紅葉に思う(笑)

関西は本格的な紅葉の時期をむかえていて、近所の公園の木々も色づいた葉がすでに散り始めている。
都市部の公園や街路樹の樹木というのは、大きくなりすぎないように植えられる前から根っこが短く作られているそうである。つまり、人間の都合にあわせて加工されてるわけだ。
だがそういう事情を知っていても、木々の紅葉にはやはり心を打たれるものがある。


それは言葉にすれば、「加工されているにも関わらず、生命の発露がそこにある」と感じているのではないかと思う。ここで「自然のなかのものとは異なる特異な美や力をそこに感じる」というふうに言ってしまうと、美学的な転倒のようになるが、そういうことではなくて、そこに自然のなかのものと(ある部分では)同質な「力」を感じているというのは事実ではないかと思うのだ。
われわれは、自然の木々の紅葉や若葉を見ても、そこに生命の力のようなものを感じ、人工的な力が加えられていると知っていても、やはり同様のものを感じることがある。
とすると、ここで感じられている力は、「自然」という観念を越えた何かではないだろうか。


ぼくは、きのうのエントリーで、「ありのまま」の(存在、生の)尊重ということを書いたが、それは「自然」と「人工」という対立ということとは別のことかもしれない。
だが、そもそもわれわれは「自然」という観念を、どういうふうに捉えているのだろう。そう考えはじめるとたいへんなことになりそうだが、上の紅葉の例に沿って、もう少し考えてみよう。


ぼくが自然の風景や人間の姿、制作物などに力や美を直観するのは、人工的な作為であれ、苛酷なものとしての「自然」であれ、なにか生(生命?)の発現とか広がりを阻むような抵抗(圧力)が加えられていて、そういう条件のなかで、それに対抗するものとして生命の力みたいなものがそこに現れてると感じられた場合であろう。
横塚晃一の場合であれば、この「抵抗(圧力)」である条件とは、とくにこの社会のあり方を指す。また誰にとっても、肉体や心の存在そのものは、生の発現を支える(可能にする)ものでもありうるし、それを阻む条件ともなりうるだろう*1
ともかく、ぼくが感じる(生にまつわる)「力」や「美」というものは、この「抵抗(圧力)」であるような条件の存在と、そしてそれに抗う生の「力」というものと結びついているという感じがする*2


では、そうしたぼくが直観する生の「力」や「美」と、ぼくが「かけがえのないもの」とも捉えたいと考える「ありのまま」ということとは、どう結びつくのか。
「自然」であれ、人工的な環境であれ、生命にとって外部として立ちあらわれてくるようなそれらの条件と、生命それ自体との関わり、葛藤というもののなかからこそ、「かけがえのないもの」は生じてくると言えないだろうか。
「ありのまま」ということは、それら外部の条件と不可分なものであるはずである。
逆に言えば、それら外部の条件をまったく捨象したときに見出される「ありのまま」や「自由」が、ほんとうに私にとっての「ありのまま」であり「かけがえのないもの」であるかどうかは、疑わしい。
ここでは、何が私の生にとっての「ありのまま」であるかということは、私の生が置かれている外部の条件と切り離して定めることはできないはずだ。抑圧や侵害として働くような外部の力との緊張した関わりのなかで、はじめて私の「ありのまま」は見出されてくる。そうとも言えるかもしれない。
そのようにして見出される(生み出される)ものこそが、私の生にとっての「かけがえのないもの」であると言えないだろうか。

*1:『母よ! 殺すな』では、とくに精神的な面での葛藤に、心を打たれる箇所が多い。

*2:ただ、この「力」は、必ず外に現れる、あるいは動的なものであるとは限らない