一炬に焼かんことを欲せしむ

イスラエル:「一方的停戦」を宣言 ハマスも表明

http://mainichi.jp/select/today/news/20090119k0000m030063000c.html



記事を読むと、ハマスは、『イスラエル軍が撤退するまで1週間の猶予を与えるとし、即時停戦を発表。検問所の開放など封鎖解除をも要求した。』とある。
別の報道では、すでにイスラエル軍は一部が撤退をはじめたと伝えられており、このまま早期に完全な撤退と検問所の封鎖解除などが行われて、当面の戦闘の収束がはかられるなら、もちろん望ましいことである。
そして、さらに可能性が低いことではあるが、それがイスラエルの政策の見直しにつながり、ガザの人たちが置かれてきた暴力的な日常(難民であることと、占領と経済制裁に起因する)の終息をもたらすための条件が整っていくことこそが、求められねばならない。


だが、この最初の段階に限っても、事態はまったく不透明である。
大規模な攻撃を再開するかどうかの選択は、圧倒的な軍事力を占領下の土地に展開し、また包囲している(空軍力等を考えれば、こう表現することは誇張にはなるまい)イスラエルの手に握られている。
ハマスによる(しかし、誰がそれを断定するのか?)小規模な行動は、ただちにイスラエルによる大規模な軍事行動を正当化する口実となりうるのだ。


ハマスが提示している停戦の条件自体は、これ以外に条件のありようもないと思えるほど、まったく正当なものである。
その実現によって、まず当面の直接的暴力に終止符の打たれることを、とりあえず望まぬ者はないだろう。
だが、上に書いたように、その実現はうたがわしい。
なぜそうなのかといえば、イスラエルが自国の政策と行動をまったく改める意思がなく、(今回の侵攻の不当さはもとより)「占領」という根本的な暴力と力の不均衡が温存されたなかで、事態の収拾が図られようとしているからである。
苦しみつづけて来た者、虐殺と破壊の被害者たちの首を締め上げている手は、まだ力を緩めていないのである。
この(不正義と根本的暴力の継続という)状態のなかで、人々が何か理性的な、少なくとも対等な位置での対話にもとづいた状況の解決(改善)に向かっていけるとは、信じがたいのだ。


そもそもハマスの強硬な軍事路線と呼ばれるものも、占領というこの巨大な暴力的な事態のなかでこそ生じ、育まれたものだ。
この土地に、暴力と対立の種をまいたものは、ひとえにこの根本的暴力の支配と、その事実の暴力性への否認なのである。
その根本を変えないままに、根から生じた枝のようなもの(ハマスの暴力)だけを排除しようとしても、人々に加わる暴力の総量に変わりがあるはずはないではないか。
現実に、難民生活のなかでどれだけの人生が破壊され、占領と経済封鎖によって、またそのなかで日常的に行使されてきた占領者の暴力によって、どれだけの命が失われてきたことか。


仮に今回の停戦が(イスラエルの攻撃再開によって)実現しなかったとしても、その根本的な原因は、この占領の継続という、またその不正義の否認という、巨大な根本的暴力を行使している者にこそあることを、私たちは直視しなくてはならない。
それは、占領とその否認という事態から、今回イスラエルが行ったような虐殺的な大規模攻撃への意志というものも、なかば必然的に生じてきていると考えられるからでもある。





だがそれでも、日本のなかには、この根本的な暴力の存在を否認し、イスラエルが言っているような、ハマス側の攻撃にこそ「暴力の応酬」の原因を見ようとするかのような、さまざまな論調が見られる。
悪いのは(暴力の源は)、あくまで「壁の外」にいるあいつらだ、ということである。
そこには、この現実のなかで、圧倒的に奪われ、苦しめられ、殺されてきた人々の存在を認知したくないという願望、そうした人たちの存在を、理性と市民社会の壁の外部に排除し、そこに加えられるせん滅的な暴力を正当化することによって、出来ることなら消し去ってしまいたいという、われわれ自身の欲望があるかのようである。


それはまったく、レイシズムと呼ぶしかない心理であると、ぼくは思うが、今日この「壁の外」の存在とされているのは、もっぱらパレスチナの人たちであり、アラブの人たちであるように思える。
だが、日本の社会におけるこの心理の性格は、独自の根の深さを持っているようだ。
日露戦争の翌年、1906年、キリスト教徒でもあった徳富蘆花は、巡礼のため聖地エルサレムを訪れ、城外のユダヤ人市場の喧騒を目にして、次のように記したという。

不潔甚し。エルサレム城外の第一瞥は平凡に人を驚かしめ、エルサレム城内の瞥見は、人をして一炬(いっきょ)に焼かんことを欲せしむ。(徳富蘆花『順礼紀行』 小岸昭『離散するユダヤ人』より、孫引き)


エルサレム城外の市場に集まった離散のユダヤ人たち(近代シオニズム運動は、この直前の時期に未曾有の高揚を見せた)の姿は、大国ロシアを破って西洋列強の列に加わったばかりの日本人キリスト教徒の目に、文字通り目をそむけたい「壁の外」の存在に映ったのではないか。
それは、自分が参入した近代世界の外側の存在であると同時に、自分が捨て去り忘れようとしている自分自身の肉体、そのゆえに正視することをしたくない目障りな存在でもあったはずである。


ぼくは、ユダヤ人市場の群衆を見て、その「不潔さ」への嫌悪をあらわにし、「焼き尽くしてしまえばよい」という風に書きつける、その心理こそ、現在日本人の多く(そこに自分も含めている)がパレスチナの出来事に対して示す冷淡な(価値中立的な)態度の底にあるものであり、同時に実は、(佐藤優のような人の)イスラエル擁護論の根底にも流れているものだと思う。
ぼくは、日本の保守的な考えを持つ人の多くは、イスラエルという国のあり方への共感を持たざるをえなくなるはずだと思うのだが、その共感とは、ユダヤ人市場の光景を見て「焼き尽くしてしまえばよい」と思う憎悪と、矛盾しない心理なのである。
それはつまり、そこに投影された自分自身が否定した身体性、肉体性に対する、屈折した欲望、執着、つまり死への欲望のようなものなのだ。
われわれは、「近代」に入るために自分がうち捨てた身体を、それへの愛着に引き戻されかねないがゆえに、その喪失を自覚することの痛みの激しさを直感しているがゆえに、「焼き尽くして」しまいたいのだ。
これが、われわれが、「壁の外」に生きる「不潔な」他者に差し向ける攻撃性の、大きな要素である。
明治以来、われわれの社会は、この願望にとりつかれて来たのだ。
そして、身体を焼き尽くしてしまった後の、うつろな価値中立的な他者の存在に強迫的にコミットする(客観主義を装った論評)ことで、この矛盾と自己喪失を埋めようとする。


この死への欲望(それこそを、シニシズムと呼ぶべきだろうか?)の強さを、われわれはイスラエルの社会と、たぶん共有している。
今のイスラエルの状況が、われわれに示しているのは、こうしたシニシズムに基づく不正義と暴力性への否認が、ある政治的な条件のもとに置かれるなら、他者へのジェノサイド的な暴力の行使へと、容易にまた不可避的に結びつくものであるという、真実ではないだろうか?
だからこの問題は、そうした政治的意味でも、「他人の問題」ではありえないと、ぼくは思う。





以上のように書いた上で、きのうのエントリーに付けられた下のブクマコメントを、ぼくは自分への非難でもあると受けとめよう。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20090118/p1

あの悲惨を、国内対立党派のバッシングに援用する事しか頭にないウヨクとサヨクどもは、まとめてGAZA逝けよ糞が。


書いてきたような、レイシズムシニシズムを突破できるものがあるとすれば、その糸口は、こうした怒りにこそあるだろう。
他ならぬこのぼくのなかにも、シニシズムは、たしかにある。
それを認めたうえでなお、以上のような(分析のような)思いを、ここに書き留めておく。