慰撫と欲望

石牟礼さん願い お忍びで実現 皇后さま 「胎児性水俣病患者に会ってください」
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013102902000238.html


天皇と皇后が、水俣病の被害者に会うということが発表された当初から、今回の熊本訪問では、これまでになく天皇の存在を用いた国民的な和解のメッセージが強調されているという印象を受ける。
大震災で拍車のかかった、弱者切り捨ての新自由主義的な政治と社会の状況、原発の強引な推進、安倍政権の極右的・強権的な暴走という、何重にも重なった暴力的な現実のなかで、弱者を包み込む装置としての天皇制の機能をフルに活用することで、国家による統合を維持していこうとする政治の思惑が、かつてないほどに強力に働いているのだろう。
とりわけ今回の訪問では、天皇以上に皇后の存在が前面に押し出され、「皇后と弱者」というような、いわば母性的なイメージが強調されていることも興味深い。


こうした、天皇(家)のイメージによる、歴史や政治の被害を受けた人々への心理的救済ということは、私的な次元に限っていえば、たしかにそれなりに意義を持つ場合もあるかもしれない。
天皇制が悪だといっても、「天皇」の存在によって現実に救われる個々人があるということ、その内面の独立性のようなものに、外から干渉して批判するという権利は、誰にもないであろう。
だが、現実を考えれば、上に書いたような圧倒的に進行している国家による暴力というものがあり、そのなかで行われる私的な救済に他ならないのだから、これが客観的には、つまりわれわれにとっては、真の救済や和解と呼べるものでないことは明白だ。
殴り続ける行為のなかで、気まぐれのようになされる計算ずくの慰撫は、天皇や皇后の私的な思いの如何に関わらず、欺瞞であり、暴力を補完するものでしかありえない。
殴り続ける側に立っているわれわれ自身が、この虚偽に満ちた物語を信じるふりをすることは、天皇をというよりも、弱者(被害者)を政治的に利用することになる。
天皇によって癒される被害者」という物語に同一化することで、暴力に満ちた歴史と現在への責任を忌避したいという、われわれのあからさまな醜い欲望に、メディア化された現代の政治権力は、いけしゃあしゃあとつけこむのだ。


考えてみれば、天皇制という装置は、この国の近代史のなかで、常にそういうものとして働いてきた。この国家に組み込まれている以上、天皇による救済や慰撫は、残念ながら客観的には、常に虚偽のもの、政府と「国民」による欺瞞を正当化するためのものでしかありえないのである。
冒頭にあげた記事に関して言えば、石牟礼さんの作品が、われわれの生の私的な部分を比類のないほど深く探ったものであるだけに、被害者たちとの共生のために、天皇(皇后)の存在やイメージによる欺瞞的な和解や統合を突き破ることを、われわれに要請する力はかえって強いと思うのである。


新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

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