『歌姫ヨゼフィーネ、あるいは二十日鼠族』

ゆうべ、フジテレビの歌番組に中村中という歌手の人が出ていて、岩崎宏美と一緒に『友達の詩』という自作の曲を歌ってるのを聞いた。
すごい歌だと思った。
生きることについて、あれほどの強度に達するのは、ぼくにはとても無理だ。
圧倒された。


フランツ・カフカの遺作といわれている短編、『歌姫ヨゼフィーネ、あるいは二十日鼠族』は、この作家にはめずらしく集団と個人との関係を描いた作品として読める。


地中の国に暮らす二十日鼠族の歌姫であるヨゼフィーネという名のねずみは、その不思議な歌声によって同族のものたちを魅了している。
その歌声は、特別に音楽的であるとも、歌がうまいとも思えないようなものであり、すべてのねずみが普段用いている「単なるチュウチュウ鳴き」、それもありふれた、「せいぜいやわらかさと弱さの点で少しめだつところのチュウチュウ鳴き」に過ぎないと思われる。
それにもかかわらず、ネズミたちが彼女のその歌声に魅了され、高慢きわまりない彼女のわがままも「父親のように」甘受してしまうのは、まさにそれが特別な特権的な歌声ではなく、この苦難の一族の運命を代表するようなか細い声だからである。

(前略)彼女のチュウチュウにひそむ何かが、とどめようもなく伝わってくる。だれもが沈黙しているなかで、にわかに高まったチュウチュウが、さながら一族の伝令のようにしてめいめいの耳にとびこんでくる。困難な決断のさなかにおけるヨゼフィーネのかぼそいチュウチュウは、四方八方を敵意に囲まれたわが一族の哀れな存在そのものといっていい。そんなふうにチュウチュウはみずからを主張する。とるに足らない声と、とるに足らない成果が自己主張して、われわれのもとにやってくる。それを思い出すのはうれしいことだ。かりに世にまことの歌姫がいるとしても、この時代にあって、われわれはそんな存在など容赦しない。(中略)ねがわくはヨゼフィーネがその種の声から守られてあることを。(池内紀訳の本文より)


ここでは、芸術の特権性は、集団の運命のなかに溶解してしまっている。
カフカを敬愛したドゥルーズガタリは、その「マイナー文学」という有名な概念の着想を、とくにこの作品に負っているのではないかと思う。
この「チュウチュウ鳴き」を、カフカが使用していたチェコ・ドイツ語という特殊な言語や、また人生のある時期からユダヤカフカがそれにただならぬ関心を寄せるようになったイディシュ語とその文化にあてはめて考えることももちろん可能だが、さらにそれを越えて、近代以後の大都市に生きるマイナーな諸個人の生の条件を表現するイメージでもあるのかもしれない。
ともかく物語の最後で、ヨゼフィーネは、この集団との関係をみずから断ち切ってしまう。それは「計算違い」として語られることになるのだが、個人に対する集団の優位を断じるかのようなこの結末部は、カフカの読者にとってはやや違和感を持つところかもしれない。
だが、この結末に、ぼくは死をまじかにしたカフカ自身の、一種の解放を見る。
つぎのような結末の一文には、モーツアルトの最晩年の作品のような不思議に澄み切った感じがある。

きっとたいして不自由はきたすまい。ヨゼフィーネは地上の拘束から解放された。当人は選ばれた者のつもりであったにせよ、わが民の数知れぬ英雄たちのなかに、はればれとして消えてゆく。われわれはとりたてて歴史を尊ばないので、いずれ、すべて彼女の兄弟たちと同じように、よりきよらかな姿をとって、すみやかに忘れられていくだろう。


この文章は、「作品は作者の死後、固有の発展をする」と言い残したカフカにとって、世界との和解と解放の表明であると思う。
彼の生涯は、身体と表現という一種の牢獄に閉じ込められていたもののように思えるからだ。


だがまた、他のすべてのカフカの小説と同様に、この作品も、そうした意味づけにとどまらないさまざまな「読み」と解釈を誘うものである。
たとえば、この作品は父親の娘に対する感情の動き、両者の複雑な感情の関係について描かれたものとしても読めるのだ。

一族としては愛でし子を、あたたかいふところに抱きこむだけでいい。それで十分に保護している。もっとも、このことをヨゼフィーネにいうだけの度胸のある者などいないだろう。
「あんたたちの保護なんて、なにさ」
ヨゼフィーネは鼻先でチュウと笑うだろう。いつものチュウチュウ鳴きだ、とわれわれは考える。彼女が反発しても何てことはなく、あくまでも子供のそれであって、子供の甘えっぷりであり、それにこだわらないのが父親のつとめというものだ。


むしろそういう、世俗的で一種エロティックな読みの方が、ほんとうはぼくの好みである。


カフカ寓話集 (岩波文庫)

カフカ寓話集 (岩波文庫)