プラトン『国家』メモ・その3

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

気が遠くなるぐらい間があいてしまったが、プラトンの『国家』について、思ったことをいくつか書いておきたい。
トラシュマコスがらみの話は長くなるので、次回以降に書くとして、ここでは、第10巻のいわゆる「詩人追放論」と呼ばれている箇所について考えたい。
訳者の藤沢令夫によると、やはりこの部分は、古来評判のよくないところのようである。


たしかに、詩と詩人に対して最も核心的な批判を行っていると思われる、次のような「ソクラテス」の言葉を読むと、ここでは詩や文芸、もっと言えばフィクションというものが一般的にもつ弊害が論難されているように思える。

「こういう事実を考慮してもらいたいのだ。――すなわち、先に自分自身の身に起こった不幸に際しては無理に抑えられていたが、ほんとうは心ゆくまで泣いて嘆いて満たされることを飢え求めていた部分――というのは、そういったことを欲求するのが、魂のこの部分の自然生来の本性だからなのだが――まさにその部分こそが、いまや、作家(詩人)たちによって満足を与えられ、喜ぶところの部分に他ならないのだということだ。そして他方、われわれの内なる生来最もすぐれた部分は、理(ことわり)によって、また習慣によってさえも、まだじゅうぶんに教育されていないために、この涙っぽい部分に対する監視をゆるめてしまう。ほかでもない、自分がいま目にしているのは他人の身の上のことなのであり、すぐれた人物と称するひとりの他人がみだりに愁嘆にくれるとしても、その人を讃えたり痛ましく思ったりするのは、自分自身にとって少しも恥ずかしいことではないのだと、こういうわけなのだ。むしろ、先のようにそこから快楽を得ることができるなら、それだけ得ではないかと彼は考える。そして、詩作品を全体として軽蔑することによってその快楽を奪われることを、けっして承知しないだろう。
 というのは、他人事から享受したものは、必ずやわが身の事にも及んでくると考えてみることができるのは、思うに、ただほんの少数の者だけなのだからね。じじつ、痛ましさの感情を他人事に際して育み、いったん強力にしたうえは、自分自身の苦難にあたってそれを抑えるのは、容易なことではないのだから」(下巻p333〜334)


要するに、小説や劇の登場人物に対する感情移入(カタルシス)では、それは「虚構」のことなのだからという言い訳のもとで行われ、言わば欲望が放縦に解放されてしまう。「それは現実の経験とは違うのだから、かまわないではないか」と自分に言い訳して、人は虚構の世界にのめりこむわけだが、実際にはそのことによって、心のなかの抑制されるべき「衝動」が育まれ、支配力を持つことになるのだ、というわけである。

「また愛欲や怒りについても、さらには、あらゆる行為に伴うとわれわれが主張するところの、魂のうちに生じるすべての欲望と快苦についても、詩作による真似(描写)がわれわれに与える効果は同様であるといえるのではないか。すなわち、それはそうした衝動に水をやって育てるのだ――本来はひからびさせなければならぬのに。そしてそれらをわれわれの内なる支配者としてしまうのだ――われわれが劣ったみじめな人間とならずに、すぐれた幸福な人間となるためには、本来それらは支配される側に置かれなければならぬのに」(p335)


ここでソクラテス(著者プラトン)は、そうした「衝動」が悪いものであると言って非難しているのではなく、虚構にのめりこむという体験によって、人はその「衝動」というものを、それが在るべき「支配される側」という本来の位置に置かず、増強させて、支配的な位置に置くようになってしまう、と言っているのだ。
つまりそれは、人が現実の経験のなかで持ちうるはずの、自己の「衝動」(欲望)との抑制的な関係を、虚構への没入という体験が困難にしてしまう、という事態への警告である。


そうした虚構の主要な様式である「詩」が持つ、人間にとっての強烈な魅惑をソクラテス(著者プラトン)は認めながら、むしろそれゆえに、次のように述べて、彼が考える倫理的な理想国家からの詩(詩人)の追放の必要性を語る。
この箇所は、両義的な魅力に満ちている。

しかしながら、親しい友よ、そのことが明らかにされない場合には、ちょうど、あるとき誰かを恋するようになった人たちが、その恋が身の為にならぬと考えたとき、辛くとも無理に身を退くのと同じようなことを、われわれもまたしなければならない。われわれも、結構な国制によって育てられたおかげで、この種の詩に対する恋を心にいだくようになっていて、この恋ゆえに、詩ができるだけ善いもの、できるだけ真実なものであることが明らかになるのを、歓ばしいことと希うことだろう。けれども、詩が自分を弁明することができずにいるあいだは、われわれはその声を聞くに際して、われわれが論じているこの議論をわれわれ自身に繰り返し言い聞かせ、それをもって詩の魅惑に抵抗する呪いとするだろう――ふたたび子供じみた恋、大衆の恋へとおちいらないように用心して。・・・・・(p338)


プラトンは、ここでは詩を非難しているというよりも、詩に対する「大衆の恋」こそを遠ざけようとしている、と見るべきだろう。
つまり、危険は、虚構それ自体にあるのではなく、虚構を言い訳にして自分の欲望に対する抑制という、倫理的な義務が履行されなくなるということであり、またそのような「大衆」的な怠慢に、われわれはきわめて容易に陥る、という事実である。
その意味では、危険は「虚構」にあるのではなく、虚構をそのように使用して、自分の欲望と経験的な現実との関係を歪めてしまおう(非現実化しよう)とする、われわれの抜きがたい傾向にこそあるといえる。
別にフィクションだのバーチャルだのの手を借りなくても、われわれは日常を、現に容易に非倫理化しているのである。


だが無論、虚構に危険がない、ということではない。しかし、「大衆」的とか、「子供じみた」と言ってすませることの出来ないような、その危険の核心についてはプラトンは語らず、詩人の追放という形式的な措置によって、自分のなかにあるそうしたものとの直面を避けているように、ぼくには思える。
むしろ、プラトンは、抵抗しがたい魅力を持つと認めていた「詩」というものに対する、「子供じみてはいない恋」について、どのように考えていたのか、そのことに興味がある。