、これを注視し自己の自由によってこれを超越する不断の第三者という姿を呈する。(p507)

すなわち、圧迫される集団の成員は、単なる個人としてのかぎりにおいては、この集団の他の成員たちとの基本的な相克の内に拘束されている(たとえば、愛、憎悪、利害的対立、等々)にもかかわらず、自分の条件およびこの集団の他の成員たちの条件を、こちらの手から脱出する意識個体たち〔第三者〕によってまなざしを向けられているもの、考えられているものとして、とらえる。(中略)この第三者はそのまなざしによって、被圧迫階級という実在を生ぜしめる。(中略)いいかえれば、私は、私がそこに積分されているところの「われわれ」すなわち《階級》を、外部に、この第三者のまなざしの内に、発見する。私が、《われわれ》ということばを口にすることによってひき受けるのは、かかる集団的な他有化である。(p508〜509)

三者の出現とともに、私は、もろもろの事物から出発してとらえられたものとして、世界によってうちまかされた事物として、「われわれ」を体験する。(中略)被圧迫者の内における階級意識の出現は、「対象−われわれ」を羞恥においてひき受けることに対応する(p510)


このようなサルトルの言い分は、「事物」を生産する資本制下の工場労働者が持つ階級意識に関して、特に述べられているものである。
だがより広く考えても、羞恥や「まなざしによって対象化されることの屈辱」から切り離された「われわれ」の意識というものは、ここで述べられているような意識のリアリティーとは、まるで異質なものだろう。
サルトルが、もう少し後のところで論じている「主観−われわれ」とは、そういう、他者のまなざしによる羞恥や屈辱・恐怖の経験の切実さを欠いた、もうひとつの集団意識(陶酔)のことではないかと思う。


ところで、この「第三者」という言葉は、レヴィナスデリダに関する本を読んでいてもたびたび出てくる語で、どうも意味合いがよく分からないでいるものだが、その源流のひとつは、ここでのサルトルの議論にあるのかもしれない。
ここで言われている「第三者」とは、私と他人との(つまり対他存在としての私の)相克という切実な「状況」を、ざっくりと物象化し変様させてしまうような、まなざしの主のことである。