『働くということ』その3

前回に続き、ロナルド・ドーア著『働くということ』の、今日は第二章について。


第一章では、日本などの先進資本主義国における近年の労働の量的(時間的)な増大について論じられたが、第二章では労働の質的な変化が問題にされている。
70年代、アメリカやイギリスといった「アングロ・サクソン諸国」では、各国政府の国際競争力への関心の高まりや「自由主義市場哲学」の席巻、それに労使協調型の政策・経営決定システム(コーポラティズム)の行き詰まりなどが原因となって、「規制緩和」の時代に突入する。レーガン政権やサッチャー政権の登場が、この時期にあたる。
この動きは、グローバリゼーションの展開による国際競争の激化と重なったことでさらに加速された。当時の欧米先進諸国にとっての重大な脅威は、安い賃金水準と高い技術力に支えられた日本の台頭であった。
これは、各企業においては、すでに訓練投資を行った熟練労働者の一人当たりの労働時間を長くすることで、生産性を効率的に高めようとする「労働強化」の動きとなってあらわれた。
一方国の政策のレベルでは、特にサッチャー政権のイギリスにおいて、「独立行政法人」なるものの導入によって、公共部門に民間企業の業績主義や競争的なシステムを導入するということが行われた。


「労働強化」と「独立行政法人」というこの二つの事柄は、今日の日本の現状につながるものであろう。後者は、「小さな政府」や福祉の民営化、NPOの増加といった現象に結びついていると思う。
特にぼくが重要だと思う点は、前者に関して、著者が「労働強化」と非正規労働力の需要の増大とは、根本的に別個の現象だと考えているらしいことだ。この点は、後で触れると思う。
ともかく、こうした変化を経た80年代の英米の労働をめぐる状況は、次のようなものとなったという。

前述したように、競争激化に対応せざるを得なくなった経営者が、「人的資源の効率的利用」を追求する環境を作ったのは、各国政府が優先順位を完全雇用から国家競争力強化へと移行させたことでした。労働者保護立法は薄められる一方となり、整理解雇の手続きが簡単となりました。派遣労働者など、臨時雇用契約がより自由に使えるようになりました。社会保険の事業主負担が軽減され、労働組合の法的権利が縮小され、さらにスト規制立法でストライキに訴える能力も削がれていきました。(59ページ)


この「労働」をめぐる状況は、今日の日本の状況にかなり似通っていると思うのだが、著者はこの状況の大きな理由を、政府による「国家競争力」重視への政策転換に求めているわけである。
著者は、この政治的な傾向の変化の原因についてはどう考えてるんだろう?まだちょっと分からない。

労働・非労働と「依存」

ところで、この章でぼくが一番面白く読んだのは、「面白い仕事と骨が折れるばかりの仕事との重要な違い」についての考察の部分である。この意味での「労働の質」についての考察が、ぼくにはもっとも刺激的だった。
著者は、人が仕事からどのような満足感を得るかという問題について、「競争・対抗の本能」、「人より上に立ち人を支配する欲望」、そして金融市場のワークホリック的なビジネスマン、投資家に見られる「ギャンブラーの興奮」といった要素を軽視すべきでないと強調する。
ぼくは、これらを、労働というもののメタフィジカルな魅力として総括できるのではないかと思う。労働は、人の欲望や精神的快楽を満足させる力を持つ場合がありうる。だからこそ、ワークホリックも生じるのだ。
そして著者は、こういうふうにも言う。

本質的に、もっとも面白い仕事をしている人たちこそが高い給料を得ています。(70ページ)


でも、本当にそう言い切れるかな?なるほど、単純労働は苦痛だろう。だが、易しい仕事を居眠りしながらだらだらやることも、そんなに悪くない。
文革の時代に訒小平が地方に流されていたとき、午前中だけ工場で働き、それ以上いると労働者たちをオルグする恐れがあるというので、昼からは家に帰って畑仕事をしたり本を読んだりトランプをやったりという毎日だったそうだが、ぼくには理想的な生活に思える。
もちろん自由はなかっただろうが、半日だけ働けばいいなんて贅沢だ。いいなあ、と思った。さすがは「半日の国」である。


ここから考えられるのは、こういうことだ。ワークホリッカーが「労働に依存している」と考えると、ぼくのような労働が嫌いな人、働きたがらない人というのは「非労働に依存している」と考えられるのではないか。
前者は「労働は面白い」と思わされている人たちで、後者は「働かないこと(怠けること)は楽しい」と思わされている人たち。
このように両者に思い込ませることによって、ある種の社会のあり方、管理システム、あるいは産業構造がうまく機能する、ということはあるのではないか。今の日本の社会には、そういう一面もある気がする。
「働きたがらない人たち」が急に社会的な競争に目覚め、一方ワークホリッカーたちが一斉に怠けることの楽しさに目覚めたら、今の社会はどうなるんだろう?


たしかに「スローライフ」は魅力的だが、「競争」もまた魅力である。どちらも「人間的」だ。そして、しかしそれは、「依存」と紙一重である。
競争と、競争から降りることとの、両方の楽しさを自覚し、またそれを警戒することが、今の時代にあっては特に大事なのではないだろうか。
次回に続く。