ザンパノ

こないだ、庄野潤三の小説を読んでたら、登場人物たちがフェリーニの『道』の二人の主人公の姿を仮装する場面があった。それで、アンソニー・クイーンの演じたあの男の名が「ザンパノ」だったことを思い出した。

ザンパノというのは、自分の妻のジェルソミーナを雪のふる日、道ばたに置き去りにしたまま逃げ出した男である。そうして、最後にジェルソミーナが死んだことを人づてに聞くと、夜の浜べで砂の上をころがりまわって泣く。(「絵合せ講談社文芸文庫絵合せ』p271)

ああそうだった、と思った。
そして、あの浜辺での号泣の意味が、ここを読んだときに、はじめて腑に落ちたと感じた。ザンパノは、ジェルソミーナが死んでしまったことを悲しんで泣いていたというよりも、自分が「置き去りにして逃げ出した」とき、とりかえしのつかないことをしてしまっていたのだということをこの時にはじめて自覚し、そのことの痛みに突き動かされて泣いたのではないだろうか。
つまりそれは、「体験の不在」といったようなことで、その「体験」というなかにジェルソミーナという、彼にとってもっともかけがえのない存在だった人の、その「かけがえのなさ」というものが含まれていた。ということは、「置き去りに」するに至ったその過程で、すでにその「かけがえのない」存在は彼から失われており、置き去りにしたことによって、その喪失は決定的となった。
ザンパノは、あの夜の浜辺で、その過去における彼自身の「人生の喪失」の現在性を突如として自覚し、打ち震えながら号泣するのだ。


ザンパノは、「われわれ」みんなではないか、とその時思った。


だがそのことに、あのアンソニー・クイーンの忘れがたい号泣の意味するところに、ぼくはその時まで気がつかなかったのだ。
そのことが、なにか不思議である。


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