シャコ世界の漠然としたイメージ

きのうシャコのことを書きましたが、ぼくのイメージで一番現状に近いかなあと思うのは、世の中全体が巨大な一匹のシャコだというもの。


つまり全員が透明に近い、非常に柔らかい、けれども剥がすことが絶望的なほど困難な殻で全身を覆っている。それは自分と他人(や世界)とを隔てているものだといえるけど、私とあなたとはその殻自体を共有している。言い換えれば、殻を持つことでつながっている、ともいえる。
で、この殻は単一で、だからこの社会のメンバー全員が総体として一匹のシャコだともいえるけど、その殻の持ち方・度合いみたいなものが、一人一人微妙に違う。そのことで個々人の差異が生じてるわけだけど、見方を変えるとやはり全体で一匹のシャコでもある。
そして、おのおのが(全員にとって単一で、持ち方・度合いだけが異なる)一枚の柔らかい殻によって、自分を世界から隔てている。


このイメージの帰結は何かというと、ある誰かの殻を剥がしていく作業は、同時に自分(たち)自身の殻を剥がしていく、脱却していく作業としてしかありえない、ということ。
この「シャコ世界」の内部に限って言うと、そういうことがいえる。
シャコの殻を剥くときに、シャコを軸にして自分の体の方を回転させる感じで剥くのがコツ、と書いたけど、自分の殻を剥がすことによってしか相手の殻も剥がせない、という面がある。だって、殻は単一で、その殻は私にとっては、まず第一義には「私の殻」でしかありえないわけだから。
他の剥がし方はない、と言ってもいいぐらいだ。


ただこれはあくまでも、「シャコ世界」限定の話ではある。
そもそも「シャコ世界」の他者(どこに他者がいるのか、もちろんシャコには見えないが)が存在しなかったら、誰もこの殻を抜け出ようとは思わない、そもそも自分の身体が殻で覆われていることを、まったく意識しないであろう。
この単一な殻は、それほど(誰にとっても)精妙に作られてるのである。