『サルトル 失われた直接性をもとめて』

サルトル―失われた直接性をもとめて (シリーズ・哲学のエッセンス)

サルトル―失われた直接性をもとめて (シリーズ・哲学のエッセンス)


読んでみるとポストモダン的な視点からサルトルの思想を振り返る、みたいな内容になっている。


キーワードは、タイトルにあるとおり「直接性」ということ。
著者によれば、サルトルは直接性への渇望にとりつかれた思想家だった、ということになる。概念や言葉を媒介することなく、それがどんなものであっても事物と直接向き合おうとする態度(欲望)。
それは、世界を私(主観)にとって透明なものにしてしまおうという願望でもある。


そうした思想の持ち主として、サルトルは意識が直接到達しえないもの、たとえば、他人(他者)、時間、社会、歴史といったものに接近しようと苦闘し続けることになった。
ことに他者との関係は、『地獄とは他人のことである』『相克は、対他存在の根源的な意味である』といった言葉に示されているように、壮絶なものになる。

さて、自己と他者の完全な結びつきを愛と呼ぶならば、それは「実現不可能」であり、「融合」などありえないとサルトルは考えます。彼が描く他者関係においては、「愛」もまた他者の支配をめぐる闘争の形をとることが多いのです。他者を愛することは、他者に愛されることを望むことであり、それによって他者の自由を、自由のままに、虜にすることを意味します。(p67)


結局のところ、他者との関係に限らず、社会や歴史と(私の)意識との関係においても、直接性のもとにそれらを捉えようとするサルトルの営み(哲学)は、挫折に終わったのだというのが、本書のひとつの結論だ。
実際、サルトル以後の思想家は、「直接性」の思想の限界を知って、その幻想の力からいかに逃れるかということを思想の要とするようになった。

ただ、このような直接性の批判そのものが、サルトルの巨大な思索があってはじめて可能になったことを忘れてはなりません。(p106)


たしかにそうなのだろうが、それにしてもひたすらに直接性を求めて世界との葛藤をくりかえしたサルトルの「挫折」を、ただ挫折や失敗とだけ捉えてよいものだろうか?

サルトルは、愚直なまでに、ひたむきに、他者に、世界に直接触れようとしました。その障害となるものをすべて乗り越えて、存在の核心にひたすら到達しようとしました。その過程で、サルトルは、わたしと世界の隔たり、遠さ,とらえ難さを、ある意味で鮮明に描き出したのです。(P103)


こうしたサルトルの姿勢がわれわれに引き渡そうとするものは、「もっと良い態度や生き方」を得るためのステップ、反面教師みたいなものにすぎないだろうか?
少なくともわれわれには、乗り越えるべきサルトルが欠けているというのに。
いや、それよりも、この愚直さから学びとるべきもの、学ぼうとするべきものに比べれば、乗り越えるべきものなど高が知れている、と言うべきではないか。


この最後の章には、自伝『言葉』の一節が引かれている。

「わたしはことあるごとに自分自身に反して考えるようになった。それを徹底するあまり、ある考えが正しいかどうかを、その考えがどれだけわたしに不快感をもたらしてくれるかで測るほどであった。」(p103〜104)


これはサルトル自身の態度を語った言葉なわけだが、ぼくたちはこれを、むしろ自分の座右の銘にするように心がけるべきだ。
「愚直なまでに、ひたむきに、他者に、世界に直接触れようと」しながら生きることは、属性にも還元できないその人の言わば身体的な素質に関わることで、そうなろうとしても難しいだろうが、「その考えがどれだけわたしに不快感をもたらしてくれるか」を正しさの基準とすることなら(そこに多少の危険があろうとも)、ぼくたちにもかろうじて可能かも知れないからである。


ともかく「サルトルの本を読んでみよう」と思わせてくれる本だった。
きっと「直接性」という切り口がいいんだろうな。
(それにしても、この著者もハイデガーを持ち上げてるんだよなあ・・。)