海見

毎年行く、清荒神という北摂では有名な寺社、寺と神社が合体している珍しいところなのだが、今年も初詣に行った。


阪急の駅を出るとすぐ、踏切を渡って右に行く参道と、まっすぐに行く迂回路とで交通規制をしている。例年、参道は参詣を終えた帰りの客の専用となっていて、参詣に行く客は迂回路を登るのが普通である。
それがスピーカーを持ったガードマン風の男性が、大声で「右に曲がって参道を登って参詣してください」と叫んでいる。「あまり人出も多くないので、今は行きの客にも参道を使わせるのかな」と思って行きかけたが、途中で追い返されたらしい人たちが参道を下ってきて迂回路を登り始めるのと出くわす。
やはり例年通り迂回路を登らんといかんのか?どっちなんだ?
付近には警官も数人配置されてて、状況を見ると、迂回路に誘導しなければいけないはずなのだが、ガードマン風の男性が、あまりにも自信満々で「右に曲がって参道を登れ」とくり返してるので、それに逆らえず、小声で「どうなってるんでしょうね?」などと言い合いながら、曖昧な誘導を行うばかりである。
どう考えてもガードマン風の男性の誘導は間違ってるのだが、あまりに自信をもった断言なので、警察を含めて誰も逆らうことが出来ず、現場の混乱は深まるばかりであった。
仕方ないので、人の流れについて、例年通り迂回路の山道を登っていく。


この道は、延々と続く上り坂を、見ず知らずの大勢の人たちがお参りのために登っていく雰囲気が独特で、それが近世から近代にかけての伊勢参りのような(ネーション的な)ものというより、熊野詣とかスペインの山中の修道院への巡礼を思わせる、中世的な感じの強いところが味である。
山頂の清荒神清澄寺の境内には、インドから伝来したという火や竈の神様(それが荒神ですね)の祀られている一角があり、ここは水商売の神様としても有名である。
参詣では、あまり大きな願い事はせず、身辺のことにとどめる。神社というのは、間違っても、天下国家とか、グローバルなことを祈願するような場所ではない(帰り際、さっきの混乱してた踏切のところを見たら、バリケードみたいなもので封鎖してあった。収拾がつかなくなったのかも知れない。)。


お参りを終えた後、昨夜NHKで見た談志の「芝浜」のなかの、主人公のグウタラな男が朝の浜辺に来てキセルに火をつける場面を見ながら、無性に海辺に行きたくなったことを思い出し、阪急の今津という駅まで電車を乗り継いで行った。
降りたことのない駅だったが、海岸があると思われる方角へがむしゃらに歩いていく。
ほどなくして、今津灯台という、江戸の末ぐらいからある灯台の跡があるところにたどり着いた。その傍らに、非常に小さな砂浜が残されており、小さな波が打ち寄せている。
深い入り江のようになっていて、向こうで海とつながってるのだろうが、以前にはその海を見渡せたのだろうが、今はおおかた埋め立てられ、高速道も走っていて、瀬戸内海を見ることは出来ない。
それでも、波が寄せていることを見ると、たしかに外洋とつながっていて、ここも海の一部ではあり、この小さな砂浜も海浜ではあるのだろう。
海原も水平線も見渡せなくとも、海は海、浜辺は浜辺である。
なにか啓示を得たような気がして、雲間から漏れる夕方の陽光を見ながらしばらくたたずんだ。


帰り際、念入りに探したのだが、財布は落ちてなかった。