『日本の、これから』補足

きのうのこのエントリーだが、あまりにも言葉が足らなかったと思うので、若干補足しておきたい。


たとえば議論のなかで、堀江氏は、自分が特別に恵まれた階層の出身ではなく、ものすごく努力を重ねてきたこと、そしてチャンスを逃さずつかんだことによって成功したのだということを強調する。そこから、いまの世の中は誰でも努力すれば大きな成功をつかむ道が開かれている社会、すくなくともその方向に向かっているのだと結論する。同様の見解を、何人かの成功した若手実業家のような人たちが示し、収入に格差があったり就職先を見つけられなかったりするのは、結局本人の努力が足りないからだという主張を行う。
彼らが人並み以上の努力をしたというのは事実だろうが、同じほど努力をしても報いられない人はたくさんあるだろう。つまり、自分のケースが、非常に稀な成功例であった可能性はあるわけで、「自分は努力した結果成功した」という自己の体験だけから、世の中が機会均等的な社会になっているかどうかの、一般的な判断を下すのは、論理が飛躍している。
自分の経験や立場からしか世界が見えていないように思える、というのはそういう意味。
自己の経験という個別的なところから、社会全体についての判断へとダイレクトに跳んでしまえることが、ぼくには不思議だった。


一方、「今の社会は不平等」と主張する人たちも、多くは自分や周囲の人たちの失敗した体験を、やはり普遍的なもののように考えている。ひょっとして、自分が堀江氏のような成功者になっていたかもしれないという可能性を、本当には想像できていない。だから、成功した人たちに対して、「あんたのような成功者には分からない」という発言が簡単に出来る。こう言われて堀江氏はかなり怒っていたが、たしかにちょっとひどい。
要するに、自分と相手の立場が入れ替わっていてもおかしくないということを、現実的に想像できないのだ。だから、自分の体験だけが絶対的であると信じ、それとは異質な体験をした人たちとの相互理解の可能性が初めから排除されてしまう。お互いに、相手側の現実認識を、それは違う、特殊な例外にすぎない、と言い合う形にしかならない。


結局のところ、誰もが、自分の体験を絶対的・普遍的なもののように思い、社会全体についての客観的な認識へとダイレクトにむすびつけてしまっている。他人同士が議論を交わすための、大事な何かが欠落している。
ぼくは、日本が貧富の差の大きい階層社会のようになっていくことは、いいことでも悪いことでもありうると思っているが、このある種の想像力の欠落だけは、非常に怖いと思う。
斉藤貴男は、番組の中でいまの日本は19世紀のヨーロッパの社会のようになってきていると語っていて、それはその通りだと思うが、この想像力の欠落は19世紀に起きていたこととは別の事態ではないか、という気もする。アメリカの社会で先に起きているのは、この事態ではないだろうか。


ここで欠落している想像力は、「他人の痛みが分かる」といった同一化の能力とは別のものだろう。アーレントが言ったように、同一化の能力というのはいい面も悪い面もあるが、ここではもっと根本的な何かが欠けているのだ。
それは、自己の生の体験と他人の生の体験とが入れ替わっていたかもしれないという可能性を、想像する力の欠如、ではないかと思う。
このことについては、前にも触れた『自由を考える

自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

自由を考える―9・11以降の現代思想 (NHKブックス)

という本の大きなテーマのひとつになっていたと思う。あの本では、この「入れ替わっていたかもしれないという可能性」が、(根源的)偶有性と名づけられ、「環境管理型権力」に支配された現代の社会は、この生の偶有性に対する感覚を失わせることによって、人と人との絆を成立させにくくする社会である、ということが言われていた。

偶有性の縮減は他人どうしの共感を断ち切ってしまう。フィルタリングがそれを強化する。島宇宙化が進むと、僕は彼/彼女であったかもしれない、という交換可能性の想像力が及ぶ範囲が極端に狭くなってしまう。          (同書 東浩紀の発言から)

この話は、正直以前読んだときにはそれほどピンと来なかったのだが、土曜日の番組を見ていて、まさにこのように危惧されていたことが、すっかり現実になろうとしているのだという思いがしたのだ。
本当に、何か大事なものが「縮減」しているという感じが強くした。


それと、きのう競馬場の比喩を使ったが、やはり議論を見ていて、お互いに怒るべき相手は別にいるだろう、という気が強くした。
ああいうふうに「勝ち組」「負け組」に分かれて対立するような構図を設えている、番組のあり方自体が非常にネオリベ的というのか、NHKらしい(政府の方針の後押し)というのか、嫌な感じがした。


それともう一点、あの番組のなかで、ぼくが一番印象的だったのは、30代前半のフリーターの人で、バーテンダーなどの修行をずっと重ねてきたが、道が閉ざされ、いまは就職できる望みもあまりなく、バイト先も探すことが困難だと語るこの人は、これまでの人生を振り返って「無駄な時間でしかなかった」と言い切った。この率直さに、心を打たれた。
たしかに、誠実に現実を見詰める人にとっては、この言葉に代えうる真実はないだろう。
だが、同時にこの人にこういう言葉を吐かせる現実の力とはどういうものか、誰がこの人の人生を「無駄な時間」と思えるものにしてしまったのか、そのことも考える。
この人は、なけなしのお金をはたいて買ったライブドアの株券を、「自分の夢」として大事にしている、と言っていた。この人のなかでは、自分と同年齢の堀江氏とがあるところで重なっているのだろう。そのことをどう考えるか。この人ではないわれわれには、それをどうこう言う資格はないだろう。ただ、「自分の夢」と呼べるものをどこに求めるべきか、自分自身に問い直すことが出来るだけだ。