生田武志「フリーター≒ニート≒ホームレス」を読む・その1

雑誌『フリーターズフリー』所収の生田武志さんの論文を、自分なりの視点で要約・紹介しながら考えていこうという試みです。はじめてみたら、どうも長くなりそうなので、途中までで切って一度アップすることにします。

出発点

この論文では、「フリーター」、「ニート」、「ひきこもり」といった言葉で呼ばれる人たちの問題が、近い将来において、またすでに現在も「野宿者問題」に結びつくものであるという現状認識が語られ、それが分析されていく。
そのなかで、注目がうながされていることのひとつは、この人たちの「中高年化」という現実である。たとえば「フリーター」については、「中高年フリーター」の数が今後も増え続けるだろうという研究が紹介され、次のように書かれる。

定義上、三五歳以上は「フリーター」には入らないので、この層は「何でもない人」として毎年フリーター統計から消えていく(「三四歳まで」の理由は、就職して老齢年金の受給資格が得られる二五年分の保険料払い込みが開始できる最後の年齢であるためとされる)。しかし、この人々の多くは年齢による就職難や体力の衰え、親の介護などの様々な問題を抱えながら歳を重ねていくだろう。(p205)


これは、まったく自分に当てはまることでもあるので、想像力の乏しいぼくにも、どういうことであるかさすがに分かる。「歳を重ねていく」というのは、重ねられるところまでは、ということである。
また、「ひきこもり」の人たちに関しては、さらに深刻な状況であることは言うまでもないだろう。論者は、「ひきこもり」が問いかけるもの、という視点をとりわけ重視しているのだが、それについては後でふれる。
さて、こうした状況をどうとらえるかということだが、生田の視点は、次のような箇所によく示されている。

「若者のサラリーマン忌避志向と行政―資本のバブル経済崩壊後の正規雇用労働者絞込み志向とがたまたま(?)一致した結果、フリーターの爆発的増大が起こったということは確実に言える」と「フリーターは野宿生活化する?」で言った。つまり、行政―企業の側からの「新自由主義」と、若者の側からの「会社正規雇用からの自由」という「二つの自由(フリー)」の交差である。片方だけの要因では、これほど爆発的にフリーターが増化することはありえなかったにちがいない。(p212)


つまり、「フリーター」の増大はたしかに企業側の要請によってもたらされたという側面もあるが、同時に若者の側の企業社会からの「自由」への志向によるという要素もあり、その両者の「交差」としてとらえるべきだとされる*1
そしてこの、若者たちの「自由」への志向をどうとらえるかということが、重要な論点となる。


労働のインセンティブ

「Ⅰ 労働のインセンティブの変容」では、この問題について、平均年齢が60歳手前にさしかかっている「日雇労働者」との労働観の比較から、考察がすすめられる。
生田によれば、「日雇労働者」たちに共通してあるものは、「国家」「企業」「家族」のために働くという、労働のインセンティブであるという。それは、「日雇労働者」に限らず、『比較的最近までの日本社会を根底から支えた労働観』であっただろうと、生田は書いている*2
これに対して、

「フリーター世代」の多くは、こうした「国のために」「会社のために」「家族のために」働く、という旧来の労働のインセンティブを持ってはいない。というより、「労働によって社会に参加する」ということの意義がはるかに稀薄化しているのではないだろうか。(p214)


というのが、生田の見方である。
では、その理由はなにか。やや先回りして書くと、国や会社や家族との一体感による自己の形成という、戦後の日本を支えてきたフィクションが、すでに維持できないような社会が到来しているから、ということになる。これが生田の、基本的な現状認識といえよう*3


さてこの章では、「会社人間」という戦後の日本に特徴的な人間類型への拒絶としてフリーターがとらえられる。面白いのは、次のような整理である。

つまり、フリーターとは「(会社=社会)=私」の否定形である。したがって、それは論理的に二つに分かれる。すなわち、「会社≠(社会=私)」あるいは「(会社=社会)≠私」である。(p216)


つまり、「会社」以外の形で社会とのつながりを模索する(できる)タイプと、会社という接点を失うことによって社会からの完全な孤立に陥ってしまうタイプとの、二類型が、論理的には存在するというわけである。
既成の社会秩序がリアリティというか、実際的な支配力を失った時代(現在)におけるこの二類型は、さまざまなケースにあてはめることができるだろうが、ここではたとえば次のような例が挙げられている。

その結果、「会社≠(社会=私)」の層はボランティアやNPONGOなど「会社」以外の形で社会と関わり、「(会社=社会)≠私」の層は社会との接点を相対的に失う「社会的排除」のケースになっていく可能性が高いかもしれない。(P218)


この「社会的排除」をこうむった層が、どこへ向かうかという重大な懸念も、もちろんこの論考の底に流れているもののひとつである(p255前後に出てくる右傾化の問題など)。


それはともかく、「国のため」「会社のため」「家族のため」という、支配的であった労働のインセンティブを、構造的な原因によって失った「フリーター世代」の人たちにとって、ありうるインセンティブはなんだろう。
それはひとまず、「自分のため」に働く、ということでしかありえないことになろう。
その場合、「自分の生存のため」という切迫した条件に置かれている場合(高度成長期には、まだこのケースが多かった)はともかく、今日の日本はたしかに相対的に豊かな社会ではあり、また後述するような「家族」をめぐる戦後日本のシステムに特徴的な事情から、「親との同居」などの手段によりとりあえずそこが確保されているなら、この最後のインセンティブも機能しにくいわけだから、「フリーターでもいいや」とか「フリーターしかないや」という形でフリーターを選択する人たちが増えているのではないかというのが、ここでの生田の見方であると思う。
これは上記の、労働力についての企業側の戦略・事情とは別の、「自由(フリー)」の、もうひとつの側面、主観的とも呼べる側面についてのことである。

別の形の社会と労働のインセンティブ

だが、ここで興味深いのは、生田が上山和樹の言葉を引用しながら、「自分の生存のため」というもっとも根底的とさえ思われる労働インセンティブさえ、自明のものではない可能性を語っていることである。
真に自己が参入し関わるべき「公」あるいは「社会」を、「会社」や「国家」という枠とは切り離してとらえようとする(これはカント的な考えともいえるだろうが)上山が、彼が「公私混同」と呼ぶその現実の矛盾を解決しないままに企業社会のなかで働くよりは「死んだほうがまし」であると述べていることを紹介して、生田はこう書いている。

こうした極限的な例は、「働くことの意味」を求めるなら、それは「自分の生存のため」ですらないということを語っている。(p223)


そして、こうした労働の最終的なインセンティブ(自分の生存のために)さえ、もはや自明なものでなくなりつつあるという事態が、多くの若者に広まっていることを述べて、さらに生田は上山の「公」という問題提起を受ける形で、こう書くのである。

労働のインセンティブは、「自分のため」はもちろん、「会社のため」や「お国のため」でもない。それは、別の形の「公」あるいは「社会」に求めるべきなのではないか。そしてそのとき、はじめて「自分のため」ということの意味も現われるのではないか(例えば、阪神淡路大震災のとき、それまでひきこもっていた多くの青年たちがボランティアとして活躍したというが、あの場に駆けつけた若者にとっても、それは「社会と自分との関係とは何か」という問いへの答えの一つとしてあったのではないか)。(p223〜224)


つまり、従来の「国家・家族・資本」という形態に一元的に支配された社会のあり方とは異なる、「もうひとつの社会」としての「公」に人が接続し、「社会的な排除」を脱してより矛盾の少ない、もしくはより公正な社会的生存を切り開いていく可能性がそこに見出されると、生田は言うわけである。
たしかに、労働について言えば、誰かが生産を行わなければ自分ばかりか他人の生存も確保されないので、どう考えても何らかのインセンティブの確保は必要であろう。ほんとうは、生産が資本の自己目的的な増大に排他的に結びついてしまっている状況こそが変えられるべきで、それがここで言われている、『別の形の「公」や「社会」』という問題提起につながるところであろう。
また、実存的に言っても、上記のような社会の矛盾に苦しむ、つまり自分を現行の社会に適合させて「ごまかす」ことの出来ない「ひきこもり」のような人たちが、「社会的な排除」におちいることなく生きていくためには、これまでのあり方とは異なる社会というものが模索されるべきであることも分かる。
それでもここは、非常に重要な問題を含んでいると思うが、それには後でくわしく触れたい。

「家族」という装置・不徹底な「自由」

ところで、この「ひきこもり」の問題を、労働のインセンティブをめぐる、「別の形」の社会の可能性へと通じる問いとして受け止めることをとおして、生田は別の問題へと考察を展開していく。
それは、「企業社会」や「会社人間」となることを拒み、国家や資本のための労働を忌避する「ひきこもり」や「ニート」、また「フリーター」と呼ばれる人たちの多くが、にも関わらず「家族」への経済的・心理的依存は「拒絶」しようとしないという奇妙な事実についてである。
ここから、戦後の日本のシステムにおいては、「家族」という装置が国家や資本を補完するものとして有効・強力に働いてきたこと、企業社会からの「自由」を志向する「ひきこもり」や「フリーター」の多くも、その装置の呪縛(依存)から逃れられているわけではないことが、分析されていく。それは、「国家・資本・家族」という三極構造を、真に批判するような、そこから脱却するような地点に、この「自由」がいまだ達していないという一般的な事実を照らしだすだろう。
「Ⅱ カリカチュアとしての日本の家族―「会社人間+専業母親+専業子ども」」で詳細に分析されているのは、そのことである。
それは、「ひきこもり」や「フリーター」と呼ばれる存在、その行動や欲望が、戦後の日本社会の一般的な枠組みの外にあるものではないということ、したがってそれだけではこの枠組みを改編して「別の形」の社会へと向っていく力とはなりがたいことを示すものであると思う。
そこには何か、自らの存在や欲望のあり方を外からとらえ直す契機となるような、「他者」の存在(発見)が欠けているのである。

ジェンダー・他者・構造

「Ⅲ 「フリーター・ニート・ホームレス」そしてジェンダー」は、この「フリーター」や「ニート」などと呼ばれる人たちにとっての「他者」の発見に関わることがらを論じた章であるといえる。
ここで述べられているのは、フリーターなどの「不安定就労」の問題は、日本の社会においては、戦前・戦後をとおし、現在まで一貫して女性労働者に背負わされてきた問題であったという事実であり、また戦後の日本の社会構造のなかで、女性は「男と企業と国家」による構造的圧力によって、「専業主婦(+パート労働者)」という立場を押し付けられてきたのだ、ということである。
多くの男性労働者(とりわけ高学歴の)が、「不安定就労」による生活や生存の困難を自分の問題として感じ、「フリーターの貧困」を生み出す構造が社会問題として語られる以前から、その男性たちの特権を支えるようにして不当な立場を押し付けられ、声をあげたり自分たちの境遇を自覚することも難しかった人たちが、社会のなかに、家庭のなかにさえ、多数居たという事実。そして、その状況は、現在でも基本的には変わっていないのだという認識。
いわば「フリーター」的な生の意識と欲望をもった者自身が、自らの過去と現在における加害者性、それが言いすぎなら他者との権力関係の主体としてある己自身への自覚を持つということ。この章で書かれていることの意義は、おそらくそれであり、そのことこそが、この自己が志向する「自由」への欲望が、「国家・資本・家族」の現行のあり方を捉え返し、批判し、変えていく不可欠の契機となる、ということだと思う。


とはいえ、ここでは「女性」という存在が、特権的な他者、あるいはその代表例のように持ち出されているということではない。この章の分析は、「女性」として定義される存在が現実の(歴史的な)社会の構造のなかにどのように組み込まれて虐げられることになったかという構造の分析であり、その構造のなかに、他者との結びつきにおいて自己(分析者自身の自己でもあろう)を置いてとらえ直すという、視点の獲得なのだといえる。
いわば、他者の神秘化ではなく、自己の存在と欲望を他人との現実的な関係のなかでとらえ直すという姿勢こそが、ここで示されているものなのである。


(続く)

*1:ただし、この箇所で生田がフリーターを三類型にわけ、低学歴層や女性全体という、就職難による「やむをえず型」フリーターの存在に注意をうながしている点は重要だろう。それはもちろん、この人たちの存在が、「自由」を志向する層のフリーターにとっての他者としてとらえられていると思われるからである。

*2:ここでとくに注意すべきなのは、生田が「日雇労働者」に関して「国に頼らず」という気持ちがたいへん強く、それが結果的に「国のために」というインセンティブに通じているという見方をしていることである。この年代の人たちに時折見られる、リバタリアン的というか、国家や制度の枠組みから脱していようとする傾向をどうとらえるべきか、ぼくにはよく分からない。野坂昭如とか。

*3:『したがって、人口ボーナスが永久に終焉した日本では、従来の「企業・家族・国家」構造はもはや人口学的に維持できない。』(p253