『魂の労働』・感情労働

渋谷望著『魂の労働』を読みながら考える、その第4回目。

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

今回も、本の内容の紹介と、自分の考えたこととの境目が分からない、不親切な文章になるが、お許し願いたい。どうもこんな書き方しかできない。


ぼくはスターバックスにしょっちゅう行くので、ここの店員さんたちの様子をウォッチするのを趣味にしている。この店の人たちは、マクドナルドの店員さんなどと比べると、「都会的」、「自立的」、「柔軟」といった雰囲気を感じることが多い。つまり、マニュアル的でないという印象だが、どこか居心地の悪さをこちらが感じてしまうのは、「マニュアル的でない」というマニュアルが出来上がっているということではないだろうか。
たぶんご本人たちは、マニュアルどおりにさせられているという窮屈な意識はさほどなく、むしろ楽しく働いていると思うのだが、あまりの爽やかさに異様な印象を受けるときもある。そして、傍目に見ていると、結構重労働に見えるのだが、それでも本当に生き生きとして自然さと明るさに溢れた接客を行っている。もう少しぎこちなかったり、頼りない感じであってもいいと思うほどである。「自立」していて、「やりがい」があって、「生き生きと楽しそう」でないと駄目なのか。つまり、仕事と人生がぴったり重なってないと駄目なのか。
スターバックスの店員さんたちの、さわやかで全人格的な労働の態度、決して「機械の歯車のように」ではなく、「自然で柔軟な自分自身のように」働いているという雰囲気を、ぼくが気味悪くさえ感じる理由は、一体なんなのだろうか。


この辺の非常に難しい問題に、鋭く切り込んでいるのが、『魂の労働』の同名の第1章である。

サービス業種の現状・「感情労働

ここでは、「感情労働」という聞きなれない言葉が紹介されている。
これは、特にサービス業や営業職などの職種において、労働者が顧客に対する場面で自己の感情をコントロールすることを強いられるのを、肉体労働や頭脳労働などと異なる、別種の労働としてとらえる概念らしい。
著者は、介護労働において、ボランティア的に見なされることによる社会的評価の高さと、家事労働と同様な「非専門職」的と見なされるが故の、労働としての社会的評価の低さ(低賃金)という二重性が表裏一体に存在すること(「無償の愛」という言葉に集約されてあらわれている)を指摘した後に、こうした二重性が社会全体のより多くの職種においても見られるという見方を示し、それを「感情労働」という概念を援用してとらえようとするのである。


感情労働」の例は、日常でたくさん思い浮かべられるが、目立つものは、看護婦や客室乗務員の仕事、ファーストフードの店員などのサービス業、それから営業の仕事などだろう。
著者によると、このような種類の労働の大きな問題点は、次の点にある。

産業労働者が自己の労働を、自己の感情とは切り離すことのできる<商品>として扱うのに対して、介護労働や感情労働に従事する者は、介護される側(顧客)との長期、短期的な信頼関係にコミットしているがゆえに、十全にその感情労働を商品化することができない。(30〜31ページ)

このように労使関係に顧客との関係が介在するため、感情労働に従事する者は、産業労働者のように、商品化されたものとして労働を自己からクールに切り離す態度や、労働条件をめぐって経営者とラディカルに対決するインセンティブが削がれていくわけである。(32ページ)


最近サービス業の店などでは、開店前に周辺を掃除したり、地域に対する奉仕作業を通じて従業員に仕事との一体化を要請するところが増えているらしい。「商品としての労働」という範囲が曖昧になり、賃労働化されない部分を含めた生と生活の全体が、産業や社会全体の論理のなかに取り込まれていく、という動きが起きていると考えられる。
感情労働」の問題が示唆しているのは、どうやら人々が近代的な「労働」概念と社会システムから遠ざけられて、「奉仕活動」という形で社会のなかに個人的な生と生活を溶解させていくような、新しい労働と社会的な生のあり方であるらしい。

産業労働者の現場の変化・「顧客のために」

著者によれば、自己の感情をコントロールする要請は、サービス業の労働者にのみ向けられたものではなく、特に製造業の産業労働者にも向けられているものであることが重要である。
それは、「顧客による経営管理」と呼ばれる、高度消費社会における品質管理のあり方のことを指している。

高い「クオリティ」への顧客の「ニーズ」という指令は、経営者、労働者双方の垣根をいともたやすく取り払う。(中略)こうしてそれは労働者の「経営参加」を要請し、労働者が自らの感情に働きかけて「自発性」を引き出すよう促すのである(34〜35ページ)

このことは、工場における産業労働者が、<感情労働者>へといわば作り変えられたことを意味しているのではないだろうか。(中略)ここでも労働者は、<感情労働者>と同じようにもはや自分の労働を自己の全人格から切り離すことは困難となる。(中略)労働者の全人格が企業へと包摂される危険をともなう。(36〜37ページ)


こうした、品質管理のための産業労働者の感情管理のテクノロジーについて、さらに次のように述べられる。

このようにテクノロジーは労働者が自分の労働力をたんなる<商品>としてクールに切り離し、資本に売却すること以上の何かを要求する。そこで要求されているのは、個人の<実存>や<生>そのものの次元とでも呼ぶべきものを生産に投入することであろう。(39ページ)


「お客さんのために」という言葉によって、「労働力という商品」を賃金と交換している労働者、という自己意識は薄らぎ、「サービス残業」にも抵抗しにくい雰囲気が作られていく。
このことは、このブログに何度も書いてきたが、消費者や利用者の存在が、経営者にとって、労働者に低賃金で長時間働かせ、生産性を高めるための「記号」として用いられていることは、今の社会全体の構造だと思う。
「お客さんのために」というのは、結局「売れるために」ということだと思うのだが、そういう資本の論理むき出しの言い方はされない。そういう言い方をしないことによって、労働者が企業に自分たちの要求を突きつけにくくなるのと同時に、「労働」の概念がこれまでとは別のものへとすりかわることになるのだ。

賃労働から奉仕へ

ここでは労働が、「〜のために」というボランティアの論理で語られている点に特徴があると思う。まるで労働に賃金という代償を求めることがエゴであるかのようだ。
「お客さんのために」、現場の労働者は自分の生活を犠牲にして奉仕すべし。これが、今日の資本の論理ということになろう。
介護労働や「感情労働」が、賃労働として評価が低いということの持つ重大な意味はここにありそうだ。介護は元来利用者のためのボランティアなのだから、金銭など要求すべきでない。同様に、「お客さんのため」の労働という言葉が含意しているのは、ボランティアとしての労働ということだ。「労働」が、「賃労働」を離れ、「奉仕活動」に呑み込まれていく。
そして、「お客さん」(消費者、利用者)とは誰なのか。それは結局社会全体ということに通じる。
いまや「企業のために」という戦後日本経済を支えた労働の論理に変わって、「社会全体のために」という奉仕活動の論理が、社会統合の旗印になる。

公共機関への波及・生の労働化がもたらすもの

実際こうした問題は、『感情労働を社会全体がいかにして動員・搾取するか』という一般的なテーマにつながると、著者は指摘する。それは、たとえば企業ばかりでなく、「民営化」されつつある公共機関にも、「顧客(利用者)のニーズ」を口実にした、こうした労働者の感情管理と、生そのものの支配のテクノロジーが浸透しつつあるからだ、という。
なるほど、これはよく分かる。
公共サービス機関の「民営化」が意味しているものは、競争経済のなかでの採算や効率至上主義ということだけでなく、「サービスの質」の強調、つまり「感情管理のテクノロジー」の社会全体への拡大ということなのだろう。
公務員もファーストフードのアルバイト店員も、全人格的な低賃金労働を、つまり「奉仕」としての労働を要請される社会になりつつある。「誰かのために」生き生きとして奉仕する人々、これが新しい社会統合のモデルである。そういうことではないか。


こうして、感情労働者の管理のテクノロジーは、現在では社会全体を覆う社会秩序のテクノロジーとして機能していることが示されるのである。
それは人々に、生き生きとして企業や社会全体のために奉仕することを、自然な感情として要求する。いわば、生の労働化。個人は全体のなかにより完全に溶け込むことが要求される。生活全体、意識全体が「奉仕」的な性格を帯びた労働に捧げられることが要求され、それに抵抗を感じることは、悪しきエゴイズムに過ぎないという倫理観が支配的となる。
このことは、社会や国家に対する人間の参加と帰属の意識を、近代以後の「市民社会」的なものから変容させるだろう。
著者が強調する「生の労働化」は、重大な帰結をもたらすことになる。