生田武志『ルポ 最底辺』

ルポ 最底辺―不安定就労と野宿 (ちくま新書)

ルポ 最底辺―不安定就労と野宿 (ちくま新書)


この本のベースにあるのは、「あとがき」でも語られているように、「釜ヶ崎」などにおける著者の実存的な体験の歴史と呼べるものだ。
大学生のとき、『自分自身と世界との生きた接点が見つけ出せないという現実喪失感に苦しんでいた』(p020)という著者は、それらの場所でのさまざまな体験をとおして、その「接点」の在り場所を次第に見つけていったようにみえる。
ぼくが、とくに印象に残ったのは、次のような文章である。

そうすると、支援活動をして野宿者から「ありがとう」「うれしいです」と感謝されている自分は何なのかとも思えてきた。当たり前だが、親の金で生活しているような学生が、苦労を重ねた労働者に感謝される立場であるわけがない。こうして、釜ヶ崎に関わる自分のことがとんでもなく嘘くさく見えてきた。(p048)

(前略)釜ヶ崎での越冬でも、各地の路上や公園での夜回りでも、多くの野宿者が、支援者が及びもつかないような献身的な活動を長年にわたって続けていた。佐野章二にならって言えば、そうした「体験は、すごく人間を勇気づけたり変えてしまう」。そして、そうした人々の活動に関わりえたことはぼくにとっても「すごく素晴らしいし、ぼくの誇りでもある」。おそらく、そうした活動は社会の「ふたつの構造的貧困」を解決する糸口のひとつとなりえるはずである。(p241)


もちろん、「支援者」でないぼくが、支援者が当事者と自分を比較して謙虚に述べている上のような言葉を賞賛することに含まれる、欺瞞性*1は否定できない。
だが、すごく単純なことを言うようだが、他人の存在を見出すことによって、自分が何者であるのかを発見していく。その過程の積み重ねのなかで、自分が生きるべき現実の道を見つけていく。そういう、謙虚であり、受動的でもあり、同時にダイナミックでもある著者の生への姿勢というものが、これらの文章にうかがえると思ったのである。
そのことに、心をうたれる。


本書は、日雇労働者としての、また支援者・活動家としての著者自身の20年余りの体験をもとに、豊富な資料も駆使して、「日雇労働者の街」として知られる「釜ヶ崎」の過去と現在の姿を描き、そこに日本社会の現状の「縮図」を見出して、その将来の可能性までをさぐろうとする。
たいへんボリュームのある本で、全体を要約するのはぼくには無理だが、たとえば野宿者が置かれた現状を多方面から知り、行政や支援のあり方についても知識を得るといった実践的なことと同時に、多くの人にとって差し迫った課題であるはずの、現在の日本の「貧困」についての構造的な理解に近づくためにも役立つ本である。


釜ヶ崎」や野宿の人たちの現状と、行政のあり方をめぐる記述について、少しだけ紹介しよう。
たいへん驚かされたのは、野宿の人たちが、生活保護の制度を悪用する悪徳病院や金融業者の餌食となっている実態である。
その記述を読むと、野宿の人たちは、社会からの排除や偏見という「構造的暴力」(そのひとつの具体的なあらわれとして「襲撃」がある)を受けているだけでなく、より実際的にも不法な搾取による暴力の構造の犠牲になっているという印象を受ける。
そして生活保護は、本来の目的である困窮した人を救うためには容易に用いられず、悪徳業者や病院など(それらには、行政との癒着の疑いもある)が利益をむさぼる道具として利用されてしまっている現実があるのだ。
次のように著者が書くのは、もっともなことである。

中途半端な対策を続けて野宿を強い続けることによって、悪徳業者による生活保護費のピンハネ消費者金融による多重債務、病院による過剰な検査や転院などが多発する。それによって、税金が過剰に使われ続け、野宿者問題が深刻化し続けているのだ。(p179)


そうした観点から著者は、「公的就労」をはじめとするさまざまな野宿者に関する対策の必要性を説くのだが、じつは次のような著者の言葉は、これまで他の場所でも読んできたものだが、今回はじめてその意味をはっきり理解できたと思う。
「予算がかかりすぎる」などの理由で公的就労事業の実施・拡大を拒み続ける行政に反論して、著者はこう書いている。

しかし、「公的就労」と「生活保護」のちがいをひと言でいうと、「お金を渡して、なおかつ働いてもらう」か「お金を渡すだけ」かである。現在、行政は野宿者対策の「公的就労」に消極的なまま結果的に「生活保護」を増やし続けているが、それは「お金を渡して働いてもらう」代わりに「お金を渡すだけ」にするという究極の不効率政策なのだ。(p178)


つまり、困窮した人たちを救うための税金や予算が、実際にはそのために用いられず、違うところに流用されたり、非効率に使われたりする、行政の実態があるということだ。


このほか、野宿者の多くの主要な生業となっている空き缶などの収集を条例で禁止しようとする自治体が増えていることなで、深刻な実態が報告される。
また、たとえば女性野宿者をめぐる問題に、社会全体の縮図としての野宿者問題の本質的な要素を見出す考察(第5章)などは、もちろんきわめて重要なものだと思う。


そして言うまでもなく、日雇労働者や野宿者の現実は、現在と将来の社会では、ぼくたち多くの若者・中高年が直面する現実そのものとなりつつある。
その過酷な現実は、(言い方が難しいが)今や少なくとも「他人事」ではないのである。
「景気の回復」や「経済成長」が不安定就労や貧困、「ワーキングプア」の問題を、また野宿者の問題の解消をもたらすという幻想は、もはや成り立たないことがあきらかな時代になった。
常に一定の数の野宿者や、その予備軍というべき人たちが生み出され続ける社会システム。
そのなかでわれわれが置かれている状況を、著者は「経済的貧困」と「関係的貧困」のふたつの「構造的貧困」としてとらえ、それを脱却する方法をさぐろうとする。


本書が示唆しているように、今日の社会でわれわれは、さまざまな制度的な防護や枠組みを失い、バラバラな状態で貧困と不安と孤独のなかに投げ出されようとしている。
そのなかで、あらたな生と関係の構築が可能だとすれば、それは「他者」の存在の受容を通してでしかありえないだろう。そこにだけ、たしかに「生の世界」と呼べるような社会的な空間が切り開かれる可能性がある。
自分の生をとおして、そういう実感を得た人からの、これは愛にみちた呼びかけの書物といえるのではないかと思う。

*1:「支援」の意義を貶めて、支援者でないぼく自身の立場を正当化しようという