火を守ること

08年の夏、神戸の都賀川というところで、増水による悲惨な事故があり、小学生や幼い子どもを含む、五人の命が失われた。
http://www.mainichi.jp/area/hyogo/news/20081226ddlk28070334000c.html


「親水」という発想があるそうで、この川も川床や川岸がコンクリートで固められて、子どもたちはその岸辺に降りて遊んでいたのだが、予期せぬ増水で命を奪われた。緊急に難を逃げるための設備が整っていないことが批判されたと記憶する。


ところで、この川がコンクリートで固められる前、川岸で暮らしている野宿者の人たちが居たそうである。
「親水」工事のために、この人たちは追い立てられ、その後行方が分からなくなったという。
ぼくは、そうした経緯で工事が進められたことと、子どもや弱い人たちが犠牲になるような事故が発生したということには、共通した根があると思う。
実際に、安全のためということで行われた工事の結果として、急激な増水が起こり、人の命が失われたのである。
いったい「親水」というが、それは誰のためのものだろうか?


この「安全」や「親水」とは、川岸で雨露をしのいでいる人たちの命を軽視し、その居場所を奪うことで確立されるような事柄だということになる。
しかしでは、そこで「安全」や「親水」を享受する主体(「私」)とは、一体誰なのか、ということだ。
それはたしかに「市民」や「住民」であろうが、そうである「私」とは、居場所を奪われる人たちとの共感の能力(力能)を削除された、限定的な私のあり方に他ならないのではないだろうか?
その誰か分からない、もはや十全な私自身とは言えないはずの「私」の「安全」や「快適」や「健康」のために、「親水」の空間が形成されるのだが、そうした限定的な人間のあり方のために形成された空間であれば、そこから排除される命、もしくは軽視され犠牲になる可能性のある命が生じることは、むしろ必然的なことではないのか。
ここには、人間の生命に対する、基本的な配慮や感覚のようなものが欠けていると思えるのである。


われわれの社会の原理、その目的とされているものは、すでに根底から歪められ限定された人間の像に基づいているのではないか?
社会のあり方を考える場合、われわれは、そこであらかじめ誰かに対する排除が前提とされていないかということ、その前提のもとにわれわれの「心理」や「欲望」が構成されているのではないかということを、疑う必要がある。






重要な論文「暴力と形而上学」(『エクリチュールと差異』上巻所収)のなかで、ジャック・デリダは、エマニュエル・レヴィナスの倫理主義的な思想を、同一性と自同性とを混同している点において非難している。


つまり、レヴィナスは、「私」を告発する他者(レヴィナスは、ホロコーストの犠牲者たちのことを想起していると思われる)を、「私」とはまったく隔絶した地平にあって決して触れることの出来ないもの(積極的無限)のように語る。
たしかに、「私」と、私を告発する他者(死者であれ、生者であれ、未生のものであれ)とは同一性を有しているとは言えないだろう。
だが、「私」と他者とが同じ地平をまったく共有しないのであれば、そもそも「私」は、この他者の悲惨を理解することも感受することも想像することも出来ないだろう。
デリダが強調するのは、「私」と(迫害されている)他者とは、その立場や境遇の差異を、いわば共有している、ということである。
この共有される地平のことを、「自同性」という言葉で呼んでいる。


デリダがこの点を強調してレヴィナスの思想を批判したのは、他者(の悲惨)を「私」には触れることの出来ない「積極的無限」という形で絶対化するレヴィナスの語りが、その意図に反して犠牲者の神秘化を呼び寄せ、ある種の政治によって利用されることを警戒したからだろう。
デリダの意図は、そうした犠牲者(他者)の神秘化による政治から、他者の悲惨の体験を言わば奪還し、「私」の身体と地続きのものとして捉えようとするところにあったのだと思う。
それは、暫定的で永続的な正義の実現のための営みが目指される空間のなかに、他者の悲惨の体験を、「私」の生と共に位置づけようとすることである。


問題は、この「私」と他者とが、その差異において共有している地平、つまり自同性の地平が、どのようなものとして考えられているかだ。
それは、「他者が私にとって尊重されるべきものであるなら、逆に私も他者にとって尊重されるべきものである」といった対称的な認識に尽きるものではない。
たとえば、「空爆を受けているガザの市民の生命が尊重されるべきなら、イスラエルの一般市民の生命の保護も重要である」と言って、不正義が積み重ねられてきた歴史的な経緯や実状と、人口・国力・軍事力の圧倒的な非対称を隠蔽して大規模な殺戮行為を正当化する欺瞞に、その対称性の認識を転用していくことを許すような性質のものであるはずはないのだ。
http://0000000000.net/p-navi/info/news/200812310102.htm


またそれは、他者の悲惨が「私」には近づきえないもの(したがって、計量化も比較も出来ないもの)であるのをいいことに、「空爆で殺される数百人の人命も、ロケット攻撃で失われる一人のイスラエル人の人命も、その重さが比較できるはずはない」などと、その数百人のみならず、一人の人命に関しても失われる元凶を作り出してきた自分たちの罪科には頬かむりしながら、いわば「被暴力の計量不可能性」を根拠として、圧倒的な暴力の非対称性を言い逃れようとするような態度が、決して意味を持つことのない地平のはずである。
計量(言語化)不可能性を隠れ蓑にした、欺瞞的な沈黙(の影での虐殺)という「最悪の暴力」(デリダ)を打ち破るために、「数百人のパレスチナ人」と「一人のイスラエル人」との生命が、数値として比較対照されるという「最小の暴力」(デリダ)の行使をとおして切り開かれるはずの、暫定的正義の永続的な追求という営み、それを可能にするような地平のはずなのである。


「私は、他者の悲惨を自分の身体につながることとして感受する力能を持つ」ということ、おそらく、これがその地平の意味なのである。
いま、もっとも重視されるべきなのは、たぶん、この地平だ。
この地平の存在を根拠として、私は、いずれもかけがえのないものである他者と別の他者の命とを比較し、正義へと暫定的に接近していく条件をえる。
「私は、他者の悲惨を自分の身体につながることとして感受する力能を持つ」という、私と他者との自同性の地平だけが、この行為を可能にするのだ。
したがって、この地平の喪失(忘却、剥奪)は、われわれと他者とに関わる正義からの離反を、デリダの言う「最悪の暴力」の支配を意味するだろう。


いま、この時代のなかで、ぼくたちが直面しているのは、そういう危機であり、同時に、その危機を自覚する契機なのだ。
私自身が、悲惨のなかに置かれている他者の身体の一部でありうるということ、その痛切な感覚だけが、私が私であることの十分な回復を可能にする。
少なくとも、その可能性を垣間見させる。
私たちが、この感覚の残り火を手放さず、その火を守り育てていくことが、あらゆる希望の条件であろう。