働くことと生きること

こちらも以前からお世話になっているid:demianさんの一月七日のエントリーは、多くの情報が整理されて提示されており非常に中身の濃い内容でした。

http://d.hatena.ne.jp/demian/20060107/p1


これを一覧すると、いまの日本社会が置かれている深刻な状況と、将来の厳しさがひしひしと伝わってきます。
という以上に、ここに書かれている事柄の多くは、ぼく自身にとっては身近というか、あまりにも切実なことでもあるので、逆に、ここでは書きにくい部分もあります。
なので、それは一応離れて、エントリーと紹介されている記事を読んでの一般的な感想をいくつか書くことにします。


① 第一に、今の社会のあり方について、「階級社会になってきている」とよく表現されることがありますが、これにはちょっと注釈が必要かと思います。
現在では、貧しい階層に生まれた子弟は、その階層から抜け出すことが難しい世の中になってきているということは事実で、先進国の多くに共通するそのメカニズムについては、ロナルド・ドーアの『働くということ』(中公新書)や宮本みち子の『若者が、《社会的弱者》に転落する』(洋泉社新書)などにも詳しく書かれているところです。
ただ、「階級社会」といっても、かつての「貴族社会」(イメージとしての)のような安定したものではない。どういうことかというと、一度「勝ち組」になってはい上がった者でも、不断に継続的に競争を続けないとずり落ちてしまうような構造になってるらしい。だから、成功して金持ちになっても、「余裕」とか「憐憫」とか「思いやり」が生じる余地というのは、たいへん少ない。
それについては、「ガ島通信」さんのこちらのエントリーにも関係してるかと思います。

http://d.hatena.ne.jp/gatonews/20060103


ところでドーアの本では、経営者が「株主への奉仕」を最優先課題として経営を行うようになったこと、「従業員主権企業」から「株主主権企業」への変化ということが、際限のない過当競争を企業に強いるようになったことが指摘されてたと思います。つまり、経営がうまくいって、十分な売り上げがあがったとしても、証券市場での会社の評価が他社よりも低くて株価が上がらなければ、株主を満足させることはできないので経営者にとっては不十分だ、という社会になった。
証券市場で認められて株価を引き上げるために、企業は労働者を犠牲にしても、過剰な競争を続けざるをえない現状になっている、という分析かと思います。
同じようなことは、国同士のレベルでもいえるようで、それぞれの国が自国の経済の「国際競争力」を重視するようになった。これは、国際金融市場で、その国の経済力の評価が高くないと、外国の投資家に投資をしてもらえなくなり、経済が苦しくなってしまうという状況であろうと思います。
だから、雇用や市場の安定を図って、実態としての国の経済を健全化するというよりも、海外の投資家たちに高く評価してもらえるような政策を打ち出し、「国際競争力」の優れた国として上位に「格付け」してもらうことが優先される。


結局、個人も企業も国家も、実態よりも他者(市場)の目による自己への評価、「格付け」の方を重視せざるをえない状況になっていて、そのために際限のない競争(リストラや規制緩和をともなう)を続ける不安定さを生きることになってるんだけど、これはある程度構造的にそこへ追い込まれている。
そういうことが見えてくるんじゃないかと思います。
他人から見たイメージや「格付け」に支配されて、それを自己が生きている現実や生活の内容よりも上位に置くという、これは「転移」的な心理構造といっていいと思うんだけど、社会全体が今はそうなってるわけで、そういう心理があるから、政党や企業の「イメージ戦略」みたいなものも物凄く有効に働く、ということは言えるんじゃないか。


② 感想の二つ目ですが、新自由主義が批判される場合、「労働の尊さ」みたいなものが対抗する価値基準としてあげられることに、ぼくは違和感があります。
ネオリベは、投資家などの不労所得を、労働による正規の所得よりも上位に見てしまうからよくない」というような言われ方ですね。
というのは、たとえばアメリカでブッシュ政権を支えてきた大きな基盤というのは、勤労と倹約を重視する生活をしてきた、プロテスタントプアー・ホワイトの人たちで、この人たちがクリントン政権がもたらしたグローバル化によって生じた「労働の価値の切り下げ」みたいなもの、つまり(外国人や非白人でも)金融やITで一瞬にして大金がつかめてしまうような社会のあり方に道徳的でもある反発を示し、それがブッシュ支持につながった。
「労働の尊さ」をイデオロギーとして唱えるということは、ネオリベ的・プロテスタント的な「自助」の思想に重なる可能性がある。つまり、どちらもプロテスタント的な道徳なわけだから。
新自由主義の対抗軸に「労働の価値」をもってくることには、問題があるように思います。
ロナルド・ドーアに戻って言うと、ドーアの立場というのは、「労働の価値(労働者の権利)」、「福祉国家」、「同質的な共同体の再建」という三つのものがセットになっていると思いますが、「新自由主義憎さ」に、そこへ走ってしまっていいのか、ということですね。


これは重要でもあり、ややこしいことでもあると思いますが、ここから少し考えてみます。
id:demianさんの上記のエントリーのなかで紹介されている、ワタリさんという方の非常に優れたエントリー

http://blog.goo.ne.jp/egrettasacra/e/6e2c92404318b83ec55babf1b168736f


で論じられていることに関連しますが、「労働の質」の問題ということが重要だと思います。
いま、多くの労働者、従業員やフリーターが強いられているのは、人が「バカになる」(上記のエントリーを参照)ような単純で過酷な労働である。単調で長時間強いられる労働のなかで、人は自分が置かれている状況や社会の構造に対する批判精神を失ってしまい、たんに奴隷のように労働に従事するだけの存在になってしまう。
これは、たとえばプリモ・レーヴィが書いていたような現象ですね。全体主義的な社会には多かれ少なかれ、こういう仕組みがある。
今の日本のような社会で「勤労道徳」を強調することには、貧しい人間をそうした「思考停止」に追い込んでしまうような危険性がたしかにある。これは、上に書いた「イメージ戦略」の政治的な有効性ということとつながるかと思います。
つまり、所得の低い人たちから、「考え、抵抗する」契機を奪うために、単調な労働による思考の剥奪が行われ、その後にイメージによる洗脳がなされるなら、これは非常に効果があるだろう*1
「労働の尊さ」というたぶん正しいテーゼから、この危険を除くためには、「創造的な労働」ということが追及されねばならない。労働をいかに人間の手に取り戻すか。


これは、「働くということ」を、資本の蓄積の役に立つ「勤労」ということと、どう切り離すかということだと思います。
実はドーアも、『働くということ』のなかで、そのことを書いていて、ネオリベの特徴である「働かざるもの食うべからず」の「勤労倫理」を批判していく必要があると書いている。
ぼくの場合、もっと極端で、たとえば、中国やインドやキューバ、それにカトリック諸国など世界中にあり、日本にも存在していた、「物乞い」の伝統というものを肯定するべきじゃないか、ということを思います
つまりある種の「不労所得」の価値を積極的に認めていくような社会にならないと、「働くということ」の本来の意味は回復できないし、ネオリベの流れに対抗することも無理なんじゃないか。
上に「創造的な労働」と書きましたけど、それは別の言い方をすると、「労働」(「生きるために働くこと」)という概念を、資本や国家の枠組みである「勤労」みたいなところに回収されないものとして創造し直す、ということだとも言える。


これが、感想の三つ目に関係します。
③ ネオリベの大きな特徴は、「社会保障の廃止」ということに求められるでしょう。
現在の「福祉の切捨て」という政策の方向には、もちろんぼくも反対です。
ただ重要なことは、社会福祉は根本的には制度の問題である以前に、社会の文化的な土台の問題であるべきだ、ということです。「物乞い」の伝統の復権、と言ったのはそれに関連します。
今おきていることは、国家というもののあり方が、「人を延命させる権力」から「人を延命させない権力」に変わったということじゃないかと思います。福祉国家も、反福祉国家も、どちらも権力であり、管理する力であることにはかわりがない。本当なら、社会福祉、つまり生きるために人同士がお互い助け合うという営みは、ここに頼るべきではない。
しかし現実には、国家という権力は、いやおうなくぼくたちから税金を徴収するわけで、そうである以上、その「分配」の仕方に関して、納税者は議論をする必要がある。社会保障、福祉制度をめぐる議論というのは、そういうことですね。


ただその場合でも、社会のベースに、「働くということ」や「人が生きていく」ということについてのどんな感じ方や考え方があるかということはたいへん重要で、それを考える上で、人は「働かなくてもいい」とは言わないけど(そう言ってしまうと、別の権力にからめとられることになるから)、「勤労」以外によっても生きる権利があるという共通認識をみんなの中に育んでいくことが肝心なんじゃないかと思います。
人が自分なりに努力して、食べるものを得て生きていくということの重さと中身を、もっと幅広く考えるようにすることが、大事ではないか。
「物乞い」は、資本や国家の役には立たないだろうけど、人が人とともに生きていくうえでは、「物乞い」する側にとっても、「施す」側にとっても、意義と温かみのある行為でありうるはずだ、と思うんですね。
そうした営みを容認するようなところから、この社会を作り直していけないか。
「社会」というものは、そこに生きる人たちの心のあり方を育む空間でもあるわけですから。
そうしたことによってしか、資本とか、国家(福祉国家を含めて)とか、ネオリベの流れというものには打ち勝てないのではないか。
そんなふうに思います。

若者が『社会的弱者』に転落する (新書y)

若者が『社会的弱者』に転落する (新書y)

*1:それと同時に、所得の高い人たちにも、上記の「競争」への脅迫観念が襲いかかります