『カンバセイション・ピース』

カンバセイション・ピース (新潮文庫)

カンバセイション・ピース (新潮文庫)


この小説では、親戚の家だった古い木造家屋で暮らす「私」は、そこで送った自分の幼年期や若い日々のことを回想しながら、人間とその生活する周囲の環境、人間と身体のまわりの世界との関係について、執拗に考えをめぐらせていくのだが、その現実的な理由は、数年前に死んだ飼い猫の「チャーちゃん」の死への悲しみが、「私」にとってあまりに深く消すことの出来ないものだったことである。
「私」のすべての思索は、この喪失の悲しみを、忘却や置き換えや風化によるのではなく、正面から乗り越えようとする意志に由来しているといっていいだろう。
そのことが、人間と世界との関わりのあり方についての、おそろしくややこしい思索に結びつかざるをえないのは、おおむね次のような理由からだ。

苦しみや悲しみや歓びは一人一人の中で解消されたり解消されそびれたりする心理学的な対象として片づけられる現象なのではなくて、生き物をこの世界と結びつける根源的な力のはずで、それがあるから生き物同士も孤立していない。(p381)

チャーちゃんはただ私や妻の記憶の中に生きつづけているというようなことではなくて、もっと強く実在する感じがなければならなくて、そうでないと死ぬ前の一ヶ月間の白血病による死の苦しみも消えないし、もっと続いていたはずの命が四年数ヶ月で中断された悲しみも消えない。私の気持ちの中で消えるのではなく、チャーちゃん自身としてそれが消えたということを私が見るか、見ないまでも強く感じることができなければならない。(p424)

「悲しいことは悲しいことなんだよ、やっぱり」と私は言った。「寒いと感じる日が寒い日であるように、悲しいから悲しいと思うんで、感じる側の心の次元で閉じてる問題じゃなくて、世界で確かに起こってることなんだよ」(p452)


ここでは、悲しみや歓びといった生活の上で受ける感情が、世界にとって付随的なものではなくて、世界のあり方の根本であるということ、そういう世界のあり方こそが生き物である人間にとっては本来のものなのだという考え方がしめされている。
これは、生死や世界に起きる現象についての普通の考え方からすると、根本的な転倒のように思えるが、この転倒は、「チャーちゃん」の死を風化させたくも諦めのなかに閉じ込めてしまいたくもないという、「私」の強く頑なな姿勢、すなわち生き物としての「抵抗」の姿勢によって要請され突き詰められていくのだ。


この長大な小説の、全篇にわたって書かれている描写や叙述の文章の、圧倒的なほどの強度と完成度は、そこに由来するとかんがえられるだろう。
とくに、作品の中ほどに出てくる、「私」が子どもの頃に登った庭の木々一本一本の特徴を、木登りしたときの身体の記憶から思い起こして書き記していくところや、ホースで水撒きをしている庭のさまざまな植物の姿を、細密画のような筆致で語りあげていく部分などでは、その書き言葉の力は呪術的なものさえ感じさせる。
言葉によって、世界と自分の生との関係を作り直すという、書くことの一番根本的な欲望に、この小説は触れているといえるのかもしれない。
ぼくがもっとも感銘を受けた文章、それはこの小説のもっとも大きなポイントになる箇所ではないかと思うのだが、それは熱を出して寝込んでいる「私」が、ぼんやりした意識のなかで他の部屋から聞こえてくる話し声に耳を傾けながらめぐらせる、次のような回想と想念の描写だ。

私は聞いているうちに子どもの頃に襖を距てた部屋から大人が話している抑揚だけが聞こえていたのを思い出した。それを私は布団の中で薄気味悪さのような違和感と一緒に聞いていた。
 襖に距てられた向こうにいる母や伯母が私の知らない姿に変わっているとかそういう空想をしていたわけではなくて、私は子どもで、知っていることはあまりに少ないのだから、母や伯母がする話は名前や場所が聞き取れなくても私の知らない人たちの話と決まっていて、「ほら――だったじゃんけえ」「そうだったかねえ」「知らなかったよお」と、たまに聞き取れる言葉が、記憶の不確かさというか過去の冥(くら)さを音楽がそれを喚起するように私に感じさせて、それが私がこの世界に生まれる前の時間ということでもあったのだが、そうしながら感じていた薄気味悪さは怪談のようなものと全然違っていて、薄気味悪さがそのまま懐かしさでもあるような薄気味悪さであり声の響きだった。
 子どもが自分が生まれる前からこの世界があったということを理解しているというのは大人からみれば説明のつきにくいことだけれど、子どもはお母さんとお父さんにお母さんとお父さんがいて、そのお母さんとお父さんにもまたお母さんとお父さんがいて・・・・という連なりも簡単に受け入れることができる。
 大人は大人になる過程で、自分の目で確かめられることや自分の目の延長か代行のような科学的な器具によって確認できることを論証の根拠におくことを繰り返し教えられて、理解することを確認できることだと思っているけれど、理解するというのはそんな手続きを必要としない、そのまま受け入れることなんじゃないか。(p427〜428)


読みながら、「ああ、たしかにそうだった」とかすかに自分の幼い日の気持ちも思い出せるような気がする凄い文章だが、たぶんこのあたりで、「私」はずっと追い求めてきたひとつの「眼差しの転換」への鍵をつかむ。
それは、「家(家屋)」という生活の場、空間の眼差しによって、そこに生きる人間と動物、そして死者たちの存在を見つめる、ということなのだが、大事なのは、この「生活の場」が他者との共同性によって成り立っているという点である。
「私」がかつて暮らし、今も暮らしているこの古い日本家屋は、いまも昔も、この家の家族だけでなく、親戚や同郷の他人や友人たちや、そして犬や猫やさまざまな動植物や、埋葬された動物たちの骨、そして死んでいった人間や動物たちの匂いや動作の記憶によっても満たされてきた。そういう他者に対して開くべき共同的な生の場として、この「家」が描かれているということが、おそらく重要なのだ。


それは、「私」の個人的な事柄としては、現在ここで多くの時間を共有している、「若者」たちとの関係のあり方にあらわれている。
この若者たちは、中年である「私」にとって、ずっと一種の「他者」として描かれていることが重要である。その違和の感じは、たとえば「怪談の世代」という言葉によって示される。

「だからね。怪談の世代はお話と現実の区別がおれたちと違ってるっていうかね。現実がうまくお話みたいに切り取られたときに、ワッと反応するっていうかね。まあとにかく、本当の話だとはどこかで感じていないんだと思うんだよ」
 「『本当の話という作り話』みたいなもんか」
 と私が言うと、浩介は相変わらず笑いながら「いちいち自分の言葉に置き換えないと納得できないところが、もう完全にオヤジだよね」と言った。それをいちいち否定する気持ちもなくて、「おかしなもんだな」と私は言った。
 「こうして同じひとつの空間にいるのに、おれと若者たちとで見ているものや感じているものが違うなんて、別々の現実に住んでるみたいじゃないか。
 でももっと深い次元まで掘り下げていったら、結局同じ現実に生きているはずなんだけどな」
 「『深い次元』って、何?」(p182〜183)


「深い次元」とは、他者との生活の場の共有が可能になるような眼差しの獲得だといってもいいだろう。
それは、「若者」という他者に対してずっと閉ざされ続けてきた「私」の自己が、静かに開かれていくということ、関係におけるある意味での位置の対等さのようなものを、生の名において「私」が取り戻すということと、たぶん重なっている。
小説の最後では、語りの視点は、まさにこの古い木造の家屋そのものになっているといえるのだが、その「自己」ならざる視点の獲得によって中年をむかえている「私」は、はじめて「自己」の孤立した位置から脱して、この場を共にするさまざまな他者たちの存在に触れているのだ。