かけがえのない日常と、力の支配

予想されたことだが、またぞろ各地で朝鮮学校に通う子どもたちを待ち伏せして面罵を浴びせたり、学校に脅迫まがいのことを言ってきたりする輩が出てきてるらしい。


砲撃で破壊された島の映像を見たり、ニュースに接して、誰でも抱く思いは、かけがえのない日常が突然破壊されてしまう悲惨さが広がるのを阻止しなくてはいけないということのはずなのに*1、その時に、自分たち自身が子どもたちを攻撃するという暴力を振るう人間の行動は、まったく矛盾してると思うし、恐ろしいというしかない。この人たちは、戦場を自分個人の日常の中に持ち込みたいのだろうか?(このことについては、後ほどもう一度ふれると思う。)
でもこういうことも、「一部の心無い人が」という風に限定的に考えることも、これまでは一応出来たけれども、政府があんな(朝鮮高校の無償化手続きの中止という)発表をした今となっては、「日本社会の一部のこと」という風には思えなくなってしまった。実際に被害にあってる(またあう恐れのある)人たちにとっては、どんなに怖く、腹立たしい状況だろう。


ここで、こうした日本側の愚かな差別的・暴力的反応と、どこまでつなげて論じてよいのか分からないが、延坪島で起きた出来事についての感想を書いておくべきだろう。


今回の砲撃については、朝鮮側は「挑発行為」に対する反撃であると言っている。この砲撃が、延坪島にある韓国軍の拠点を攻撃目標にしたものだったらしいことは、韓国軍も認めている。
また、アメリカと韓国が、朝鮮や中国からの強い反対にも関わらず、南北の境界線近くでの大規模な合同軍事演習を強行したことが大きな背景であったろうことも推測される。
そのへんの詳しい実情、砲撃の真意が何であったかは分からない。
だが、その背景にどんな大状況や事情があったとしても、突然降り注いできた砲火によって、家を焼かれ、身内の人間を殺傷されることは、被害を受けた当事者たちにとって、絶対にあってはならない悲劇である。
このことに異論のある人はいないだろう。
その島がいわば「基地の島」であったとしても、命と日常の重さは同じだ(「基地の島」にされることで、すでに命や日常は危機にさらされているのだが。)。
この出来事の重さ、恐ろしさを直視することなしには、何も語れない。


そして、そうしたことを引き起こすのは、いつでも(とどのつまりは)国家であり、その力が人々に強いてくる非人間的な感覚と思考だ。
その意味でだけ、朝鮮半島で今回生じた(また、今回あからさまになったとも言える)暴力的な状況と、日本政府や日本の社会による差別や迫害とは、通じ合っている。両者は、根を同じくしているのだ。


日常生活をしている場所の近くに砲弾を撃ち込めば、必ず「誤爆」が発生するだろうということを考慮できないのは、国家と軍事によってもたらされる、非人間的な感覚と思考の帰結であろう(イラクやアフガンにおける米軍の攻撃で、嫌というほど見せられてきたものである。)。
だが同様に、圧倒的な軍事力を持つ側が威圧的な軍事演習を強行すれば、追い詰められた側が、そうした人間的思慮を欠いた行動に出る可能性が当然あることを考えられないのも(そのことをむしろ目論むのなら、なおさら)、国家と軍事の力が、敵視や差別を人々に強いたことの表れだ。
そこで私たちが今考えるべきなのは、東アジアにおいて、とりわけ朝鮮半島をめぐって、この「国家と軍事の力」が、現実にはどのように作用しているのか(きたのか)、ということである。
人間の思考と行動を変えてしまうこの大きな力が、現実にはどんな形でこの半島にのしかかっているのかを、今回の被害者の身に起きた出来事の悲惨さを薄めるのでも、実際に攻撃を行った者の責任を免じるのでもなく*2、見極める責任が私たちにはある。
なぜなら、この力の形は、加害的な意味でも被害的な意味でも、私たち自身に関わるものであり、内面化されているとさえ言えるものだからだ。


この力の形を考える糸口は、やはり米韓がいま強行しようとしている軍事演習にある。
それは孤立した小国の眼前で行われる圧倒的な軍事力の誇示である*3
自分たちを包囲している勢力に間近で軍事演習をされれば、やはり恐ろしいだろう。
「それは体制が感じる威圧感であって、民衆の心理とは別だ」という人があるかもしれないが、その二つを区別できないというより、そもそも演習してる側は「民衆は攻撃せず、体制だけを攻撃しよう」などと区別して戦略を練るであろうか?
ベトナムやアフガン、イラン、そしてもちろん朝鮮半島で(広島・長崎や東京・沖縄とは言わずとも)、アメリカが行ってきたことを振り返れば、今回をはるかに上回る「誤爆」や「無差別殺戮」が行われないと、想像するほうが無理ではないか?
そして、外国の軍隊の侵攻(韓国はいわゆる「外国」にはあたらないだろうが)に抵抗する一般人は、「民衆」か「体制」の一員か?それを決めるのは、強者に決まっているではないか。


この強者の論理、大国の論理が、圧倒的にこの半島の近現代を支配してきたものであり、現在も続いているものだ。
朝鮮半島の人々に、国家的な暴力による惨禍を強いる歪んだ力は、この大国による「強者の論理」の支配からこそ生じている。もちろんそれこそが、私たちが内面化している「力の形」でもある。
朝鮮半島の人々が、どれほどの規模と強度で、この論理の圧迫のもとにさらされてきたか、その一端を、下のような考察によって想像して欲しい。
http://mowgli.dreamlog.jp/archives/4981237.html



「北」「南」ということではなく、この地域の人々は、植民地時代はもとより、「解放」後に限っても、こうした圧迫と暴力に、あからさまにさらされる中で暮らしてきたのだ*4
なぜあの島に韓国の軍事拠点が置かれなければならなかったか。
それがなければ、今回の砲撃は行われなかっただろう。
延坪島の光景が示しているのは、あの地域の人々(そして半島に住む人々の全て)が、実は継続する暴力の上に生きていた、という事実である。
攻撃は、もちろんひどい。だが本当はそれ以上に、そこに攻撃が仕掛けられるような日常があったということこそが暴力的な現実だ。
その現実は、常に朝鮮半島を覆っていたし、今も覆っている。
国際的な力学(というより暴力)のなかで、民衆に強いられた分断の固定化が、延坪島の、ひいては朝鮮半島全体の、人々の日常を危機の上に置いたのである。
だから我々が考えるべきことは、この恒常的な圧迫と暴力を、朝鮮半島から取り除くということである*5
それは大国の思惑と支配から、この地域の人々を解放するということと同義だ。
我々自身の問題としていえば、(日本の軍事力強化はもとより)日米の軍事同盟の強化が、それとはまったく逆のベクトルを持つ行為であることは明らかだろう。



とはいえ、すでに述べたように、実際に砲撃を受け、家を失ったり、肉親を失った人たちの悲劇は、どんな一般的な状況整理によっても、回収されたり癒されるような事柄ではないだろう。
それは、絶対的な傷として残るだろう。
だが私たちは、こうした傷を残す暴力(とりわけ、私たちの社会の内部におけるそれ)に対して抗議し反対すると共に、その責任が誰にあるのかを、根本的に追及しなくてはならない。
いい変えれば、人々に圧迫と暴力をもたらす歪んだ支配的な力、「強者の論理」(それは私たちが作り出し容認してきたものでもある)そのものを取り除く努力をしなくてはいけない。
この努力、それこそが「平和」と呼ばれるものだ。


「平和」とは、ある状態を指す言葉ではない。
ここで私が安心して暮らしていても、それと引き換えに誰かが不安や恐怖や悲惨さのなかに居るのなら、それは「平和」ではなく、またそもそも本当の安心をもたらすものでもない。
日常はかけがえのないものだが、その「かけがえのなさ」は、誰の日常についても保障されていなくてはならない。(あらかじめ他者を「日常」から排除した上で)他者の日常の支配や抑圧の上に、まして破壊の上に成り立つ「平和」は、真の「平和」ではない。
朝鮮半島の人々ばかりではなく、本当は我々の日常も、潜在的な「戦争」の上に、強者(我々)が他者を排除しあるいは収奪する仕組みの上に成り立っているのだ。その論理は深いところで、私たちの行為や思考を支配している。
そして、自分が間接的に収奪しているであろう人々の不安や悲惨さは、私たち自身の日常を、悪夢のように不安なものにするのだ。そこに様々な暗い情動の芽が生じる。
この、他者に不安や悲惨さを強い、私たち自身を不安と抑圧のなかに閉じ込める力への抗い、その努力の継続が、本当の「平和」なのだ。
それだけが、朝の光のような暖かさで、私たちを包むはずだ。


今日本の政府や国会のやっていることが、この「平和」とはまるで逆行するものであることは明らかだ。
それはただ「敵」を明確化し、「差別」を強化するだけの行為なのだから。
そして日本は再び、朝鮮の人々の全てを、大きな力の支配のもとに置き、その上に自分たちの国を建て直すことを目論んでいる。
それはもちろん、私たちにとっても忌まわしい未来である。
排除と暴力によって他者を収奪するような国家が、自国民にとっても望ましいものであるわけがない。それは人々を、恐怖と不安に満ちた潜在的な戦争状態に置くことを通して、やがて本物の戦争(殺戮)へと向かわせるような権力のあり方なのだ。


そう考えると、朝鮮学校の子どもたちに嫌がらせをしたり、排外主義的な言動・行動を繰り返す人たちの存在は、決して国家や社会の例外的な一部ではなく、戦前は植民地宗主国として、また戦後はアメリカの同盟国という立場を交えて、一貫して朝鮮半島の人々に「強者の論理」を押し付ける立場に立ってきた、日本という国のあり方を露骨にあらわしたもののように思えてくる。
それは日本の排外主義(特にアジア蔑視)の、少なくとも一面だろう。


今や私たちは、「平和」の側に立って(つまり戦争や差別への反対の側に立って)、自らが属する国家と社会のあり方に敵対するべきところに来ている。
だがそれはまた、私たちが、私たちのなかの「強者の論理」から自らを解き放って生きていく、ということでもある。
朝鮮半島や全ての抑圧された場所の人々の解放と手を携えることは、私たち自身の解放と、別のことではないのである。

*1:もっとも、日本の政治家やメディアの対応を見ていると、そう思っている日本人がどれだけ居るのか、はなはだ心もとないが。

*2:ただ、そのことに関連して、韓国軍の反撃による朝鮮側の被害について、日本の報道では、その可能性にさえ言及されないのは、異様なことだ。ただちに強力な反撃が行われたことは、韓国軍も認めている。朝鮮側の発表がないとはいっても、「被害の実情は不明です」のひと言があってよいではないか。日本のメディアにとって、そこは生きた人間が住んでいない場所なのか?

*3:アメリカは韓国を軍事的に従属させているといえるが、朝鮮と中国との関係は、それとはまったく違う。朝鮮民主主義人民共和国は、軍事的には孤立して、アメリカの脅威に直面している。私は朝鮮という国の歴史よりも、韓国の民主化運動こそを最も尊敬しているし、朝鮮民主主義人民共和国という国の自立ということについてもどう考えていいのか分からないところがある(というのは、国の自立が何よりも尊いものかどうか疑問があるからだ)が、この国のあり方をどう考えるかは別にして、この地域を100年以上前から覆ってきた大国の力の影響を、決して軽視してはならないと思う。

*4:もちろん分断それ自体が暴力であり、さかのぼれば植民地支配や、それが尾を引いた混乱の中で他国に暮らさざるを得なくなり、近しい人と土地から離れて、差別と困窮のなかで生きることを余儀なくされた人々の生も、そうした歴史の不幸な刻印を帯びている。そして今日本政府は(アメリカと結びながら)、その傷を癒すどころか、苦しみを新たにさせて永続化する方向に、再び本格的に乗り出そうとしているのだ。

*5:朝鮮半島の内部では、そのための努力は、金大中盧武鉉両政権時に、積み上げられつつあったのだろう。