『鳥獣戯話・小説平家』

鳥獣戯話・小説平家 (講談社文芸文庫)

鳥獣戯話・小説平家 (講談社文芸文庫)


とにかく、滅茶苦茶に面白い本(小説?)だった。
これほど引き込まれて読んだのは、何十年も前に読んだベンヤミン以来ではないかと思う。


これらの作品の魅力は、著者の恐ろしいほどに該博な知識を背景として展開される、レトリックの威力にこそあると思う。レトリック、文章の力が、そのまま反暴力的な抵抗を形作っているという点が、ベンヤミン(「暴力批判論」の著者)との本質的な共通点だろう。
またそれは、真に近代的で唯物論的な批判力と共に、(やはりベンヤミンと通じるだろうが)日本の民衆のフォークロアへの沈潜から、大きな力を得ていることも確かだ。
その意味で、僕はとりわけ、「小説平家」のなかの、第二章「霊異記」や第三章「大秘事」の、一見荒唐無稽にして奔放極まる想像力の沸騰をこそ愛する。
このうち、富士山麓の洞窟群をめぐる民間伝承を糸口にして、公権力による歴史記述(『吾妻鏡』)の虚偽に挑んだ「霊異記」は、レトリックの力で、民衆の意識の底深く、ドゥルーズ=ガタリが「リゾーム」と呼んだ終りのない「穴」を掘り進むことによって、あらゆる権力と暴力とロゴスの支配への抵抗(逃走)が試みられているように思われる点で、カフカの最晩年の驚異的な二作品、つまり「歌姫ヨゼフィーネ」や「巣穴」を想起させる。
一方、「大秘事」は、源氏に敗北して瀬戸内の小島に隠れ住みながら、復活の時を粘り強く待ち続ける平家方の老婆と、彼女のそうした粘り強い呪術的かつ政治的闘争に敬意を抱きながらも、「勝敗」や「闘争」といったロゴス的な形式とは無縁な空間に、非暴力というよりも反暴力の領野を切り開くことを目指して、外国伝来の手品や曲芸(つまり、レトリックがそうであるような技芸)という方法によって先行者たちの抵抗の精神を継承しようとする若者との対比を、流麗に描き切った作品だと思える。ここには、花田の「政治と芸術」についての考えの核心部が書き込まれているのではないだろうか。
しかし、これらの作品の圧倒的なレトリックと思想性とを論じることは、僕の力量を越えている。ここでは、野暮になることを承知のうえで、花田の文章の、(レトリックではなく)ロゴスを題材として、短い文章を書くことにしよう。



公式に書き残された「事実」とされるもの(『吾妻鏡』に書かれているような)に対する、民間伝承(フィクション)の位置づけに関して、「小説平家」のなかで、花田は次のようなことを書いている。
ここでは、『吾妻鏡』のような公的歴史書に書かれているのは、当然ながら「事実」そのものではないという理解が前提にあるわけだが、それに対して(その虚偽を暴く為に)花田はあえて、民間伝承というフィクションを持ってくる。
それは、このフィクションとされているものにこそ、事実を事実たらしめる肝心なものが含まれていると、花田が考えているからだ。

ピランデルロふうにいうならば、事実とはからっぽの袋のようなものであって、そいつを、しっかりと直立させておくためには、その袋に中身を―そんな事実をひきおこした理由だとか、ムードだとかいったようなものを、たっぷり、詰めこんでおかなければならないのだ。(p199)

「史実」や「実証」によって公的歴史の虚偽を暴くのではなく、民衆的フィクションによって公的歴史の虚偽と対決しようとする花田の姿勢を、今日の僕らはどう考えるべきか。
たしかに事実(史実)の検証というのは、現実に対する尊重という意味では、大きな意義のあることである。歴史修正主義と呼ばれるものは、その意味での「現実」や「事実」の尊重を否定する、虚無主義的(原理主義的とも言う)な態度を指すのだろう。
だが、その「現実」「事実」が意味を持つのは、それが人間の生という「中身」を有する限りにおいてのことである。根底にあるべき生の大事さ(それこそが、われわれにとって歴史を意味あるものにするものだが)を忘却するとき、「検証」されるとされる事実は、たんなる空虚な袋、言いかえれば形骸となる。
だから、生を忘却した者(歴史修正主義者)が行うと称する「検証」は、むしろ人間の歴史に対する冒涜とさえなりうるのである。
花田が民衆的フィクションの中に見るものは、この空虚な袋を満たし、われわれの生の現実を「歴史」の真実と結び付けてくれる、「中身」なのだ。
それは、たんなる空想ではなく、権力に対する民衆の批判的精神、あるいは、民衆精神の批判的部分を表現するものである故に、公的歴史の虚偽を照らし出すことが可能になるのだろう。

わたしは、『吾妻鏡』の事実よりも、『ふじの人穴の草子』の虚偽のほうが真実をとらえているというのではない。しかし、わたしは、虚偽をまじえた中途半端な事実の記録である『吾妻鏡』よりも、その虚偽を極度に拡大強化してみせた『ふじの人穴の草子』のほうが、そのなかに不用意にバラまかれている事実を手がかりにして、かえって、真実に肉薄するためのゆたかなデータを提供しているのではないかとおもうのだ。(p202)

花田があくまで対決しようとするのは、民衆の生を否定し抑圧する、公権力の「歴史」であって、その支配に鈍感な精神には、彼は嘲笑と皮肉をもって臨むことになる。
三島由紀夫を名指しした次の文章には、そのことがよく示されているだろう。

「歴史の欠点は、起ったことはかいてあるが、起らなかったことはかいてないことである。そこにもろもろの小説家、劇作家、詩人など、インチキな手合のつけ込むスキがあるのだ。」と三島由紀夫はいうが、そんなふうに謙虚な態度で、「歴史」にたいする満腔の信頼を告白されると、「歴史」のほうでも、かならずやその素朴な信頼にこたえて、三島由紀夫にたいして笑顔をみせないわけにはいかなくなるであろう。「歴史」に可愛がられっぱなしで、一度も「歴史」に裏切られたことのない人物は幸福である。(中略)わたしはといえば、むろん、かれの言葉を、そっくり、そのまま、ひっくりかえして、「歴史」の欠点は起らなかったことだけがかいてあって、おこったことは、なに一つ、かいてないことである、とまでいおうとはおもわないが、まあ、そういいきっても、いっこう、さしつかえないような「歴史」にたいする不信の念をいだいている。(p183)

三島とは正反対に、花田は国家や権力に対する不信に満ち、しかもどこまでもそれを貫こうとしたのだろう。
国家に騙される前に、国家をこそ騙すもの、それこそが民衆の生のあるべき真実だと、この作家は言っているかのようではないか。