『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』

人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか

人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか

先に、この本のことに触れたが、それは現状分析にたいへん役立つということであって、著者の主張に同意できるということではない。
むしろ、この本で言われている主張の内容は、ぼくから見ればたいへん(ひょっとすると、新自由主義以上に)危険なものに思える。


本書の結論として、著者が示している今後の日本経済の道筋は、グローバル経済の進行(と、それと不可分である世界の帝国化・「新中世」化)それ自体をとめることはできないから、それに対応するために、(日本の)グローバル企業は貪欲に成長を目指し、一方で国内を主な市場とする中小企業や非製造業(ドメスティック経済圏産業)は「ゼロ成長」を目標とすることに切り替えるべきだ、ということである。
これは、国内に発生している「格差」を問題視し、「安心」や「公平」が実現される社会・国家を目指すというコンセプトだが、実はグローバル化の進展とそれに整合する形での「国内=国際」的な「不公平」の維持・強化を遂行するプログラムだといえる。


まず言うまでもなく、ここでは経済のグローバル化によって、地域的にはもっとも被害を被るであろう人たち、つまり日本のグローバル企業にとってなくてはならない存在である中国の成長(近代化)のために動員されることになる農民たちや、アジア諸国の民衆の悲惨は、まったく視野のなかに入っていない。
つまり、仮に著者が「定常状態」という語で示唆している日本国内での「安心」や「公平」が、「ゼロ成長」を目標とする経済政策によってそれなりに実現されたとしても、グローバル経済によってもっとも苦しめられる人たちの苦悩は、放置され、むしろ必要とされることになる。


著者は、現在の世界経済の仕組みにおいては、生産工場としての中国の存在と、中国の経済成長(近代化)が不可欠のものであることを強調するが、農村部の貧しい人たちが中流階級化することによって、その近代化の過程が終了する(世界の生産工場としての役目を終える)までには、まだ50年かかると見ている(ただし、エネルギーや資源の問題が解決されたとして)。
ということは、グローバル経済が現在中国の農民など貧しい人たちにもたらしている暴力的な悲惨さが、まだ50年続く、ということである。
「成長」の名の下で行われる、かけがえのないものの剥奪と破壊の過程が、50年続くということなのだ。


チベットの人々、とくに若者たちが置かれている状況の困難も、無論、このグローバル経済と、そのなかできわめて重要な位置を占めている中国の経済政策に由来している。
また労働力のグローバル化の進行は、南アジアをはじめ、貧しい国の人々を、その人たちが所属してきたコミュニティーから引き剥がし、労働市場のなかにこの人たちを投げ入れるのだ。その役割は、多くの場合、低賃金の、雇用の安全弁ということだろう。


われわれが資本や経済のグローバル化を批判するべきなのは、この観点においてこそである。
グローバル化した経済が、世界のどこかの人間の生活や人生を破壊し、損なうなら、まさに世界がグローバル化しているからこそ、われわれにはそれを批判し、抵抗する義務がある。
グローバル化が非難されるべき悪である(ありうる)のは、決してそれが、日本と日本人の「権益」を損なうからではない。


そして、この「定常状態」において実現される国内の「安心」と「公平」なるものが、グローバル化の野放図な進展を容認し(少なくとも、批判する強い動機を持たず)、そこで現実にもっとも苦しんでいる人たちの存在を意識から排除することに基づいている以上、実際にはまったく欺瞞に満ちたものであることは明らかだと思う。
これは、国際的にも国内にも現存し続ける、根本的な不公平の不可視化と強化にのみ寄与するレトリックなのである。


おおまかに言って、この本の著者のような主張は、新自由主義の野放図な発展や、構造改革規制緩和を全面的に賛美し要請する主張と比べれば、目立たないし、口当たりがよい。
それは一見、人間的な社会の実現を目指す思想のようにも見える。
だが、その底にあるのは、グローバル化と帝国化にもとづく社会の変容を動かしえないものと捉えることに基づいた、虚無主義的な心理であるように思う。
この、言わば人間的な価値に対する虚無主義を、こうした思想は、新自由主義的なイデオロギーと、(少なく見積もっても)共有していると思える。
どちらが主であると断じることは難しいが、ここにはある種の共犯関係が成り立っていると思えるのである。


人間(つまり私)の広範な共感や連帯の可能性の縮減に根ざすような、この種の社会思想に、ぼくは迎合したくない。
その思想が、かりに左翼的な、もしくは「右と左の対立を越える」ような意匠をもってあらわれても、同様である。