『パラダイス・ナウ』

大阪九条の映画館シネ・ヌーヴォで開催中の「パレスチナ映画祭」のなかから、『パラダイス・ナウ』を観てきた。
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イスラエル占領下のヨルダン川西岸地区を舞台に、組織から指名されていわゆる「自爆攻撃」に赴いていく二人の若者の、葛藤と苦悩を描く。


主人公は、サイードとハーレドという二人のパレスチナの若者。自動車修理工として働いているが、生活の糧を得るのが精一杯で、希望のない占領下の日常であることが伝わってくる。
「占領下の日常は牢獄と同じだ」という台詞が後に出てくる。
しかし、そのなかにも家族との交流や、友情があり、出会いがある。
印象深い場面は、ナブルスの町を見下ろす高台の斜面で、二人が水タバコを吹かしているところだ。占領下の日常を生きて、抵抗組織に属している二人は、すでにどこか死を意識している節があるのだが、ラジカセでかかる民族音楽風のメロディ*1にあわせて踊りだす場面は、彼らの生活が、どこかこの土地に、大地に密着しているということを感じさせる。
この物語には農民も遊牧民も登場しないのだが、やはり「土地」と生活とのつながりというものを感じさせる作品になっている。


イードは、(抵抗運動の)「英雄の娘」と呼ばれる外国帰りの女性スーハに出会い、淡い感情ながら、互いに惹かれあう。
組織から、自爆攻撃の実行者にハーレドと共に選ばれたことを、実行の前夜に聞かされたサイードは、その日出会ったばかりのスーハの部屋を訪れ、明日の実行(つまり自分が死ぬこと)を隠しながら、会話する。
この訪問と別れの場面が、心に残る。
抵抗運動に没入するサイードの生き方に、スーハは、同意できないものを感じる。
占領下の閉塞した絶望的な日常を自棄的に語るサイードに、「あなたの人生は退屈ではない。まるで日本のミニマリスト映画のようだ。」と言うスーハ。
しかし、彼女はサイードの運命も、彼がその生い立ちの中で負ってきた心の傷も、まだ知る由もなかった。
彼女に対する思い、そして自らの人生に対する肯定的な感情の芽生えを断ち切ろうとするように、全速力で走り去っていくサイードの姿。
そして、実行の朝がやってくる。


実はここから、物語は二転三転しながら、忘れがたいラストシーンへと向かって行くのだが、あらすじは、ここまでにしよう。
作中でもっとも重いシーンは、組織の指導者に向かって、サイードが自分の生い立ちと現在の思いを語るシーンである。
それをとおして、占領という状況下で、イスラエルによる直接的な暴力だけではなく、そのことが主要な原因となって、パレスチナの社会全体にのしかかり内在するようになったさまざまな見えない暴力が、この若者から生の尊厳を奪い、希望ばかりか生きるための精神的な拠り所の全てを奪って、自分の生を「生きるに値しないもの」と思わしめ、そのことによって「自爆攻撃」というような行動に生の目的・意味づけを見出さざるを得ないように仕向けている、ということが分かってくる。
抵抗闘争によって死んだ者は「英雄」と呼ばれる。無論、虐げられた人々の抵抗は当然の権利だろう。しかし大事なことは、この若者たちは、正義や栄光や独立や「神の恵み」を求めて死に赴いていくというよりも、「占領」や「支配」というような構造的な暴力によって、自らの生から切り離され、「死」(と「暴力」)に向かって方向づけられている、ということである。
それは、「テロリズム」や「虐げられた者の暴力」を肯定するか否かということとは、別の問題だ。
奪われているのは、生であり、人と己の生とのつながりのようなものである。「占領」や「被支配」というものが持つ暴力の本質とは、それだということだ。
そして、特にパレスチナの状況について言えば、彼ら・彼女らに加えれらているこの見えざる暴力に、ぼくらは間違いなく加担しているだろう。


この物語に描かれる若者たちの絶望と怒りを見ながら、ぼくがまず思い浮かべたのは、やはりチベットの若者たちのことだった。
だが、日本にもアメリカにもフランスにも、こうした若者たちは、きっと数多くいるであろう。
彼らの「怒り」は、いや、彼らの「怒り」こそ正当である。
この映画が語っていることのひとつは、どんな虐げられた、断片的にすぎない短い生にも、輝きというものはあり、それは正当な「怒り」のなかでこそ、具現する場合がある、ということである。
閉塞した短い生のなかにも、輝かしいひとつの朝、ひとつの鳥の鳴き声、ひとつの疾走、そういうものがたしかにある。
この意味で、ぼくは抵抗する者の生の現われを、それが暴力であってもあくまで支持する。


だが忘れてならないことは、行使される暴力が正当であっても、「他人の命を損ねてもよいのか?」という道義的な問いとは別のところに、この暴力の忌まわしさが隠れているかもしれない、ということである。
それが、構造的な暴力による、人とその生との切断ということであり、「他人の命を奪う」という暴力的な行動の(あえて言えば)非倫理性は、むしろそこから帰結するものだろう、ということだ。


占領や抑圧や貧困が悪なのは、それがまず人に己の人生を「生きるに値しないもの」と感じさせ、そのことで人を暴力や死の方向へ差し向けるからだ。
この映画は、そのことを語っている。


それを考えれば、こうした状況において回復・保障されるべきものが「平和」という名で呼ばれることが欺瞞でしかないことが分かる。
たとえば、日本統治下の朝鮮の日常は、「義兵闘争」のようなものさえなければ「平和」だっただろう。ガザやヨルダン川西岸地区の日常も、抵抗闘争がなければまったく「平和」だろう。チベット自治区の日常も、「暴動」さえ起きなければ、まったく「平和」なのだ。
こうした「平和」こそ、暴力そのものである。
たんに「平和を守れ」という主張は、支配や貧困や抑圧の永続を意味し、そこから帰結する自己の生との分離という人生のあり方を、虐げられた人々に甘受させることしか意味しないからだ。つまり、その帰結は、結局、戦争や暴力や自死でしかないということである。
問われ、告発されるべきなのは、「平和であるこの日常(世界)」が持っている暴力性の内実ということである。



回復・保障されるべきものは、決して「平和」ではない。
それは、「尊厳ある生」ということ、全ての人に「この人生は生きるに値する」と実感させるような社会の実現ということである。
それだけが、暴力の廃棄という倫理的な目的への接近を、われわれにもたらす。
そして(今のわれわれの国もそうなりつつあるような)抑圧された社会においては、生の尊厳を否定され、「お前の生は生きるに値しない」という無言のメッセージを浴びせられているような人たちの「怒り」の表明こそが、その実現の可能性を保障する最大のものである。
「平和であるこの世界」が、どのような不正義と暴力性をその内実として持っているか、その告発や抗議の声だけが、われわれの平和を真に守るのだ。

*1:このメロディは、アラブの遊牧民の音楽ではないかと思うが、ホーミーのような歌声が聞かれる、不思議な楽曲だった。