『働くということ』その2

おとといに続いてロナルド・ドーア著、『働くということ』を読みながら。
もともと読むのが遅い上に、雑事にかまけてなかなか読み進めない。
第二章までで印象的だったところをメモしておく。

日本の最近の労働事情について。

最近では、前例を見ない失業率とワークシェアリング論議の高まりにもかかわらず、能力のある労働者の貢献を最大化することの方が国の競争力にとってより重要だとされているように見えます。(11ページ)

これは、ほんとにそうらしい。
企業の競争にとっても重要だと思われる「高い能力」の技術者、従業員、社員ほど、殺人的な労働時間で働かされることが多いのが、いまの日本の特徴ではないか。
こういう人というのは、他のことをやっても「高い能力」を発揮できる。たとえば社会運動とか。その人たちに余暇がほとんどないことで、市民生活の全体が非常に貧しいことになっている。労働組合の活性化といっても、本当に「高い能力」をもってる人は、労働運動になど参加できないので、どうしても旧態依然たる運動にしかならないのが現状ではないか。
ここで「高い能力」というのは、もちろん技術的・競争的なことだが。


この本の大きなテーマは、「人はなぜ働くのか」ということであるらしい。
数十年前には、21世紀になると先進資本主義社会では労働時間が短縮するはずだとみんな予測した。ところが、現実は逆の傾向があらわれている。それはなぜか?
この素朴な疑問が出発点になっている。
平均労働時間の増加について、たとえばリストラによって社員の数が減り、一人当たりの労働量が増したからだという側面。これは分かりやすい。
著者がもっと強調するのは、労働需要サイド、つまり企業側の態度の変化である。

このような傾向をもたらした主たる要因は競争の激化、それに伴う経営上の優先順位と雇用慣行の変化です。もう一度いいますが、これは先進工業世界にほぼ満遍なく見られる傾向です。(28ページ)


その「草分け」はアングロ・サクソン諸国であり、その市場主導の経済が普遍的なものになりつつあるのが、今日の現状である、という認識。


こうした流れのなかでの、近年の日本の企業の変化を、著者はひと言で、「従業員主権企業」から「株主主権企業」への移行、と表現している。
これは、おおいに納得できる見方だ。

(前略)もっとも端的にいえば、経営者マインドにおける経営目標の優先順位の変化です。一五年前だったら、株価の維持よりも従業員の待遇をよくすることが、ずっと重要に思われていました。今はその逆なのです。(34ページ)

しかし、そうした個別企業の競争体質への変貌と同時に、もっと大枠のものとして著者が強調するのは、各国の政府が「国際競争力」なるものを強く意識するようになったという変化である。
これはひとつには、失業率が高くても株価があがっていれば政府・与党への票は減らないということに、政治家たちが気づいたことにもよる。比較的投票率の高い、高所得の層は、雇用対策をちゃんとやらなくても政府の自由主義的な経済政策を支持してくれる。これは、英米では特にそうなのだろう。


第1章の最後に、21世紀初頭における労働時間の短縮を予言したケインズについて、次のように述べられる。

結局彼が予期し得なかったのは、人間の競争本能でした。一方に、働く意欲を促進する競争的消費、他方に、労働強化をもたらす企業間、そして国家間の競争。(42ページ)

「競争激化社会」が第一章の分析の結論である。
でも、消費も競争なのかなあ。まあ、そうかもしれない。
いま世界経済がなんとかもってるのは、アメリカ人が大量の「陽気な浪費」を行ってるおかげだそうだ。
そんなに消費して楽しいのか、とも思うが、消費も競争も、たしかにそれがなかったら人生つまらないというところはある。ただ「形式」みたいになってしまうと、疲弊が先行するだけだろう。

二章まで書こうと思ったが、疲れたのでまた次回。