『人はなぜ戦争をするのか』(フロイト)

人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス (光文社古典新訳文庫)

人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス (光文社古典新訳文庫)


本書所収の文のうち、第一次大戦中の1915年に書かれた「戦争と死に関する時評」から。


フロイトは、「汝殺すなかれ」という道徳的な掟や、殺人や戦争を禁じるような文化的な仕組みが、原始人が自分の「愛する者」の死に直面したときに感じた「アンビバレントな葛藤」に起因する、一種の神経症のようなものであると述べている。

わたしたちにとってこれらの愛する人は、内的な所有物であり、みずからの自我の一部である。しかし同時にある意味では見知らぬ人であり、ときには敵でもある。もっとも濃やかで親密な愛情関係のうちにも、ごく稀な状況を例外として、わずかな敵意がこびりついていて、無意識のうちに相手の死を望む動きをかき立てるのである。このアンビヴァレントな葛藤から、原始人においては霊魂の理論と道徳的な掟が生れたのであるが、現代ではそこから生れるのは神経症である。そしてこの神経症は、正常な心的な生にたいする深い洞察をもたらすことができるのである。(p93)


フロイトは、「文化」と呼ばれるべきこの「神経症」を肯定しているのだが、その語り口は、あまりに諦念にみちたもののようにも思えるので、真意がたいへん分かりにくいという印象を読む者に与えるのである。
このエッセイでフロイトが言っている大事なことは、こうだと思う。
われわれは、「私の死」や「他人(もしくは敵)の死」について考えたり語ったりするが、それは抽象的に死を語っているに過ぎない。
無論、フロイトも自分の死を恐れたり不安を感じたりしただろうが、フロイトが強調したのは、無意識は否定的なものを認めないので、無意識のレベルでは、人は自分が死ぬ存在であることを否認しているということである。つまりそれは、「現実的」なものではない。
また、他人、つまり見知らぬ人の死について、われわれはそれを見て喜んだり、同情したり、無関心であったりするだろうが、いずれにせよ、死という出来事を現実として体験しているわけではない。
では、われわれは死という出来事を現実的に体験することがないのだろうか。
そうではない。

それは現代のわたしたちと同じように、原始人が身内の人の死を迎えたとき、妻、わが子、友人のように、愛する人を喪ったときである。(p80)


この「身内の人」、「愛する者」の死だけが、人に、死とは何であるかということ、また自分もまた死ぬ存在であるということを、現実として知らしめたのである。
だが、ここが重要なところだが、ぼくの考えでは、この表現を共同体主義的、あるいは家族主義的にとってはならない。
死を現実として体験させる他人は、誰でも「愛する人」や「身内の人」である、というべきである。
そう考えることで、はじめに引いた文章の意味が生きてくる。
つまり、その死によって、われわれは身近な人が同時に「見知らぬ人」でもあることを体験するのだが、それはわれわれの生と関係の現実性が、目の前の人の死という出来事の体験を通じて立ち現われているということである。
フロイトは、この体験される「関係の現実性」に着目し、それこそがわれわれの生の基盤をなすということ、倫理や道徳は、そこからだけ生じるということを語ろうとしたのである。
彼の言う「アンビヴァレントな葛藤」とは、共同性や日常性の枠を揺るがすような、その体験の強さを示す言葉なのだと思う。


このようにして生じたのであろう「汝殺すなかれ」という掟に関して、次のようにフロイトは書く。

この敵を殺すなという掟の意味は、現代の文明人にはもはや感じとれなくなっている。今次の戦争の荒々しい戦闘が終結したおりには、勝ち誇る兵士たちは喜び勇んで故郷に、妻と子供たちの待つところに帰還したのだった。そしてみずからの手で間近に殺した敵のことにも、遠隔操作による兵器で殺した敵のことにも、まったく気に掛けることも、煩わされることもないのである。
 現代において、かつての原始人に近い暮らしをしながら生存している野性の民族が、西洋の文化的な影響をうけないかぎり、これとは対照的な態度を示しているのは注目すべきことである。こうした民族は、オーストラリアのアボリジニーでも、[アフリカの]ブッシュマンでも、[南アメリカの]フエゴ島の住民でも、人を殺して平然としていることはない。戦いで勝利を収めて帰還しても、長い時間をかけて面倒な贖罪の儀式をして罪滅ぼしをすませないかぎり、村に足を踏みいれることも、妻に手を触れることもできないのである。
 もちろんこれは迷信のせいであり、野性の民族はまだ殺戮した死者の霊魂による復讐を恐れているのだと説明するのは簡単なことである。しかし殺戮された敵の霊魂とは、殺した者が自分の犯した流血の行為にたいする疚しき良心の表現にほかならない。この迷信の背後には、西洋の文化的な人間がすでに失ってしまった繊細な道徳的な感情が潜んでいるのである。(p85〜86)


もちろん、これは文明の発達に対するペシミスティックな言明ではない。
フロイトは、大戦の時代である現代を、文化が退行した時代であるととらえ、見かけや意識のレベルに反して、現代の人間が決して本当には文化的ではないという真実を、戦争が明らかにしまた「利用」したのだと書いているが、同時にこうも書く。

いま人々が文化的に行動していないからといって、そうした人々には文化的な適性がないと考える必要はないのである。そして平和な時代には、人々の欲動が改造されて、ふたたび優れたものとなることを期待してもよいのである。(p67)


フロイトは、決して人間を信頼しているとは書かない。
ただ彼が思うとおりの人間の無意識のあり方を述べていく(たしかに、その筆致はときに絶望的でさえある)のだが、あえて言えば、その書き方自体が非明示的に「信頼」や「慈愛」のようなものを含んでいる。
だから、非常に有名になった次の一節においても、示されていることは、人間(われわれ)が、それでも変わりうるのだということ、そして変わりうると信じるべきであるということなのだと思う。

これまでの経験から、成人した後に「善」人に変わるための明確な条件が、幼年期に強い「悪」の欲動の動きが存在していることであることが明らかになっているのは興味深い。幼年期に激しいエゴイストであった人が、成人してからはみずからを犠牲にして人々を手助けする市民になりうるのである。強い同情心をもつ人、人道主義者、動物愛護家が、小さい頃にはサディストであり、動物をいじめる癖のある子供だったことも多いのである。(p56〜57)


ときに文化の仕組みへの諦めや苛立ちの気持ちを隠さない彼の文章、とくに文明論はたしかに両義的だが、そこにこめられているポジティブな要素は、見落とされてはならないだろう。