『カンバセイション・ピース』補遺

保坂和志の小説『カンバセイション・ピース』に関することの続き。


この小説では、人間と、家屋という人間や動物たちが暮らす空間(環境)との、分離できないような深い結びつきが書かれている。それは、人間が普段暮らしているなかで経験する、生き物としての感覚や感情、身体的な記憶が、環境のなかに刻み込まれている有様を精密に描き出そうとする試みだとも思える。
人間が生き物として経験する心の世界と、周囲の物理的な環境とが分離できないものであるという考え方には、アニミズムを思わせるようなところがある。また、日々の共同的な経験の積み重ねが、たんなる記憶や感情といった主観性にとどまらず、人々の生と心に対してある実質をもって作用するという考え方は、共同性についての考えとしては「保守主義的」なものであるともいえるだろう。


たとえば前回も引用した、

「悲しいことは悲しいことなんだよ、やっぱり」と私は言った。「寒いと感じる日が寒い日であるように、悲しいから悲しいと思うんで、感じる側の心の次元で閉じてる問題じゃなくて、世界で確かに起こってることなんだよ」(p452)


という文章には、どこか本居宣長の思想を思わせるものがあると思う。
これは、語り手である「私」が大事にしようとする生の世界が、日常的な空間や関係性に根ざしたミニマムな性格をもつものであることによるのだろう。「政治」や「経済」といった、いわば「からごころ」は、身体に根ざした関係性と生の空間を作り出す原理としては、ここではかたくなに斥けられている。


今日の社会で、このようなミニマムな関係性と生の様式を重視する考えは、別に珍しいものではないだろう。これまで政治や思想やイデオロギーの下に抑圧されてきた、そういう身体的な生のリアリティーを土台にして、新しい生活や共同性を見出し作り出そうする意志が、経験的な心と関係のあり方についての、非常に繊細な認識と倫理を生み出しつつあることは事実だろう。
保坂のこの小説の主人公(語り手)が体現するのも、そういう生と社会(共同性)に対する態度であるといえる。


それはそうなのだが、ぼくが注意したいと思うのは、この作品のなかで少しずつ変化していく「関係」についての「私」の意識の持ち方である。
「私」は、ずっと年下の同居者である「綾子」や「ゆかり」たちに対して、いくらか抑圧的な位置に立っている。それはたとえば、「家」と人間との関係をめぐる「ゆかり」の言葉に、『たかが十九のガキが自分と同じことを考えたという対抗するような気持ち』(p264)を抱いたことが、冷笑的な返答につながったというような記述に、微妙に読みとれると思う。
小説のなかほどで、

子どもの頃から綾子が抱いていた、自分が答えをわからなくても他の誰かがわかっているからいいんだという考えが、世界との関わりについて何らかの真実を示唆しているように私は感じはじめていた。(p235)


とあるが、実際にはなかなかその「考え」を、「私」は受容できない。それは、「私」が、綾子やゆかりに対しての、突き詰めれば自分自身の経験的な生に対しての抑圧的なあり方から、なかなか脱け出せずにいるということだと思う。
ミニマムな関係や生活のあり方を重視しているとはいっても、「私」の社会的な生は、まだ抑圧と孤立のなかにあるのだ。


たとえば、19歳のゆかりと言い争いながら、「私」は、ゆかりの考え方を『いまここにいる自分ばかりが大事だと思う気持ち』(p400)であると、批判的に思う。それは、「まだ十九歳」であるゆかりの考えの限界を語っているのではあるが、同時にそう感じている「私」自身が同じ限界を持っていることを、鏡を見るように見出して、それに対して苛立っているのではないだろうか。
「私」が追い求める認識上の位置とは、綾子やゆかりに対する相対的な優位ではなくて、彼女たちに投影された「自己」の限界からの脱却、言い換えれば「他者」の受容(組み込み)ということだ。


たとえば結末の部分で、

私というのは暫定的に世界を切り取るフレームみたいなもので、だから見るだけでなく見られることも取り込むし、二人で一緒に物や風景を見ればもう一人の視線も取り込む。言葉のやり取りでその視線を取り込むのではなく、視線を取り込むことが言葉の基盤となる。(p489〜490)


とあるような認識論的な事柄を「私」は繰り返し語るわけだが、全編をとおして、「自己」の視線のなかに「家」という自己ならざるものの視点を組み込むというような、困難な試みが追求されなければならないのは、「私」の経験的な生が置かれている、他者との関係のあり方が、耐え難いものであると「私」に少しずつ実感されていくからではないだろうか。
この小説では、「家」の眼差しを自分のなかに組み込むことによって、「私」は「自己」の限界から限定的に解放されて、身近に生きる他者と、自分自身の経験的な生の持続に触れることが実現されているのだと思う。
小説の最後で、綾子の存在についての軽い肯定が書かれていることは、だから、とても大事な意味をもっている。
日常の生の実感に根ざしたミニマムな共同性の構築は、本人が自分の経験的な生を他人との対等な関係性のなかに置き戻すことによって、はじめて可能になるということを、ここに読みとるべきなのかもしれない。